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NO.13 好きな音の前では、隠せない

 火曜日の会議で新宿のライブハウス視察が決まってから、伊織は通常業務とプロジェクトの準備をこなしながら金曜日を迎えた。


 代々木で行う初回イベントの資料確認。

 大野の会社との共有事項。

 ライブハウス視察に向けた情報整理。


 仕事は普通に忙しかった。

 このプロジェクトに入れられたことを、改めて面倒だと思うくらいには。


 けれど、今日のライブハウス視察だけは少し違った。


 環から送られてきたタイムテーブルには、伊織の好きなバンドの名前があった。


 どうやら大野が薦めていた出演候補バンドは、その人たちらしい。


 嫌々入れられたプロジェクト。

 その仕事の視察。


 それなのに、楽しみにしている自分がいる。


「……何やってるんだろ」


 伊織は小さく呟いて、スマートフォンを伏せた。


 クローゼットを開けて、しばらく服を見比べる。

 ライブハウスに、会社の服では浮くし、伊達眼鏡も必要ない。


 黒のシアーシャツにグレーのタンクトップ。

 ハイウエストの細身のデニム。


 着替え終えて鏡の前に立つと、伊織は少しだけ眉を寄せる。


 調査にしては、少し気合いが入りすぎている気がする。

 もう少しおとなしくした方がいいだろうか。


 そう思って、一度別のシャツに手を伸ばしかけた。

 けれど、今日一緒に行くのは久世環だ。


 あの人にはもう、店にいる自分を見られている。

 今さら、会社用の片瀬伊織に寄せたところで意味がない。


「……別に、何着ても同じか」


 そう呟いて、伊織は結局そのままにした。


 伊達眼鏡をケースにしまい、バッグを持って部屋を出た。


***


 待ち合わせ場所は、新宿のライブハウス近くにあるコンビニの前だった。


 金曜夜の新宿は、人の流れが途切れない。

 店の看板の光がいくつも重なって、街全体が浮ついた色を帯びている。


 伊織が少し早めに着くと、環はもうそこにいた。


 いつものスーツではなく、ラフなTシャツにスラックス。

 シルバーのバングルとリングをつけていた。


 環が伊織に気づき、視線を向けた。

 その目が、一瞬だけ止まる。


「あれ、いつもと違うね」


「……ライブハウスじゃ、浮きますし」


「そっか」


 環はそれだけ言って、口元を少しだけゆるめた。

 伊織はその笑い方が気になって、思わず眉を寄せる。


「何ですか」


「いや。ちゃんと楽しむ気満々だと思って」


「……仕事です」


 低く返すと、環はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、どこか楽しそうに笑っている。


 否定したいのに、完全には否定しきれない。

 それがまた、落ち着かなかった。


「行こうか」


「はい」


 二人は並んで、ライブハウスへ向かった。


 路地を少し入った先に、黒い看板が見えた。

 地下へ降りる階段。壁には、いくつものライブ告知のポスターが貼られている。


 扉の奥から、低い音が漏れていた。


 その音を聞いた瞬間、伊織の胸が少しだけ高鳴る。


 クラブとは違う。

 けれど、音が壁や床を伝って先に体へ届く感じ。


 受付で名前を伝え、中へ入る。


 暗い照明。

 ドリンクカウンターの前にできた列。

 壁際で話す人たち。

 ステージ前で体を揺らす客。


 すでに一組、バンドが演奏していた。

 ギターの音がフロアを満たし、ドラムの振動が足元に響いている。


 それぞれが、勝手にこの夜を楽しもうとしている。

 その空気が、伊織は好きだった。


 伊織はそのまま空気に馴染みかけて、ふと我に返った。


 今日は仕事で来ている。

 ただ楽しみに来たわけではない。


 ちゃんと見ないと。


 そう思い直したところで、隣の環がメニューへ視線を向けた。


「飲んでみるか」


 大野の会社の商品を使った低アルコールドリンクが、メニューにいくつか並んでいる。

 伊織も横から覗き込んだ。


「そうですね」


 二人は同じ低アルコールのドリンクを頼んだ。


 カップを受け取り、伊織は一口飲む。


 正直、低アルコールやノンアルコールに、あまりおいしいイメージはなかった。

 わざわざ選ぶものというより、飲めない時に仕方なく選ぶもの。

 伊織の中では、どこかそんな印象が強かった。


 けれど、口に含んだそれは、思っていたよりずっと飲みやすかった。


 甘さはある。

 でも、ただのジュースみたいに軽いだけではない。

 後味に少しだけ苦みと香りが残って、ちゃんと大人の飲み物という感じがした。


「……意外といいかも」


「意外と?」


 環がこちらを見る。


「低アルって、もっと物足りないイメージでした。でもこれ、ちゃんと飲んでる感じありますね」


 伊織はもう一口飲んでから、ステージの方へ視線を向ける。


「激しく動くと酔いも回りやすそうですし。こういう場所なら、これくらい軽い方が楽かもしれません」


 環も同じようにカップへ口をつけた。


「たしかに。飲みやすい」


 ステージ上のバンドは、ちょうどサビに入ったところだった。

 客席の前方で、数人が腕を上げる。

 後ろの方では、ドリンクを持ったまま音に合わせて軽く体を揺らしている人もいる。


 二人はカップを片手に、しばらくその様子を眺めていた。

 曲が終わり、フロアの奥から大きな歓声が上がる。


 次のバンドへ入れ替わるらしい。

 ステージ前の人の流れが、一気に動く。


「あ、」


 避けようとした瞬間、後ろから来た人の肩がぶつかった。

 足元が乱れる。


 踏みとどまるより先に、伊織の体が前へ流れた。


 そのまま、環の胸元にぶつかる。


「っ……」


 次の瞬間、環の腕が腰に回った。

 抱きとめられたのだと気づくまで、一拍遅れる。


 暗い照明の中で、環のシャツの布地がすぐ目の前にある。


「大丈夫?」


 耳元に落ちた声に、伊織の背中が少しだけ強張った。


 腰に回った手。

 支えるように寄せられた腕。

 ほんの一瞬なのに、環の体温がはっきりとわかった。


「……大丈夫、です」


 伊織がそう答えると、環はすぐに手を離した。

 何事もなかったみたいに、自然に。


 それなのに、腰に触れていた手の感触だけが残っている。


 何か言わなければと思った。

 だが、言葉を探しているうちに、フロアの照明が落ちる。


 客席から歓声が上がる。

 伊織は反射的にステージを見た。


「……あ」


 タイムテーブルで見つけた、あのバンドだった。

 イントロが鳴った瞬間、さっきまで意識していたことが少しだけ遠のく。


 音が近い。

 人の熱が近い。

 知っている曲のフレーズが、暗いフロアの中で一気に広がる。


 伊織は思わず、少し前のめりになった。


 仕事で来ている。

 そう思っていたのに、気づけばステージから目が離せなくなっている。


 ギターの音が跳ねる。

 ドラムが強く床を揺らす。

 ボーカルの声に合わせて、前方の客が腕を上げた。


 伊織はカップを持つ手に力を入れたまま、息を吐くのも忘れてステージを見ていた。


 曲が終わると、客席から大きな拍手が起きる。

 その音に混じって、伊織も小さく息を吐いた。


「……めっちゃよかった」


 つい、声に出ていた。

 言ってから、固まる。


 やばい。

 ミスった。


 隣を見ると、環が楽しそうにこちらを見ていた。


「そうだね」


 その顔が、余計に恥ずかしい。


「……今の忘れてください」


「ごめん、無理」


 伊織は一気に顔が熱くなるのを感じた。


 完全に素が出た。

 しかも、それをよりによって環に見られた。


 ただ、好きな音を聞いて少し浮かれた自分。

 それを見られたのが、妙に恥ずかしかった。


「……お手洗い行ってきます」


「うん」


 環は、まだ少し笑っている。

 伊織はそれを見ないふりをして、フロアの脇へ向かった。


 ステージ前を離れると、音が少しだけ遠くなる。

 細い通路には、出演者らしい人やスタッフが行き来していた。

 壁際には機材ケースが積まれ、暗い照明の下で黒いコードが床を這っている。


 伊織は人を避けながら、お手洗いへ向かう。


 環の前で、完全に素が出た。


 鏡の前でそれを思い出して、また顔が熱くなりそうになる。

 伊織は手を洗い、冷たい水で指先の熱を逃がした。


 落ち着け。

 仕事だから。


 そう言い聞かせて、お手洗いを出る。

 フロアへ戻ろうとした、その時だった。


 向こうから来た男が、すれ違いざまに足を止めた。


「……イオリ?」


 伊織も足を止める。

 聞き覚えのある声だった。


 顔を上げると、薄暗い照明の下で、見覚えのある男がこちらを見ていた。


 少し長めの黒髪が、ゆるく波打っている。

 ラフな黒い服。

 襟元から覗いた首筋に、細い線のタトゥーが見えた。


 その声も、目元も、首にあるその印も。

 伊織の記憶の中にあるものと、嫌になるくらい重なった。


「……アヤト……さん?」


 思わず名前がこぼれた。

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