聞こえる?
時間がちょっとだけ巻き戻って、疾風がはじめて機械と会話できたときのことを描きます。
田久保は、三年前もあの自転車に乗っていた。
ただし、服装は今とは別の意味でひどかった。
*
高校を卒業したばかりのころ。
田久保信之は、きつく当てたパーマに、斜めになった小さな眼鏡を掛けていた。
ハイゲージのタートルネック。
その上にカーディガン。
足元は妙に先の尖った、白のエナメル靴。
ただし、踵は踏んでいる。
その格好で乗っているのが、例のママチャリだった。
塗装はすでにくすみ始め、前かごも少し歪んでいる。
「お前、その眼鏡、曲がってるぞ」
「こう掛けんだよ」
「何で?」
「知らねえよ。こうなんだよ」
「靴も潰れてる」
「これは踵踏んで履くんだよ」
「何で?」
「だから知らねえよ!」
流行というものには、理由を求めてはいけないらしい。
田久保はママチャリのスタンドを蹴り上げた。
「じゃあな」
「おう」
尖った革靴で股を大開きにしながらペダルを踏み、パーマ頭を揺らしながら走っていく。
数年後。
その男はアルマーニを着て、ヴェルサーチを着て、ロレックスを巻くことになる。
自転車だけは変わらない。
*
疾風も、高校を卒業した。
免許は試験場へ直接取りに行った。
一度落ちた。
コツを聞いてからは、すぐに取れた。
そのあと父親から渡されたのが、一本の古い腕時計だった。
「これ」
「時計?」
「持っとけ」
長いこと誠の左腕にあった、黒い文字盤のクロノグラフ。
それを自分の腕に巻いた、その日のことだった。
『疾風』
名前を呼ばれた。
最初は気のせいだと思った。
もう一度呼ばれた。
(……お前?)
『そうだ』
(時計って喋るんだ)
そう返したところまではよかった。
数秒後。
疾風は思った。
いや。
よくない。
*
「親父」
「何」
誠は作業台の上で、キャブレターをばらしていた。
「これ、喋るぞ」
手が止まった。
「何が」
「時計」
誠が顔を上げた。
疾風を見る。
左腕を見る。
もう一度、疾風を見る。
「頭打ったか?」
「打ってねえよ」
「熱は」
「ねえよ」
「薬は」
「やってねえよ!」
『ずいぶん信用がないな』
(お前のせいだよ)
「今も喋ってる」
「何て」
「信用ないな、って」
誠はしばらく疾風を見た。
「貸せ」
「何で」
「いいから」
疾風は時計を外して渡した。
誠が自分の左腕へ巻く。
見慣れた場所へ戻った。
『誠』
疾風には聞こえた。
誠は動かない。
『誠』
反応なし。
『聞こえるか』
「今、親父呼んでる」
「何も聞こえん」
『やはり駄目か』
「やっぱ駄目だって」
誠が時計を見る。
「何が、やっぱ、なんだ」
『以前からそうだった』
疾風が眉を寄せた。
「……前から喋ってたの?」
『ずっと喋っていた』
「ずっと喋ってたって」
誠の顔が、ほんの少しだけ変わった。
「俺が着けてたときも?」
『そうだ』
「そうだって」
「…………」
「親父?」
「いや」
誠は左腕の時計を見た。
「俺、何年これ着けてたと思ってんだ」
『知っている』
「知ってるって」
「……そうか」
それだけ言った。
しばらくして、誠は時計を外した。
「着けろ」
「何で?」
「条件変えなきゃ分からんだろ」
「何の実験だよ」
「お前が頭おかしいのか、時計がおかしいのか調べてる」
「どっちにしてもひでえな」
疾風は時計を腕に戻した。
『こちらの方が話しやすい』
「着けた方が話しやすいって」
「外してても聞こえるんだろ?」
「聞こえるけど」
疾風は少し離れてみた。
誠が時計を持って、工場の反対側へ歩く。
『聞こ……るか』
「ちょっと遠くなった」
さらに離れる。
『……こえ……』
「だいぶ分かんねえ」
近づく。
『聞こえているか』
「戻った」
誠は時計を見た。
「距離か」
「たぶん」
『私にもよく分からん』
「本人も分かってねえって」
「役に立たんな」
『お前に言われたくない』
「今、親父に文句言った」
「それは聞こえなくていい」
*
「何してるの?」
和子が工場へ入ってきた。
誠が時計を持って立っている。
疾風がその前にいる。
二人とも妙な顔をしていた。
「時計が喋るらしい」
誠が言った。
「へえ」
和子は驚かなかった。
疾風の方が驚いた。
「へえ、なの?」
「だって、その時計、昔からちょっと変だったもの」
「知ってたの?」
「喋るとは知らなかったけど」
和子が手を出した。
「貸して」
疾風は時計を渡した。
「母ちゃん着けたことあるの?」
「あるわよ。ずっと昔だけど」
和子が左腕へ巻く。
革ベルトを留める。
チュチマが黙った。
少しして。
『……穴が二つ増えた』
和子の眉が動いた。
「……今、何か失礼なこと言わなかった?」
疾風が吹き出した。
「言った」
「何?」
「穴が二つ増えたって」
和子が左腕を見る。
ベルトを見る。
疾風を見る。
「この時計が?」
「うん」
『事実を述べただけだ』
「事実だって」
「余計なところまで通訳しなくていいの」
「俺じゃねえよ!」
誠が横から革ベルトを見た。
「昔はもっと外だったか?」
和子が睨んだ。
「あなたも黙ってて」
「俺は何も言ってない」
「言ったでしょ」
『誠は悪くない』
「お前、親父の味方すんの?」
『事実を述べただけだ』
「便利だな、それ」
和子はしばらく時計を着けたまま、首を傾げていた。
「でも、やっぱり変」
「何が?」
「疾風みたいに喋ってる感じじゃないのよ」
「じゃ何?」
「なんとなく」
言葉を探す。
「意味だけ浮かぶっていうか」
「穴二つ、も?」
「穴と、二つと、失礼な感じ」
「だいたい合ってる」
和子は時計を眺めた。
「昔着けたときもね」
「うん」
「なんか、『やわらかい』とか」
疾風が時計を見る。
「あと、『いい匂い』とか」
疾風はさらに時計を見る。
少し間があった。
「……変態時計じゃん」
『違う!』
「今すげえ勢いで否定した」
「やっぱりあんただったの?」
『和子の腕が柔らかく、和子がいい匂いだったというだけだ』
疾風はそのまま伝えた。
「母ちゃんの腕が柔らかくて、母ちゃんがいい匂いだっただけだって」
和子が黙った。
疾風も黙った。
「……やっぱ変態じゃん」
『なぜだ!』
「怒ってる」
「怒るところなの?」
「本人は違うらしい」
誠だけが、まったく声を聞けていなかった。
「楽しそうだな」
「親父にはほんとに何にも聞こえないの?」
「声はな」
チュチマが少し黙った。
『声として届いたことは、一度もない』
「声としては、一度も届いてないって」
誠が眉を寄せた。
「声としては?」
『誠がまだ若かったころ、何度か、私が伝えようとしたことと同じ方向へ考えが動いたことはある』
「親父が?」
『ああ』
「若いころ、何回か、自分が念じたり考えた方に親父が動いたことはあるって」
誠はしばらく考えた。
「……そんなこと言われても分からんな」
『私にも分からなかった』
「本人にも分かんなかったって」
『私の声が滲んだのか。誠自身が考えて、そこへ辿り着いただけなのか』
疾風が伝える。
誠は鼻を鳴らした。
「そりゃ確かめようがねえな」
『誠は、もともと自分でそこへ辿り着く』
「親父はもともと自分でそこへ辿り着いてただろうって」
「褒めてるらしいぞ」
「本人が言ってんのか」
「うん」
「なら、まあいい」
チュチマが続けた。
『ただ、一度だけ』
(何?)
『届いたのではないかと思ったことがある』
「親父」
「何」
「一回だけ、はっきりじゃないけど、届いたかもしれないことがあるって」
誠が手を止めた。
「何が」
チュチマは少し間を置いた。
『疾風』
(……俺?)
『お前の名前だ』
疾風は左腕を見る。
「俺の名前だって」
誠が黙った。
和子も少し考えた。
「……あなた、疾風の名前決めたとき?」
「たぶんな」
「候補、いくつかあったわよね」
「あった」
「でも最後、急に疾風がいいって」
誠は腕を組んだ。
「急にっていうか……なんか、それが一番しっくりきた」
疾風は時計を見る。
(……お前かぁ~)
『かもしれん』
(お前が名づけ親ってのは気に入らん)
『誠が決めた名前だ。私は少し意識に滲んだだけかもしれん』
(じゃあ半分くらい?)
『一割も要求していない』
(ゼロでいい)
『好きにしろ』
「……お前のせいらしいぞ」
誠が怪訝な顔をした。
「何が」
「俺が疾風なの」
「俺が決めた」
「こいつも少し混ざったかもしれないって」
「知らん。決めたのは俺だ」
『私もそう言っている』
「そこは意見合うんだな」
なぜ、その名前だったのか。
疾風は聞かなかった。
チュチマも言わなかった。
*
和子が時計を外した。
「昔より、分かるようになってる気がする」
『私は昔から喋っていた』
「昔から喋ってたって」
「聞こえなかったのよ」
『知っている』
「それも知ってるって」
誠がチュチマを見る。
「俺は何十年も着けてて、一回も声は聞こえなかったけどな」
チュチマが少し黙った。
『お前には、聞こえなくても十分だった』
疾風も少し黙った。
「親父」
「何」
「聞こえなくても十分だったって」
「……本人が言ってんのか」
「うん」
誠は時計を見た。
「ならいい」
それ以上は何も言わなかった。
*
「でも何で疾風には、こんなにはっきり聞こえるんだろうね」
和子が言った。
「知らねえ」
「小さいころからずっと工場にいたから?」
「それなら山崎さんたちも聞こえるだろ」
「うちのお父さんも、機械のことになると妙に鋭かったし」
「刈屋の爺ちゃん?」
「そう」
誠が作業台へ戻りながら言った。
「うちだって似たようなもんだろ」
「何が?」
「機械ばっかだ」
「それ理由になってる?」
「知らん」
疾風は時計を見る。
(何で俺には聞こえるの?)
『知らん』
(お前の力じゃないの?)
『私にも分からん』
(役に立たねえな)
『喋っている時計に向かって言うことか』
確かに。
「まあ」
誠が言った。
「一つだけ決めとけ」
「何?」
「外で言うな」
「何で」
「時計が喋るって、人に言ってみろ」
「…………」
「どう思われる」
疾風は少し考えた。
「頭おかしい」
「分かってんじゃねえか」
和子が笑った。
「家の中ならいいじゃない」
「母ちゃんは信じるの?」
「だって今、失礼なこと言われたし」
『事実だ』
「また言ってる」
*
数日後。
「疾風」
誠が工場の奥から鍵を放った。
疾風が受け取る。
「これで部品取ってきて」
「はいはい」
KATAGIRIのカローラバンだった。
いつもの仕事車。
疾風は運転席へ乗り込んだ。
キーを差す。
捻る。
スターターが回る。
エンジンが目を覚ます。
少し高めのアイドリング。
疾風はシートベルトを引いた。
【今日は少し、暖まるまで待ってください】
手が止まった。
しばらく前を見た。
(…………)
『どうした』
(今、こいつ喋った)
『ああ』
(ああ、じゃねえよ!)




