表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

NO.12 金曜の夜、ライブハウスへ

 翌朝、伊織は思っていたよりもすっきり目を覚ました。

 カーテンの隙間から入る朝の光が、いつもより少し眩しい。


 体を起こしてみても、昨日のような頭の重さはほとんどなかった。


 久しぶりに、あんなに寝た気がする。


 環に言われた通りにした結果、普通に調子がいい。

 それが、少しだけ癪だった。


「……別に、久世さんに言われたからじゃないし」


 誰に聞かせるわけでもなく呟いて、伊織はベッドから出た。

 十時から打ち合わせがある。


 昨日の分も確認したかったので、九時には会社に着くように支度を始めた。


 朝食も軽く食べた。

 体調管理。仕事のため。


 そう自分に言い聞かせながら、伊織は部屋を出た。


***


 九時少し前にオフィスへ着くと、社内はまだ少し静かだった。


 電話の声も少なく、キーボードの音もまばらだ。

 伊織は自分の席に着き、パソコンを立ち上げる。


 昨日、残して帰った急ぎの確認事項を開いた。


 その瞬間、指が止まる。


 処理済みになっている。


 メールの返信も、確認依頼も、昨日自分が手をつけるはずだったものが、いくつか片付いていた。


 え。

 片付いてる?


「おはようございます。あれ、片瀬さん今日早いですね!」


 ちょうど出社してきた菜々子が、隣の席にバッグを置きながら声をかけてきた。


「体調、大丈夫ですか?」


「あ、おはようございます。はい、おかげさまで」


「よかったです」


 菜々子がほっとしたように笑う。


 伊織は画面へ視線を戻し、少し迷ってからパソコンを指さした。


「……あの、これって」


「ああ!昨日、急ぎのだけ久世さんが対応してました」


「久世さんが……」


「はい。片瀬さんが今日確認すればいいようにって」


 菜々子は自分の椅子を引きながら、少しだけ声を弾ませる。


「そういうこと、さらっとできちゃうところがかっこいいですよね〜」


「……そうですね」


 伊織は曖昧に返しながら、画面を見る。


 残業覚悟みたいなことを言っていたくせに。

 なんだよ、それ。


 また、やられた。


 伊織は小さく息を吐き、処理済みになっている項目を確認していった。


 昨日の遅れを取り戻すつもりで、多少の残業も覚悟していた。

 けれど、これなら思ったより早く終わりそうだ。


 助かったことには変わりない。

 それなのに、なんだか落ち着かない。


 しばらく作業をして、ふと時計を確認すると十時すこし前になっている。


 会議室に向かうため荷物をまとめていると、環が伊織の席にやってきた。


「おはよう。体調どう?」


「もう大丈夫です。昨日はありがとうございました」


「そう。顔色も戻ってるね」


 環は伊織の顔を軽く見て、満足そうに口元をゆるめた。


「俺の言うこと、ちゃんと聞いたからだな」


「……別に、久世さんに言われたからでは」


 伊織が少しだけ視線を逸らして答えると、環は楽しそうに笑った。


 たぶん、分かっていて言っている。

 こちらがむっとするところまで含めて、全部。


「偉い」


「……」


 伊織は返事をせず、むすっとしてパソコンの画面へ視線を戻した。


 けれど、処理済みになった項目を見ると、そのまま黙っているわけにもいかない。


 伊織は少しだけ間を置いて、言いづらそうに言った。


「昨日の急ぎの件、久世さんが対応してくださったって聞きました」


 環は何でもないように答える。


「急ぎのだけね」


「……ありがとうございます」


「俺が帰らせたから」


 それだけ言って、環は手元の資料を持ち直した。


「じゃあ、行こうか」


 恩着せがましくもない。

 そういうところが、本当にずるい。


 伊織はそれを口には出さず、ノートパソコンと資料を持って立ち上がった。


***


 会議室に入ると、榊原と三枝がすでに席についていた。


 昨日、外出する前に軽く挨拶はしている。

 けれど、その時は名前と部署を確認したくらいで、ちゃんと話したわけではなかった。


 伊織が入ると、榊原がぱっと顔を上げる。


「片瀬さん、昨日大丈夫でした?」


 その声があまりにもまっすぐで、伊織は少しだけ驚いた。


「え、あ、はい。もう大丈夫です」


「よかったー。久世さんが直帰にしたって言ってたので、ちょっと心配してました」


 榊原はほっとしたように笑う。

 年下らしい明るさがあって、人懐っこい。変に探る感じがないので、こちらも構えずに済む。

 三枝もやわらかく微笑んだ。


「昨日、暑かったですもんね。この時期の外って、思ったより疲れますよね」


「すみません、ご心配おかけしました」


「謝ることじゃないですよ。今日は無理しないでくださいね」


 その自然な言い方に、伊織は少しだけ肩の力が抜けた。

 榊原が環を見る。


「初日から久世さんに連れ回されたら、そりゃ疲れますよね」


「人聞き悪いな」


「え、違いました?」


 環が軽く眉を上げ、榊原は悪びれずに笑う。

 三枝も小さく笑っていて、会議室の空気が少しだけゆるんだ。


 伊織は席に座りながら、この二人とはまだほとんど話していないのに、思っていたより居づらくないなと思った。


 環が資料を開く。


「じゃあ早速だけど、昨日の代々木を踏まえて、今後の方向性を共有します」


 今回の販売促進イベントは、音楽と酒を軸に全国を回る形で進める。

 飲める人も飲めない人も、同じ場で楽しめる見せ方にする。

 そのうえで、開催地ごとの特色を足していく。

 初回の代々木は、音楽と外の開放感を前に出す。


 榊原は資料を見ながら、素直に頷いていた。


「全国で回るなら、場所ごとの色が見える方が楽しそうですね」


 三枝も続ける。


「同じ商品でも、場所によって持ちたくなる理由が変わりますもんね」


 伊織は、自分の思いつきの案が素直に受け止められていることが、すこしだけ気恥ずかしかった。


 環は資料を一枚めくる。


「それで、大野さんから共有がありました」


 全員の視線が資料へ向く。


「今週金曜、新宿のライブハウスで、代々木フェスに出演候補のバンドが出ます。店には大野さんの会社の商品も一部入っているそうです」


 榊原がぱっと顔を上げた。


「え、ライブハウス視察ですか!?僕も行きたいです」


 三枝がやさしく笑う。


「榊原くんは、その日私と打ち合わせ」


「あ、そうでした……残念」


 あからさまにしょんぼりする榊原に、三枝が少し困ったように笑う。


「次、行ける機会があったら行きましょう」


「はい……」


 そのやり取りを横目に、環が伊織を見る。


「片瀬さん、行ける?」


 伊織は一瞬、返事が遅れた。


 予定はないけど……。


 環と二人で新宿のライブハウス。

 あの店で会った最初の日を思い出してしまう。


「……はい、大丈夫です」


 承諾はしたものの、内心は複雑だった。 


「じゃあ、金曜夜。詳細はあとで送る」


 環はさっと決めて、次の話に移っている。

 会議はその後、確認事項を軽く整理して終わった。


 榊原は最後までライブハウス視察に未練があるようだったが、三枝に「打ち合わせ終わらせましょうね」とやさしく言われて、素直に頷いていた。


 会議室を出る前、環が伊織に声をかけた。


「金曜日、楽しみだね」


「……仕事で行くだけです」


「そうだね。仕事」


 環はあっさり頷いたくせに、口元だけ少し笑っていた。


「また夜の片瀬さんが見られるのかなと思って」


「……っ、やめてください」


「何を?」


「その言い方です」


 伊織が睨むと、環は悪びれもせずに笑った。


「いや、ごめん。でも本当楽しみ。あとで詳細送っとくから」


「……分かりました」


「じゃあ、あんまり無理しすぎないで」


 軽い声だった。

 けれど、その一言だけは、からかいとは少し違って聞こえた。


 返事に迷っているうちに、環は先に会議室を出ていく。

 伊織は資料を抱え直しながら、その背中を見送った。


 別に、楽しみじゃないし。


 心のなかで言い訳している時点で、もう無駄だったのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ