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NO.15 名前のない関係

 土曜の夜、クラブにはいつも通り音が鳴り響いていた。

 低いベースが床を震わせ、照明がゆっくりと色を変えていく。


 ソウタはカウンター脇からフロアを見渡し、ふと眉を寄せた。


「ねえねえ、今日イオリ元気なくない?」


 隣にいたミナが、視線だけを伊織へ向ける。


 伊織は客席の方へグラスを運び、いつものように笑っていた。

 注文を聞く声も、客をあしらう仕草も、雑ではない。

 けれど、確かに少しだけ違う。


 反応が、いつもより遅い。

 笑う顔が少しだけぎこちない。


「確かに」


 ミナが短く返す。


「昨日飲みすぎたかな?」


「うーん、そんな感じじゃない気がする。私聞いてくるわ」


 ミナはそう言って、グラスを持って戻ってきた伊織の方へ歩いた。


「イオリ」


「ん?」


 伊織が顔を上げる。


「なんかあった?」


 いつも通りの軽いしゃべり方。

 それでも、ミナの目には心配の色が見えた。


 伊織はいつものように、なんでもない、と返そうとした。

 けれど、声が出る直前で止まる。


 昨日のライブハウス。

 全部が、胸の奥でまだ片付かずに残っていた。


「……バイト終わり、時間ある?」


 ミナは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、すぐに頷く。


「ある」


 それ以上は、今は聞かなかった。

 その感じが、少しだけありがたかった。


***


 営業が終わる頃には、外はもう朝に近かった。

 フロアの音は落とされ、さっきまでの熱が少しずつ店の隅へ沈んでいく。


 バックヤードには、脱いだヒールや使いかけのヘアスプレー、飲みかけのペットボトルが雑に置かれていた。


 ミナはロッカーにもたれ、ペットボトルの水を一口飲む。


「で、なに?」


 伊織はしばらく黙っていた。

 話すと決めたはずなのに、どこから言えばいいのか分からない。


「実は昨日、金曜日の夜さ、仕事でライブハウス行って」


「うん」


「そこで……アヤトさんに会った」


 その名前を聞いた瞬間、ミナの表情が一気に変わった。


「え??アヤトさん?なんで?」


「バンドやってた。Blue Hour Motelって名前で」


「……は?」


 ミナの声が低くなる。


 伊織は視線を落としながら、ぽつぽつと話した。

 仕事の視察で行ったライブハウスで、アヤトに会ったこと。

 彼が何事もなかったみたいに普通に話しかけてきたこと。

 そして、「今度また飲み行こ」と言ったこと。


 話し終えると、バックヤードに少しだけ沈黙が落ちた。

 先に息を吐いたのは、ミナだった。


「なにそれ。三年も連絡取れなかったくせに、前みたいに話しかけてくんなよって感じなんだけど」


 その言葉に、伊織は少しだけ目を伏せた。


「うん……」


 自分でも、そう思った。


 けれど、怒っていいのか分からなかった。

 傷ついたと言っていいのかも。


「正直、もう吹っ切れたと思ってたんだけど……」


 言葉がそこで止まる。


 あの頃、アヤトに救われたのは本当だった。

 元彼に借金を負わされて、逃げられて。

 ひとりで飲んでいた夜に、声をかけてきたのがアヤトだった。


 クラブに連れて行ってくれた。

 酒の飲み方も、夜の歩き方も、音の中で息をする方法も教えてくれた。


 何度も会った。

 一緒に飲んだ。

 キスもした。それ以上も。


 好きだった。

 でも、恋人ではなかった。

 好きだと言われたこともなかった。


 だから、いなくなられても、責める言葉が見つからなかった。

 それなのに、置いていかれた痛みだけが今もある。


「……やっぱ会うと駄目かも」


 小さくこぼした声は、自分で思っていたよりずっと弱かった。


 ミナはしばらく伊織を見ていた。

 それから、軽くため息をついて、伊織の腕を引く。


「もう」


 そのまま、ミナは伊織を抱きしめた。

 伊織の体が一瞬だけ固まる。


 けれど、ミナは何も言わずに背中へ腕を回してくる。

 その雑で、まっすぐな温度に、少しだけ力が抜けた。


「もうあんなやつ忘れなって」


「……うん」


「連絡先も知らないんでしょ?」


「うん、多分……。前の連絡先も変わってるし」


「じゃあ、もう会うことないって」


 小さく頷いてから、伊織は息を吐いた。


「だといいけど」


 ミナは少しだけ眉を寄せた。

 その不安を否定するみたいに、伊織の背中をぽん、と軽く叩く。


「あんな奴より、イオリにはいまいい男いるじゃん!」


 わざと空気を変えるような明るい声だった。


 伊織は顔を上げる。


「え??」


「上司だよ!!」


「は??そんなんじゃないし」


 反射的に返した声が、思ったより大きくなった。

 ミナがじっと伊織の顔を見る。


「顔」


「何」


「赤い」


「そんなことない」


 ミナが少し笑った。

 伊織は視線を逸らす。


 久世環は、そういう相手ではない。

 弱みを握られて、無理やりプロジェクトに入れられた、ただのムカつく上司。


 それだけのはずだった。


 けれど、昨日の帰り道で突き放した時の、あの静かな声がまだ残っている。


 そうだね。


 あの少しだけ距離のある声。

 それがなぜか、ずっと耳に残っている。


「でも、まじでなんかあったらすぐ相談して」


 ミナが少し真面目な声で言った。


「アヤトさんのことも」


 少し間を置いて、わざとらしく続ける。


「上司のことも」


「上司は関係ないって」


「はいはい」


「ほんとに」


「はいはい」


 伊織は少しだけ笑った。

 まだ胸の奥は重い。


 それでも、ミナが怒ってくれたことで、ほんの少しだけ息がしやすくなった。


「……ありがとう」


 ミナは軽く肩をすくめた。


「どーいたしまして」


 今は、そんな彼女の明るさに救われた。


***


 店を出る頃には、空が少し白み始めていた。


 日曜の朝の渋谷は、夜の名残を引きずったまま、ゆっくりと目を覚まそうとしている。


 まだ消えていない看板の光。

 路地に残る酔った声。

 コンビニの前で座り込む人。

 始発へ向かって歩く人。

 遠くで聞こえる清掃車の音。


 伊織はひとりで歩きながら、アヤトの事を考えていた。


 会いたいわけじゃない。

 たぶん。


 もう一度、あの頃に戻りたいわけでもない。


 それでも、金曜日に聞いたBlue Hour Motelの曲。

 サビで自分に向けられた手。


 彼は一体何を考えていたのか。


 伊織は朝になりかけた空を見上げ、小さく息を吐いた。


 一体自分はどうしたいんだろう。

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