NO.16 やさし距離が、一番苦しい
月曜日の朝、伊織はいつもの時間に出社した。
土曜の夜、ミナに話を聞いてもらえたことで、アヤトのことは少しだけ落ち着いた。
ただ、ひとつだけ余計な言葉が残っている。
あんな奴より、イオリにはいまいい男いるじゃん。
上司だよ。
思い出した瞬間、伊織は小さく眉を寄せた。
久世環は、そういう相手ではない。
少なくとも、そんなふうに考えるべき人ではない。
けれど。
……金曜日、少し強く言いすぎたかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
久世さんには関係ないですよね。
踏み込まれたくなくて線を引いたのは、自分の方だ。
それなのに、いざ会社で顔を合わせるとなると、どういう顔をすればいいのか分からない。
伊織はパソコンを立ち上げながら、小さく息を吐いた。
***
会議室には、すでに榊原と三枝が来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます、片瀬さん」
榊原が明るく返す。
三枝も資料を揃えながら、やわらかく微笑んだ。
ほどなくして、環が入ってくる。
「おはようございます」
伊織が声をかけると、環はいつも通り軽く頷いた。
「おはよう。じゃあ、始めましょう」
環はそう言って、すぐに資料へ視線を落とした。
声も、表情も、いつも通りだった。
必要な資料を確認して、会議の進行に意識を向けている。
ただ、伊織の方へ余計な視線を寄越さない。
それだけのことなのに、なぜか胸の奥に小さく引っかかる。
伊織は気づかないふりをして、ノートパソコンを開いた。
「ライブハウス、どうでした?」
榊原が資料を開きながら、前のめりに聞いた。
伊織は仕事の顔に戻る。
「思ったより、低アルやノンアルを飲んでいる人がいました」
「本当ですか!」
「それ、かなりいいですね」
「はい。動き回る会場だと、むしろ合っているのかもしれません。酔いが回りすぎないので、最後まで楽しみやすいですし」
三枝が頷く。
「飲めない人用というより、長く楽しむための選択肢ですね」
「そうですね。あと、見た目も華やかでした。普通のアルコールドリンクと比べても見劣りしないです。ちゃんと“楽しんでいる飲み物”に見えるというか」
環は資料の該当箇所にペン先を置いた。
「代々木でもそこは大事ですね。低アル、ノンアルを前に出しすぎるより、普通に楽しめそうなドリンクとして見せましょう」
短くまとめて、次のページをめくる。
「バンドの方はどうでした?」
榊原が続ける。
今度は環が答えた。
「大野さんおすすめのバンドは良かったです。会場の盛り上がりも強かった」
伊織も短く補足する。
「昼の屋外にも合うと思います。音が明るくて、代々木の開放感に合いそうでした」
「SNSでも見せやすそうですね」
三枝がメモを取りながら言う。
「出演者まわりは大野さんにお任せします。こちらはブース側に集中しましょう」
環はそのまま、淡々と会議を続けた。
伊織を気にするような素振りは、最後までなかった。
***
会議が終わると、榊原と三枝は先に会議室を出ていった。
伊織は資料をまとめながら、少しだけ身構える。
金曜日のことを何か聞かれるのではないかと。
けれど、環は手元の資料を整えながら、淡々と言った。
「片瀬さん、低アルの見せ方、今日中に軽くまとめられる?
明日、大野さんに共有するから」
「……はい。できます」
「じゃあ、お願い」
環はそう言って、にこやかに頷いた。
表情は柔らかい。
声も、別に冷たくない。
むしろ、普通に感じがよかった。
感じが良すぎた。
今までの環は、伊織に対してこんなに爽やかに笑っていただろうか。
弱みを握られてから今日まで、伊織をからかってきた彼が。こんなに当たり障りのない顔をしていただろうか。
なにも悪いわけではないのに、違和感が消えない。
伊織は、その違和感の正体が分からないまま会議室を出た。
***
そこから代々木のイベントまでは、あっという間に過ぎていった。
朝から晩まで、確認と修正と連絡に追われ、気づけば一日が終わっていた。
初めに言われた通り、かなりのハードワーク。
そのおかげと言っては何だが、アヤトのことを考えずに済んだ。
けれど、環との距離だけは違った。
一緒に仕事をする時間が長いぶん、その違和感は日に日に積み上がっていく。
普通に優しいし、仕事は何の問題もなく進んだ。
ただ、前みたいに絡んでくることがない。
伊織が腹を立てることもなければ、むっとするような言い方をされることもない。
それでいいはずなのに。
なぜか、胸の奥の小さな引っかかりが消えなかった。
そして、イベント前日の金曜日。
最後の確認を終えた頃には、外はすっかり夜になっていた。
明日は本番。
まっすぐ帰って、早く寝た方がいい。
そんなことは分かっている。
けれど、帰る気になれなかった。
忙しさで押し込めていたものが、仕事が終わった途端にまた浮かんでくる。
伊織は駅へ向かう途中で足を止めた。
……ちょっとだけ飲んで帰ろう。
***
バーの扉を開けると、カウンターの奥にいたマスターが顔を上げた。
「いらっしゃい。あ、イオリちゃん」
「こんばんは」
「久しぶりだね。忙しかったの?」
伊織はカウンター席に腰を下ろしながら、小さく笑った。
「はい。本業の方がやばくて」
「お疲れ様だね。何飲む?」
伊織は少し迷ってから、珍しく甘いものを頼んだ。
「ソルティドッグで」
マスターが少しだけ目を上げる。
「珍しいね。甘いの」
「今日はそういう気分で」
「そう」
それ以上は聞かず、マスターはグラスを用意した。
縁を濡らしたグラスを、塩の上で静かに回す。
薄い白の輪郭ができると、そこへ氷を落とし、ウォッカとグレープフルーツジュースを注いだ。
氷の混ざる音が、カウンターの向こうで小さく響く。
伊織はマスターの手元を眺めながら、少しだけ息を吐いた。
「明日から、代々木でイベントなんです。土日二日間」
「へえ。大きいやつ?」
マスターがグラスを差し出す。
伊織はそれを受け取った。
「わりと。半年くらいかけて全国を回る販売促進イベントなんですけど、明日が初日で」
「前日に飲んでて大丈夫?」
「なんか、どうしても飲みたい気分で」
伊織が少し笑うと、マスターはそれ以上は聞かずに頷いた。
「程々にね」
「はい」
その返事をしながら、伊織はグラスに口をつける。
甘さと苦み。
縁についた塩の味。
今の気分に、ちょうどいい。
伊織がグラスを傾けていると、マスターが少し口元を緩めた。
「なにかあったの?」
伊織は苦笑する。
「……なんでもお見通しですよね」
「イオリちゃん、結構わかりやすいよ」
「そうですか?」
「ここに来る時って、だいたい話したいことがある時だもんね」
伊織は少し黙った。
グラスの中で、氷が小さく鳴る。
「……そうですね」
認めると、マスターはそれ以上急かさず、次の言葉を待ってくれた。
「この前、昔の知り合いに会って。それでちょっと調子が狂ったんですけど」
「うん」
「でも、たぶん今いちばん気になってるのは、その人のことじゃなくて……一緒にいた人の方で」
口にしてから、伊織は少しだけ視線を落とした。
「……私が、ちょっと冷たいこと言っちゃったんです。そしたら距離を取られてる、というか……」
「避けられてるの?」
「いや」
伊織は言葉を探すように、グラスの縁へ指を添えた。
「避けられてるわけではないんです。優しいし、気遣ってくれるし……むしろ今までよりずっと……」
そこで、言葉が止まった。
ずっと、何なのだろう。
やさしい。
ちゃんとしている。
距離感も間違えていない。
なのに、自分は何が不満なのか。
伊織が黙っていると、マスターは短く頷いた。
「そっか」
それだけ言って、伊織の前に水を差し出す。
「まだそんなに飲んでませんよ?」
伊織が不思議そうに顔を上げると、マスターはグラスを拭きながら小さく笑った。
「今日はたくさん飲みそうな気がする」
「……バレてますね」
「そりゃね」
マスターは静かにグラスを置いた。
そして、少しだけ間を置いて言う。
「その人って、前に一緒に来た人でしょ?」
伊織は思わず顔を上げた。
「なんで分かるんですか」
マスターが何か答えようとした、その時だった。
店の扉が開く。
「いらっしゃい」
マスターが入口へ視線を向ける。
伊織も何気なく顔を上げた。
そこには、久世環が立っていた。
環も伊織に気づき、わずかに目を見開く。
「あれ、片瀬さん?」




