NO.12 金曜の夜、ライブハウスへ
翌朝、伊織は思っていたよりもすっきり目を覚ました。
カーテンの隙間から入る朝の光が、いつもより少し眩しい。
体を起こしてみても、昨日のような頭の重さはほとんどなかった。
久しぶりに、あんなに寝た気がする。
環に言われた通りにした結果、普通に調子がいい。
それが、少しだけ癪だった。
「……別に、久世さんに言われたからじゃないし」
誰に聞かせるわけでもなく呟いて、伊織はベッドから出た。
十時から打ち合わせがある。
昨日の分も確認したかったので、九時には会社に着くように支度を始めた。
朝食も軽く食べた。
体調管理。仕事のため。
そう自分に言い聞かせながら、伊織は部屋を出た。
***
九時少し前にオフィスへ着くと、社内はまだ少し静かだった。
電話の声も少なく、キーボードの音もまばらだ。
伊織は自分の席に着き、パソコンを立ち上げる。
昨日、残して帰った急ぎの確認事項を開いた。
その瞬間、指が止まる。
処理済みになっている。
メールの返信も、確認依頼も、昨日自分が手をつけるはずだったものが、いくつか片付いていた。
え。
片付いてる?
「おはようございます。あれ、片瀬さん今日早いですね!」
ちょうど出社してきた菜々子が、隣の席にバッグを置きながら声をかけてきた。
「体調、大丈夫ですか?」
「あ、おはようございます。はい、おかげさまで」
「よかったです」
菜々子がほっとしたように笑う。
伊織は画面へ視線を戻し、少し迷ってからパソコンを指さした。
「……あの、これって」
「ああ!昨日、急ぎのだけ久世さんが対応してました」
「久世さんが……」
「はい。片瀬さんが今日確認すればいいようにって」
菜々子は自分の椅子を引きながら、少しだけ声を弾ませる。
「そういうこと、さらっとできちゃうところがかっこいいですよね〜」
「……そうですね」
伊織は曖昧に返しながら、画面を見る。
残業覚悟みたいなことを言っていたくせに。
なんだよ、それ。
また、やられた。
伊織は小さく息を吐き、処理済みになっている項目を確認していった。
昨日の遅れを取り戻すつもりで、多少の残業も覚悟していた。
けれど、これなら思ったより早く終わりそうだ。
助かったことには変わりない。
それなのに、なんだか落ち着かない。
しばらく作業をして、ふと時計を確認すると十時すこし前になっている。
会議室に向かうため荷物をまとめていると、環が伊織の席にやってきた。
「おはよう。体調どう?」
「もう大丈夫です。昨日はありがとうございました」
「そう。顔色も戻ってるね」
環は伊織の顔を軽く見て、満足そうに口元をゆるめた。
「俺の言うこと、ちゃんと聞いたからだな」
「……別に、久世さんに言われたからでは」
伊織が少しだけ視線を逸らして答えると、環は楽しそうに笑った。
たぶん、分かっていて言っている。
こちらがむっとするところまで含めて、全部。
「偉い」
「……」
伊織は返事をせず、むすっとしてパソコンの画面へ視線を戻した。
けれど、処理済みになった項目を見ると、そのまま黙っているわけにもいかない。
伊織は少しだけ間を置いて、言いづらそうに言った。
「昨日の急ぎの件、久世さんが対応してくださったって聞きました」
環は何でもないように答える。
「急ぎのだけね」
「……ありがとうございます」
「俺が帰らせたから」
それだけ言って、環は手元の資料を持ち直した。
「じゃあ、行こうか」
恩着せがましくもない。
そういうところが、本当にずるい。
伊織はそれを口には出さず、ノートパソコンと資料を持って立ち上がった。
***
会議室に入ると、榊原と三枝がすでに席についていた。
昨日、外出する前に軽く挨拶はしている。
けれど、その時は名前と部署を確認したくらいで、ちゃんと話したわけではなかった。
伊織が入ると、榊原がぱっと顔を上げる。
「片瀬さん、昨日大丈夫でした?」
その声があまりにもまっすぐで、伊織は少しだけ驚いた。
「え、あ、はい。もう大丈夫です」
「よかったー。久世さんが直帰にしたって言ってたので、ちょっと心配してました」
榊原はほっとしたように笑う。
年下らしい明るさがあって、人懐っこい。変に探る感じがないので、こちらも構えずに済む。
三枝もやわらかく微笑んだ。
「昨日、暑かったですもんね。この時期の外って、思ったより疲れますよね」
「すみません、ご心配おかけしました」
「謝ることじゃないですよ。今日は無理しないでくださいね」
その自然な言い方に、伊織は少しだけ肩の力が抜けた。
榊原が環を見る。
「初日から久世さんに連れ回されたら、そりゃ疲れますよね」
「人聞き悪いな」
「え、違いました?」
環が軽く眉を上げ、榊原は悪びれずに笑う。
三枝も小さく笑っていて、会議室の空気が少しだけゆるんだ。
伊織は席に座りながら、この二人とはまだほとんど話していないのに、思っていたより居づらくないなと思った。
環が資料を開く。
「じゃあ早速だけど、昨日の代々木を踏まえて、今後の方向性を共有します」
今回の販売促進イベントは、音楽と酒を軸に全国を回る形で進める。
飲める人も飲めない人も、同じ場で楽しめる見せ方にする。
そのうえで、開催地ごとの特色を足していく。
初回の代々木は、音楽と外の開放感を前に出す。
榊原は資料を見ながら、素直に頷いていた。
「全国で回るなら、場所ごとの色が見える方が楽しそうですね」
三枝も続ける。
「同じ商品でも、場所によって持ちたくなる理由が変わりますもんね」
伊織は、自分の思いつきの案が素直に受け止められていることが、すこしだけ気恥ずかしかった。
環は資料を一枚めくる。
「それで、大野さんから共有がありました」
全員の視線が資料へ向く。
「今週金曜、新宿のライブハウスで、代々木フェスに出演候補のバンドが出ます。店には大野さんの会社の商品も一部入っているそうです」
榊原がぱっと顔を上げた。
「え、ライブハウス視察ですか!?僕も行きたいです」
三枝がやさしく笑う。
「榊原くんは、その日私と打ち合わせ」
「あ、そうでした……残念」
あからさまにしょんぼりする榊原に、三枝が少し困ったように笑う。
「次、行ける機会があったら行きましょう」
「はい……」
そのやり取りを横目に、環が伊織を見る。
「片瀬さん、行ける?」
伊織は一瞬、返事が遅れた。
予定はないけど……。
環と二人で新宿のライブハウス。
あの店で会った最初の日を思い出してしまう。
「……はい、大丈夫です」
承諾はしたものの、内心は複雑だった。
「じゃあ、金曜夜。詳細はあとで送る」
環はさっと決めて、次の話に移っている。
会議はその後、確認事項を軽く整理して終わった。
榊原は最後までライブハウス視察に未練があるようだったが、三枝に「打ち合わせ終わらせましょうね」とやさしく言われて、素直に頷いていた。
会議室を出る前、環が伊織に声をかけた。
「金曜日、楽しみだね」
「……仕事で行くだけです」
「そうだね。仕事」
環はあっさり頷いたくせに、口元だけ少し笑っていた。
「また夜の片瀬さんが見られるのかなと思って」
「……っ、やめてください」
「何を?」
「その言い方です」
伊織が睨むと、環は悪びれもせずに笑った。
「いや、ごめん。でも本当楽しみ。あとで詳細送っとくから」
「……分かりました」
「じゃあ、あんまり無理しすぎないで」
軽い声だった。
けれど、その一言だけは、からかいとは少し違って聞こえた。
返事に迷っているうちに、環は先に会議室を出ていく。
伊織は資料を抱え直しながら、その背中を見送った。
別に、楽しみじゃないし。
心のなかで言い訳している時点で、もう無駄だったのかもしれない。




