表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/15

NO.14 Blue Hour Motel

 名前を呼ばれた瞬間、伊織は声をなくした。

 薄暗い通路の向こうで、アヤトがこちらを見ている。


 少し長めの黒髪が、ゆるく波打っていた。

 ラフな黒い服。

 襟元から覗いた首筋には、細い線のタトゥーが見える。


 その声も、目元も、首にあるその印も。

 伊織の記憶の中にあるものと、嫌になるくらい重なった。


「やっぱり。イオリだ」


 アヤトは少し驚いたように目を細め、それから、昔と同じように笑った。


「久しぶり」


 言いたいことは、山ほどあった。


 どうして急に連絡が取れなくなったのか。

 どうして何も言わなかったのか。

 あの頃の自分は、アヤトにとって何だったのか。


 けれど、どれも言葉にならない。

 喉の奥に引っかかったまま、音にならずに沈んでいく。


「……久しぶり、です」


 ようやく返した声は、自分でも驚くほど硬かった。

 アヤトはそんな伊織の声に気づいたのか、気づかなかったのか。

 少しだけ首を傾げて、また普通に笑う。


「元気だった?」


 あまりにも普通に聞かれて、胸の奥がかすかに痛んだ。


 何もなかったみたいに。

 昨日もどこかで会っていたみたいに。


「まあ、それなりに……」


 伊織はどうにか口元を動かした。


 平気な顔をするのは、得意だ。

 得意になってしまった。

 これ以上、何かを聞かれたくなくて、伊織は先に口を開く。


「ていうか、なんで、こんなところに?」


「ああ、俺、このあと出番あるんだ」


「出番?」


 アヤトは首から下げたスタッフパスを軽く指で弾いた。


「Blue Hour Motelって名前でやってる。最近、ちょっと知ってもらえるようになってきてさ」


 Blue Hour Motel。〈ブルーアワーモーテル〉


 さっきタイムテーブルで見た、知らない名前。

 青い時間。

 夜明け前の、夜が終わる直前の色。


 その名前が、いかにもアヤトらしいと思ってしまった。

 消えていたあいだのことなんて何も知らないのに、まだそんなふうに分かってしまう自分が少し嫌だった。


「見てってよ」


 アヤトは、昔と同じ軽さで言った。

 そして、何でもないことのように続ける。


「今度また飲み行こ」


 また。

 その言葉が、少し遅れて胸に落ちる。


 前の“また”は、来なかった。

 何度も一緒に飲みに行った。

 クラブにも行った。

 朝まで一緒にいたこともあった。


 けれど、ある日突然、アヤトとは連絡が取れなくなった。

 それなのに。

 そんなことなんてなかったみたいに、彼はまた、同じ軽さで「また」と言う。


 伊織は返事ができなかった。


「アヤトさん、そろそろ」


 通路の奥から、誰かが呼ぶ声がした。


「あ、行くわ」


 アヤトは軽く手を上げる。


「じゃあ、あとで」


 そう言って、アヤトは通路の奥へ歩いていった。


 伊織はその背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。


 付き合っていたわけじゃない。

 好きだと言われたこともない。

 だから、どうして消えたのかと責める権利なんてない。


 なのに、置いていかれたと思ってしまった。


 伊織はその感情を、ゆっくりと飲み込む。


 どうして、今さら。

 こんなところで。


 胸の奥に浮かんだ言葉は、どれも音にならないまま沈んでいった。


「あ、いたいた」


 ふいに聞こえた声に、伊織ははっと振り返った。

 通路の入り口に、環が立っている。


「なかなか帰ってこないから心配した」


「……ああ、すみません」


 返した声が、自分でも分かるくらい硬い。

 環の目が、ほんの少し細くなった。


「どうかした?」


「いえ!」


 思ったより強い声が出た。

 伊織はすぐに気づいて、視線を逸らす。


「……なんでも。戻りましょう」


 環は一拍置いた。


「……そう」


 それ以上は聞かなかった。

 けれど、見ていないふりをしているだけだということは、なんとなく分かった。


 伊織はそれに気づかないふりをして、環の横をすり抜けるようにフロアへ戻った。


 中へ戻ると、さっきよりも人の熱が濃く感じた。

 転換が終わるところらしく、ステージ前には人が集まり始めている。


 照明が一度落ち、壁際のスクリーンにバンド名が映った。

 Blue Hour Motel。

 伊織の足が、一瞬だけ止まる。


「次、これ?」


 隣で環が言った。

 伊織は少し遅れて頷く。


「……そうみたいですね」


 客席から歓声が上がった。

 ステージにメンバーが出てくる。


 その中に、アヤトがいた。


 アヤトがギターのネックに手を添え、マイクへ顔を近づける。


 その瞬間、照明が弾けるようについた。


 白い光が上から落ち、青いライトが横から走る。

 暗がりに溶けていたステージが、一気に輪郭を持った。

 

 演奏が始まった瞬間、伊織は息を止めた。


 疾走感があって、どこか取り残されたような音。

 夜の終わりに置いていかれた人みたいな、青く沈んだメロディ。


 昔と同じ、少し掠れたようなアヤトの歌声。


 伊織は、目を逸らせなかった。


 ステージの上のアヤトを見ていると、記憶の中の夜が勝手にほどけていく。


 酒の匂い。

 朝方の冷たい空気。

 駅前で聞いた知らない曲。

 名前のない関係のまま、隣にいた時間。


 伊織はカップを持つ指先に力を込めた。


 サビに入る。

 アヤトがマイクに近づき、少し笑うように歌った。


 夢でもいいから、あの夜に戻りたい。


 そんなようなフレーズだった。


 その瞬間、アヤトが客席へ手を伸ばす。

 パフォーマンスの一部にも見えた。

 周りの客は普通に歓声を上げている。


 けれど、指先が一瞬だけ、伊織の方へ向いた。

 伊織は息を止める。

 たまたまかもしれない。


 でも、アヤトの視線は確かに伊織を捉えていた。


 伊織には、それが分かってしまった。

 その一瞬で、胸の奥に押し込めたはずのものがまた揺れる。


 忘れたかったのか。

 忘れたくなかったのか。


 自分でも分からないまま、音だけが体の中を通り抜けていく。


 隣で環がこちらを見た気配がする。

 けれど、伊織はステージから目を離せなかった。


 演奏が終わると、フロアに拍手と歓声が満ちた。

 伊織は、視線を合わせないまま環の方を向いた。


「……出ましょう」


 環は少しだけ伊織を見る。


「もう?」


「もう確認できましたよね?」


 いかにも仕事らしい言い訳。

 どう考えても不自然だと自分でも思った。


 環は一拍置いてから、短く答える。


「……分かった」


 二人は人の流れを避けながら、ライブハウスを出た。


 地下から階段を上がると、新宿の夜の空気が肌に触れる。

 フロアの熱と音が、背中側へ遠ざかっていく。


 伊織はようやく息を吸った。


 外は相変わらず人が多い。

 金曜の夜らしく、酔った声も、誰かを呼ぶ声も、店先の音楽も混ざっている。


 それなのに、伊織の耳にはまだ、アヤトの声が残っていた。


 しばらく二人は黙って歩いた。

 少しして、環が口を開く。


「ねえ、やっぱ何かあったでしょ」


 伊織は前を向いたまま答える。


「……なんのことですか」


「最後のボーカル、ずっと見てた」


 伊織は黙った。

 確かに、見ていた。

 隣に環がいることも忘れるほど、まっすぐに。


 誤魔化すには無理がある。


「……昔の、知り合いです」


 短く答えると、環は少し間を置いた。


「本当にただの知り合い?」


 その問いに、伊織の胸の奥が小さく波立つ。


 ただの知り合い。

 そう言える関係ではない。


 でも、恋人だったわけでもない。

 名前をつけられるような関係ではなかった。


 説明できない。

 したくもない。


 伊織は少しだけ唇を結んだ。


「……久世さんには関係ないですよね」


 自分でも、少し冷たい声だと思った。


 環はすぐには答えなかった。

 新宿の夜の音が、二人の間を通り過ぎていく。


 やがて、環が静かに言った。


「そうだね」


 環はそれ以上なにも言わなかった。

 自分から突き放しておいたくせに、その沈黙がやけに重く感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ