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NO.11 おやすみ

 マンションの部屋に入った瞬間、伊織は思っていた以上に体が重いことに気づいた。


 玄関でパンプスを脱ぎ捨て、バッグを床に置く。

 それだけで、どっと疲れが押し寄せてきた。


 会社に戻る気はあった。

 けれど、部屋の空気に触れた途端、張っていた糸が切れたように力が抜ける。


 伊織は着替える気力もないまま、ソファへ倒れ込んだ。


「……疲れた」


 小さく呟いて、目を閉じる。


 頭の奥はまだ少し重い。

 けれど、代々木で感じたような痛みはだいぶ引いていた。


 このまま少しだけ寝よう。

 そう思ったところで、ふと環の声がよみがえる。


 家ついたら連絡して。

 伊織は薄く目を開けた。


「……あ」


 忘れていた。

 連絡しなかったら、あとで絶対に何か言われる。

 それが簡単に想像できてしまうのが、また癪だった。


 伊織はソファに沈んだまま、バッグからスマートフォンを取り出す。


 久世環のチャット画面を開いて、少しだけ指を止めた。

 何と送ればいいのか、一瞬迷う。


 帰りました。

 無事です。

 もう大丈夫です。

 どれも違う気がする。


 結局、伊織は事務的な文面を打った。


『着きました。今日はご迷惑をおかけしてすみません』


 送信した瞬間、すぐに既読がついた。


「早……」


 思わず声が漏れる。

 数秒もしないうちに、返信が届いた。


『よかった。ご飯は食べた?』


 伊織は画面を見つめた。


 食べていない。

 というより、今まさにこのまま寝ようとしていた。

 正直にそう返したら、また何か言われるに決まっている。


 伊織はしばらく画面を見たあと、渋々返信を打った。


『今からです』


 送ってから、ソファに顔を埋めたくなった。


 久世環の言う通りに動いている。

 それが、少しだけ癪だった。


 けれど、言ってることが正しいのもわかる。


「……面倒くさい」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、伊織はゆっくり起き上がった。


 冷蔵庫を開けると、中はひどいものだった。

 飲みかけの水。

 使いかけの卵。

 あとは、いつ買ったのか曖昧なヨーグルト。


 まともな食材と呼べるものはほとんどない。


 どうせ毎日、不健康な生活してるんでしょ。

 環の声が頭をよぎる。


「……そんなことないし」


 小さく言い返してみる。

 けれど、冷蔵庫の中身はまったく味方をしてくれなかった。


 伊織は諦めて冷凍庫を開ける。

 奥に、ラップで包んだ冷凍ご飯が一つ残っていた。

 それを見つけた瞬間、少しだけ救われた気がした。


 鍋に水を入れ、冷凍ご飯を放り込む。

 火をつけて、崩しながら温める。

 簡単な味付けをして、最後に卵を落とした。


 ちゃんとした料理とは言えない。

 それでも、湯気の立つ雑炊は、今の体にはちょうどよさそうだった。


 伊織はテーブルにつき、少しずつ口へ運ぶ。


 熱い。薄い。

 でも、悪くない。


 食べ進めるうちに、体の奥が少しずつ温まっていく。

 重たかった頭も、さっきより楽になってきた気がした。


「……なんか、元気になってきたかも」


 呟いてから、伊織は眉を寄せる。

 環の言う通りにしたら、実際に少し回復してしまった。

 それがまた、悔しい。


 食べ終えてから、伊織は少し休み、シャワーを浴びた。

 汗と外の熱が流れていく。


 鏡に映った顔は、まだ少しだけ色が薄い。


 ふと、先ほどのベンチを思い出す。

 冷たいスポーツドリンクを差し出してきた環の手。

 わざわざキャップまで開けて。


 別に、そこまでされなくても大丈夫だったのに。


 心配された。

 たぶん、そうなのだと思う。

 でも、それを素直に受け取るには、相手が悪い。


 弱みを握って、脅してきた男だ。


 それなのに。

 あの男の事を思うと胸の奥が妙にむずむずした。


「……何なの、本当に」


 伊織はシャワーの音に紛らわせるように、小さく息を吐いた。


 風呂から上がり、部屋着に着替える。

 時計を見ると、まだ三時半を少し過ぎたところだった。


 いつもなら、まだ普通に会社で働いている時間。

 それなのに、今日はもうベッドに入ろうとしている。


 不思議な感じだった。

 少しだけ、世界から外れたような。


 伊織はスマートフォンを枕元に置き、布団に潜り込む。


 今日は、久世環の言う通りにしすぎている。

 家に帰って、連絡して、ご飯を食べて、寝る。


 それが悔しい。

 悔しいのに、体は正直で、瞼はすぐに重くなった。


 伊織は抵抗する間もなく、そのまま眠りに落ちた。


***


 次に目が覚めた時、部屋は薄暗くなっていた。

 カーテンの隙間から、夜の気配が入り込んでいる。


 頭痛はかなり引いていた。体の重さも、昼よりずっとましになっている。


 伊織はぼんやりと天井を見てから、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。

 画面をつけると、環からメッセージが届いていた。


『本当にちゃんと食べた?』

『明日10時から打ち合わせあるけど、無理しないで』


 伊織はしばらく画面を見つめる。

 まだ疑われている。

 そう思うと少しむっとした。


 けれど、心配されているのも分かる。

 伊織は仰向けのまま、返信を打つ。


『雑炊食べました』

『もうだいぶ良くなったので、明日は問題なく行けます』


 少しして、すぐに返信が来た。


『了解。早く寝な』


 いつもなら、少し腹が立つような命令口調。

 でも今日は、なぜかそこまで刺々しく受け取れなかった。


 伊織は少し迷ってから、短く返す。


『はい。おやすみなさい』


 送信してから、少しだけ恥ずかしくなる。


 おやすみなさい。

 上司に送るには、少し距離が近い言葉だったかもしれない。


 けれどすぐに、環から返信が届いた。


『おやすみ』


 たった四文字。

 それだけ。


 伊織は画面を数秒見つめたあと、スマートフォンを伏せる。


 昼間の気遣いも、家に帰ってからの連絡も。

 どれも大したことではない。


 たぶん、仕事の範囲。

 上司としての心配。

 そう思うのに、胸の奥が少し落ち着かない。


 それ以上考えるのはやめた。

 考えたところで、きっと答えは出ない。


 伊織は布団を少しだけ引き上げ、目を閉じる。


 画面に残った「おやすみ」の四文字だけが、なぜかいつまでも頭の端に残っていた。

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