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NO.17 踏み込まれたくない、でも離れたくない

 久世環が、店の入口に立っていた。

 環も伊織に気づき、わずかに目を見開く。


「あれ、片瀬さん?」


 伊織は一瞬、反応が遅れた。


 ついさっきまで、マスターにこの人の話をしていたところだ。

 タイミングが悪すぎる。


「……久世さん」


 どうにか声に出すと、環は伊織の前のグラスへ視線を落とし、それから隣の席を見た。


「一人?」


「……はい」


「そっか」


 環は短く頷いて、カウンターの隣の席へ視線を向ける。


「隣、いい?」


「……どうぞ」


 断る理由もない。

 環は伊織の隣に腰を下ろした。


「何にします?」


 マスターが自然な声で尋ねる。


「ジンリッキーで」


「かしこまりました」


 マスターは短く頷き、手早くグラスを用意した。


 ジンとライム、それから炭酸。

 軽くステアして、すぐに環の前へ差し出す。


 環はグラスを受け取り、伊織の方を見た。


「明日本番だけど」


「分かってます。久世さんだって飲みに来てるじゃないですか」


「飲みたい気分だったの」


「ふーん」


 そう返しながら、伊織は目の前の酒に口をつけた。

 さっきより少し、酒の味が濃く感じる。


 隣に環がいるだけで、さっきまでグラスの底に沈めようとしていたものが、また少し浮かび上がってくる。


 環はジンリッキーを軽く傾けてから言った。


「準備、大変だったでしょ。おつかれ」


 伊織は少しだけ視線を落とした。


「まだ終わってませんけど」


「だね。ひとまず明日は、もうやるだけだから」


 環は軽く笑う。


「そんなに心配はしてないよ」


 その言葉に、伊織は一瞬、返す言葉を探した。

 心配していない。


 環は自分の仕事をちゃんと見て、認めてくれている。

 素直に受け取るには少しだけ照れくさくて、伊織はグラスを傾けた。


「……そうですか」


 普段なら、一杯飲んだくらいで酔うことはない。


 けれど、この数日はずっと気を張っていた。

 朝から晩まで仕事に追われ、頭も体も思っていた以上に疲れている。


 そのせいか、いつもより少しだけ酒の回りが早い気がした。

 ソルティドッグを飲み終えた頃、マスターがさりげなく近づいてくる。


「次、どうする?」


 伊織は少しだけ迷った。


 明日は本番だ。

 帰った方がいい。


 でも、今席を立つ気にもなれなかった。


 環が隣にいる。

 もう少しだけ、このままでいたい。


 そう思ってしまったことを、酒のせいにしたくなった。


「……ホワイトレディ」


 口にしてから、自分でも少しだけ意外だった。

 環が横を見る。


「酔ってる?」


「まだ全然です」


「程々にね」


「……分かってます」


 環はそれ以上言わなかった。


 シェイカーの音が、カウンターの向こうで短く響く。

 差し出されたホワイトレディは、甘くて飲みやすい。


 伊織はグラスを見つめたまま、ぽつりと言った。


「なんていうか……」


 環がこちらを見る。


「うん」


 言うつもりはなかった。


 けれど、酒のせいか。

 疲れているせいか。

 薄暗い照明のせいか。


 言葉が、思ったより先に出た。


「距離、取ってます?」


 環の目が少しだけ動いた。


「俺が?」


「……はい」


 環はすぐには笑わなかった。


「そんなつもりはないけど」


 伊織はグラスの縁に指を添えたまま、少し黙る。


 避けられているわけではない。

 冷たくされているわけでもない。

 むしろ、優しい。


 それなのに。


「いや……。ただ、前と違う気がするっていうか……」


 言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。


 前と違う。

 だから何なのか。


 前みたいにからかってほしいと言っているみたいで、急に恥ずかしくなる。


「やっぱり何でもないです」


 逃げるように言った。

 環はグラスを置いく。


 それから少しだけ間を置いて、静かに言った。


「あんまり踏み込みすぎると、片瀬さんに嫌われるかと思って」


 伊織は反射的に顔を上げる。


「そんなこと……!」


 ない。

 そう言おうとして、言葉が止まる。


 金曜の帰り道。

 自分は言った。

 久世さんには関係ないですよね。


 踏み込まれたくなくて、線を引いた。

 環はただ、伊織が引いた線を越えないようにしていただけ。


 環が少しだけ口元を緩める。


「ほら」


 責める声ではなかった。

 ホワイトレディのグラスが、指先で少しだけ冷たい。

 しばらく、二人の間に静かな時間が落ちた。


「……でも」


 小さくこぼれた声に、環が視線を上げる。


「うん?」


 伊織はグラスを見たまま、少しだけ唇を結ぶ。


「久世さんに、そういう態度取られるの……なんか嫌です」


 言ってから、伊織は後悔する。

 けれど、口から出てしまったことばは戻せない。


 環は黙ったまま、グラスに視線を落とした。

 そしてグラスを置く。


「じゃあ」

「あのボーカルの人のことは、聞いてもいいの?」


 伊織は黙った。

 金曜日の夜、自分で引いた一線。


 環は少しだけ声を落とす。


「元カレとか、そんな感じ?」


 伊織はグラスを見たまま、ゆっくり首を横に振った。


「……いや。付き合ってはなかったです」


 少し間が空く。


「けど……」


 そこで言葉が止まる。

 付き合ってはいなかった。

 でも、ただの知り合いではなかった。


 好きだった。

 救われた。

 置いていかれた。

 名前のない関係だったからこそ、説明が難しい。


 環は何も言わない。

 急かすことも、途中で言葉を挟むこともしない。


 伊織は小さく息を吐いた。


「……昔、ちょっと色々あって」


 言葉にした瞬間、伊織の中で、しまい込んでいた夜がゆっくりとほどけていく。


 あれは、元彼が借金だけを残して消えた後のことだった。


***


 伊織は、ひとりで飲んでいた。


 店の名前も、頼んだ酒の味も、今ではよく覚えていない。

 ただ、あの時の自分が、どこにも帰りたくなかったことだけは覚えている。


 家に帰れば、現実が待っている。

 残された借金。

 連絡のつかない男。

 信じた自分の馬鹿さ加減。


 考えたくないのに、考えないようにすればするほど、頭の奥にこびりついて離れなかった。


 どれだけ飲んだのかも分からなかった。

 何もかも、もうどうでもよくなっていた。


 その時、その男は現れた。


「ひとり?」


 顔を上げると、知らない男がこちらを見ていた。


 少し長めのウェーブした黒髪。

 軽い笑い方。

 夜の空気をまとった妖しい雰囲気。


 それが、アヤトだった。


 伊織はすぐには答えなかった。

 アヤトは気にした様子もなく、隣の席を指す。


「ここ、いい?」


 知らない男だ。

 本当なら、断った方がいい。


 けれど、その時の伊織には、もう何もかもどうでもよかった。


「……どうぞ」


 伊織がそう言うと、アヤトは軽く笑って隣に腰を下ろした。


「嫌なことでもあった?」


 あまりにも軽い聞き方だった。


 心配しているのか、ただの暇つぶしなのかも分からない。

 けれど、その軽さが逆に、今の伊織には少しだけ楽だった。


「……まあ、そんなところです」


 伊織がそう答えると、アヤトはそれ以上聞かなかった。


「そっか」


 ただ、それだけ。

 何かあったのか、何も詳しく聞いてこない。


 その軽さが、思っていたより心地よかった。


「名前は?」


 唐突に聞かれて、伊織は眉を寄せる。


「……伊織です」


「イオリね。俺はアヤト。よろしく」


「アヤトさん……」


 そう呼ぶと、アヤトは少し楽しそうに笑った。


「さん、つけるんだ」


「……年上ですよね?」


「うーん、たぶんね」


 曖昧な返事だった。

 なんか色々適当な人。そんな印象だった。


 アヤトは伊織の前にあるグラスを見て、軽く首を傾げる。


「こういう店、よく来るの?」


「いえ、あんまり」


「なんだ、すごい飲んでそうだから慣れてるのかと思った」


 アヤトはそう言って笑った。

 伊織は少し恥ずかしくなって、グラスへ視線を落とす。


「……初めてです」


「じゃあ覚えておいた方がいいよ」


「?」


「こんなかわいい子が一人でそんな飲んでたら危ないって」


 伊織は一瞬、言葉を失った。

 それから、遅れて顔が熱くなる。


「何言ってるんですか」


 アヤトは悪びれもせずに笑った。


「思ったこと言っただけ」


 普段なら、知らない男にこんなこと言われたって何とも思わない。

 けれど、元彼に利用されて、自分の価値まで全部ぐちゃぐちゃになったような気がしていた伊織には、その言葉が思いのほか効いた。


 そのあと、二人はしばらく話した。

 何を話したのか、細かいことは覚えていない。


 どれくらいそうしていたのか分からない。

 気づけば店の空気が少し変わっていた。


 グラスを片づける音。

 客が席を立つ気配。


 アヤトが店の奥へ視線を向ける。


「ここ、そろそろ閉まるって。帰る?」


 帰る。

 その言葉を聞いた瞬間、伊織の胸の奥が重くなった。


 帰りたくない。

 もう少しだけ飲みたい。

 けれど、それを自分から言うのは、なぜか悔しかった。


 伊織が黙っていると、アヤトは少し笑った。


「じゃあ、もう一軒行く?」


 伊織は顔を上げる。


「どこですか?」


「音がデカいとこ」


「……何ですか、それ」


「行けば分かる」


 伊織は黙った。

 ほんの少し、迷った。


 知らない男についていくなんて、普通なら絶対にしない。

 危ないに決まっている。


 けれど、今夜の伊織は、まともな判断をするには少し飲みすぎていた。

 それに、危ないと分かっている夜に、ほんの少しだけ興味を持ってしまった。


 アヤトにも。


 黙ったままの伊織を見て、アヤトが少し首を傾げる。


「やめとく?」


 伊織は、ゆっくり首を振った。

 そうすると、アヤトは少しだけ目を細める。


「じゃ、決まり」


 店を出ると、夜の空気が肌に触れた。


 飲んでいたせいか、外の風が少しだけ冷たく感じる。

 伊織が足元を見ながら歩いていると、アヤトが途中の自販機の前で立ち止まった。


 硬貨の落ちる音がして、水のペットボトルが取り出される。


「はい」


 何でもない顔で差し出されて、伊織は瞬きをした。


「……え」


「さっきから結構飲んでたでしょ」


「……ありがとうございます」


 礼を言うと、アヤトは軽く笑った。


 心配されたのだと気づいて、少しくすぐったくなる。

 

 アヤトは先に歩き出す。

 伊織はペットボトルを握ったまま、その背中についていった。


 普段なら、あまり足を向けない渋谷の奥へ入っていく。


 大通りの明るさから少し離れると、街の空気が変わった。

 細い路地。

 雑居ビルの看板。

 店先で煙草を吸う人。


 アヤトは慣れた足取りで、細い階段を下りた。


 入口の前には、何人かがたむろしている。

 重い扉の向こうから、低音が漏れていた。


 アヤトがスタッフらしい男に軽く手を上げる。


「おつかれ」


「お、アヤト。久しぶり」


「入れる?」


「いけるよ」


 短いやり取りのあと、アヤトは振り返った。


「こっち」


 扉が開いた瞬間、音が一気に押し寄せてきた。


 鳴り響く重低音。

 照明が暗い空間を切るように動き、人の影が揺れている。


 伊織は一歩入っただけで、息をするタイミングを失った。


 目の前に広がっていたのは、伊織の知らない夜だった。

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