まだ走れる
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
「疾風」
「何」
「これ、持ってって」
誠が鍵を投げた。
疾風は片手で受け取った。
「どれ」
「あれ」
工場の外を見る。
白いセダンが一台、端に停まっている。
トヨタ・コロナ。
十年以上前の型だった。
白いボディは艶こそ残っているものの、ところどころ少しくすんでいる。
黒いモールも白っぽくなっていた。
ホイールキャップは四枚揃っている。
バンパーにも大きな傷はない。
妙にきれいだった。
きれいというより。
ちゃんと古い。
そんな感じだった。
「どこまで?」
「解体屋」
「……これ?」
「これ」
疾風はもう一度コロナを見た。
「動かないの?」
「動くよ」
「じゃなんで」
誠は作業台の上の伝票へ目を落とした。
「持ち主が死んだ」
疾風は少し黙った。
「病気?」
「うん」
「家族は?」
「奥さんは娘んとこ行くって。息子も娘も自分の家あるし、誰も乗らない」
「売れないの?」
「値段なんか付かねえよ。買い替えの下取りでもなきゃ、むしろ処分費請求されるかもな」
「でも動くんだろ」
「動く」
「直せばまだ乗れる?」
「乗れるよ」
誠はそこで顔を上げた。
「誰が金出すんだよ」
疾風は黙った。
「手ぇ入れりゃまだ走る。でも車検取って、悪いとこ直して、税金払ってまでこれ乗りたい奴がいるかって話」
「……いない?」
「今んとこな」
誠はまた伝票へ戻った。
「だから持ってって」
「はいはい」
疾風は鍵を指先で回した。
近くで見ると、ますます妙なクルマだった。
別に珍しくはない。
少し前までなら、どこにでもいた。
今でもたまに見る。
スーパーの駐車場。
病院。
役所。
運転しているのは、だいたい年配の男。
古い。
でも荒れてはいない。
妙にきれい。
買い替える金がないようにも見えない。
旧車趣味にまでは見えない。
ただ、ずっと乗っている。
そういうクルマ。
疾風はドアを開けた。
白いレースのシートカバー。
(うわ)
『どうした』
(レース)
チュチマが少し黙った。
『時代だな』
(お前が言うと重いな)
運転席へ座る。
レースのカバーは少し黄ばんでいた。
背中の当たる辺りだけ、生地が薄くなっている。
フロントウィンドウには、古い交通安全のお守りが吸盤でぶら下がっている。
灰皿はきれいだった。
ラジオ。
カセットテープデッキ。
助手席の足元には何もない。
でも、フロアマットの擦れには、妙に人が座っていた感じが残っている。
疾風はキーを差した。
回す。
セルが回る。
エンジンは一発で掛かった。
少し高めのアイドリング。
数秒して落ち着く。
(普通じゃん)
【走れますよ】
穏やかな男の声だった。
年齢は分からない。
でも若くはない。
【今日は旦那ではないのですね】
疾風は少しだけ手を止めた。
(今日は俺)
【そうですか】
それだけだった。
コロナは特に気にした様子もない。
疾風はシートを少し後ろへ下げた。
【旦那は、もう少し前です】
(俺の方が脚長いんだよ)
【なるほど】
素直だった。
疾風はミラーを合わせる。
クラッチ。
一速。
ゆっくりKATAGIRIを出た。
【今日はどちらへ?】
(ちょっと遠く)
【そうですか】
(嫌なの?)
【いいえ。久しぶりですから】
疾風は何も言わなかった。
走りは普通だった。
少しハンドルが重い。
足回りも新車のようには締まっていない。
段差を越えると、後ろで何かが小さく鳴る。
でも真っ直ぐ走る。
止まる。
曲がる。
エンジンもよく回る。
暖房も出る。
(ほんとに普通に走るな)
【先ほども申し上げました】
(いや、もっとくたびれてるかと思った)
【失礼ですね】
(ごめん)
【謝られるとは思いませんでした】
(なんだよ)
『お前にも学習能力があったらしい』
(黙ってろ)
【どなたです?】
(時計)
【時計?】
『時計だ』
コロナは少し考えた。
【最近の時計はよく喋るのですね】
(こいつは古い)
『余計なことを言うな』
信号で止まった。
疾風は白いレースのシートカバーを指で摘んだ。
(これ、最初から?)
【いいえ。奥様が買われました】
(へえ)
【旦那は嫌がっていました】
(なんで)
【「タクシーみたいだ」と】
疾風は笑った。
(ちょっと分かる)
【ですが、一週間ほどで何も言わなくなりました】
(負けたんだな)
【何にでしょう】
(夫婦には色々あんだよ)
『お前が言うな』
(うるせえ)
信号が青になる。
走り出す。
【昔は、奥様がいつもそこに座っていました】
(助手席?)
【はい】
【後ろにはお子さんが二人】
(家族四人か)
【ええ】
少し間があった。
【賑やかでした】
コロナは、それだけ言った。
しばらくして、病院の看板が見えた。
【ここではありません】
(何が)
【病院】
(病院行ってたの?)
【何度か】
少しして、
【長男さんが高い熱を出した夜がありました】
(子供のころ?)
【まだ小さかったです】
【奥様が後ろでずっと額を触っていました】
(旦那は?)
【黙って運転していました】
(怖かったんだろうな)
【そうなのでしょうか】
(たぶん)
【あの夜は、信号がずいぶん長く感じました】
疾風は前を見た。
赤信号。
止まる。
ただの信号。
たぶん、その男にもそう見えていた。
でも。
後ろで子供が熱を出していたら。
長い。
きっと、ものすごく長い。
【病院を出たあと、旦那は急に喋るようになりました】
(何て)
【覚えていません】
(そこ忘れるのかよ)
【言葉より、声が軽くなったことを覚えています】
疾風は少し笑った。
(治ったんだな)
【たぶん】
次の交差点を曲がる。
住宅地。
学校。
公民館。
【長女さんのピアノの発表会も、この辺りでした】
(ピアノやってたんだ)
【はい】
【白い靴でした】
(靴?)
【奥様が何度も「汚さないで」と言っていましたから】
(なるほど)
【会場へ着くまで、ずっと膝の上で指を動かしていました】
疾風は自分の右手を見た。
ハンドルの上で、指を少し動かす。
(緊張してたんだろ)
【帰りはずっと喋っていました】
(上手くいったんだな)
【たぶん】
コロナは何度も「たぶん」と言った。
人間の気持ちは分からない。
でも。
その日のことは覚えている。
(音楽とか聴いてた?)
【よく】
(誰が何聴くの)
【旦那は演歌】
(やっぱり)
【何がです?】
(いや)
【奥様は洋楽がお好きでした】
(へえ)
【カーペンターズをよく】
(意外)
【長男さんは別のものを】
(何)
【若い方の音楽です】
(雑だな)
【私には分類が難しい】
(長女は?)
【もっと若い方の音楽です】
(もっと雑だな)
疾風は笑った。
【後ろでカセットを取り合うことがありました】
(旦那怒らなかった?)
【「うるさい」と】
(怒ってんじゃん)
【ですが、そのまま流していました】
(ああ)
何となく分かった。
うるさい。
でも止めない。
それも家族なんだろう。
【夏は海へ行きました】
(どこ)
【毎年違いました】
【冬は温泉】
(旅行好きだったの?)
【たぶん】
【長男さんはよく酔いました】
(クルマに?)
【はい】
【そのたびに旦那が「だから前見とけって言っただろ」と】
(言いそう)
【奥様が「怒ったら余計気持ち悪くなるでしょう」と】
(それも言いそう)
【長女さんは笑っていました】
(ひでえな)
【家族ですから】
疾風は一瞬、黙った。
(お前、家族分かるの?)
【分かりません】
(じゃ今の何だよ)
【旦那がよくそう言っていました】
(……そっか)
道が広くなる。
コロナは淡々と走った。
特別速くはない。
でも不足もない。
疾風がアクセルを踏めば、その分だけ前へ出る。
ブレーキを踏めば止まる。
当たり前だった。
その当たり前を、十年以上続けてきた。
【長男さんは、そのうち乗らなくなりました】
(免許取った?)
【はい】
【自分の車で来るようになりました】
(何乗ってたの)
【赤いクルマ】
(それじゃ分かんねえよ)
【私にはそれで十分でした】
(まあ、そうか)
【長女さんも家を出ました】
(結婚?)
【はい】
【後ろの席を使うことが減りました】
車は、それ以上言わなかった。
疾風も聞かなかった。
少しして。
【奥様は今もお元気でしょうか】
疾風の手が一瞬止まった。
(元気だって聞いてるよ)
【そうですか】
(娘さんとこ行くらしい)
【そうですか】
声は変わらなかった。
【奥様は運転をされませんから】
(そうなんだ)
【免許をお持ちではありません】
(じゃ、お前は旦那専用だったの)
【運転するのは、ほとんど旦那でした】
(買い替えようとか言わなかった?)
【何度か】
(やっぱ言ってたんだ)
【新しい車のカタログを持って帰ったこともあります】
(欲しかったんじゃん)
【よく見ていました】
(で?)
【翌週、私のタイヤを交換しました】
疾風は吹き出した。
(なんだそれ)
【私にも分かりません】
(その次は?)
【車検を受けました】
(また?)
【その二年後も】
疾風は笑った。
(買い替える気ねえじゃん)
【毎回、今度こそ買い替えると言っていました】
(で、車検通す)
【はい】
(めんどくせえ爺さんだな)
【旦那ですから】
コロナの声には、何の含みもなかった。
ただ。
そういう人だった。
それだけ。
疾風は少し前のクルマとの間を空けた。
(親父んとこには長かった?)
【ずっとです】
(ずっと?)
【新しいころから】
(じゃ親父とも長いな)
【旦那は片桐さんを信用していました】
(へえ)
【何かあると、まず片桐さんへ】
(親父、愛想悪いのに)
【旦那も愛想が良い方ではありませんでした】
(気が合ったのか)
【たぶん】
『その評価は正しいかもしれんな』
(お前まで言うな)
しばらく走った。
コロナが言った。
【最近は病院へ行くことが増えました】
疾風は返事をしなかった。
【昔の病院とは違います】
(旦那の?)
【はい】
【この一年ほど】
(そうか)
【乗り込んでも、すぐにはエンジンを掛けないことがありました】
(……)
【しばらく座ってから】
(具合悪かったんだろうな)
【私は急かしませんでした】
疾風は前を見た。
『疾風』
(分かってる)
チュチマはそれ以上言わなかった。
【このところ、旦那を見ませんね】
(……そうだな)
【入院でしょうか】
疾風は答えなかった。
【以前も何日か乗られないことはありました】
(うん)
【ただ、今回は長い】
(……うん)
【そろそろオイル交換の時期なのですが】
疾風は唇を噛んだ。
【片桐さんのところへ来たので、それかと思いました】
(……)
【今回は何を直すのでしょう】
疾風はハンドルを握ったまま、前を見た。
(何も)
【何も?】
(うん)
【では、今日は何のために】
信号が青になった。
疾風はアクセルを踏んだ。
(……もうちょい走ろう)
【はい】
解体屋が近づく。
道路脇のフェンス越しに、広大な廃車ヤードが見える。
ナンバーのない車。
ドアのない車。
ボンネットを外された車。
積まれたボディ。
鉄。
油。
錆。
コロナの声が、少しだけ変わった。
【ここは】
(うん)
【片桐さんのところではありませんね】
(うん)
【修理工場でもない】
(……うん)
少し沈黙。
【私は、どこか悪いのでしょうか】
(いや)
【では、なぜ】
疾風は答えなかった。
【エンジンは動いています】
(分かってる)
【ブレーキも】
(分かってる)
【足回りは少し気になりますが】
(親父もそう言ってた)
【直せますか】
(直せる)
【では】
疾風は道路脇へ一度クルマを寄せた。
停める。
エンジンは掛けたまま。
アイドリングが続く。
まだ動いている。
まだ走れる。
何も壊れていない。
(お前の旦那、死んだんだ)
エンジンの音だけがした。
【……】
(病気だった)
【……そうですか】
長い沈黙。
【病院から】
(うん)
【戻られなかったのですね】
(うん)
また沈黙。
【奥様は?】
(娘さんと暮らすって)
【長男さんは】
(自分の家がある)
【長女さんも】
(うん)
【……そうですか】
コロナは少し黙った。
アイドリングは変わらない。
回転も乱れない。
【皆さん、大きくなられましたね】
疾風は返事ができなかった。
しばらくして。
(……うん)
【では】
少し間があった。
【もう、旦那を待たなくてよいのですね】
疾風はハンドルを見た。
(……うん)
【分かりました】
もう一度走り出した。
解体屋の入り口までは、すぐだった。
コロナはもう昔話をしなかった。
疾風も何も聞かなかった。
ゲートを入る。
事務所の前。
「KATAGIRIさん?」
「はい」
「その白いの?」
「そうです」
「じゃ、その辺止めて。鍵つけたままでいいよ」
「分かりました」
あまりにも普通だった。
書類を見る。
車台番号。
確認。
印鑑。
誰もこのクルマがまだ走れるかどうかなんて聞かない。
値段もつかない。
次の車検もない。
次のオイル交換もない。
ただ。
今日ここへ持ってきた車。
それだけだった。
疾風は指定された場所へコロナを動かした。
止める。
サイドブレーキ。
ニュートラル。
左手をキーへ伸ばす。
【疾風さん】
初めて名前を呼ばれた。
(何)
【長男さんも、長女さんも、もうご自分で運転されるのですね】
(うん)
【奥様も、お一人ではないのですね】
(うん)
【そうですか】
少し間があった。
【では】
エンジンは静かに回っている。
【皆さんを、ちゃんと送り届けました】
疾風は前を見たまま答えた。
(……うん)
キーを回した。
エンジンが止まった。
振動が消えた。
声も消えた。
疾風はしばらく座っていた。
もう何も聞こえない。
左腕の時計だけが時を刻んでいる。
ドアを開けた。
立ち上がる。
運転席から身体が離れる。
押し潰されていた白いレースのシートカバーが、ゆっくり元の形へ戻った。
疾風はそれを見た。
ドアを閉めようとして。
止めた。
「お疲れ」
返事はなかった。
ドアを閉めた。
古い音がした。
帰りは電車だった。
窓の外を街が流れていく。
スーパーの駐車場に、十年ほど前の型の日産ローレルのセダンが停まっていた。
その横を、老人が買い物袋を持って歩いている。
まだ乗るのだろう。
来年も。
その次も。
壊れたら直して。
新しい車のカタログを見て。
結局、また車検を通すのかもしれない。
『疾風』
(何)
『……いや』
疾風は少しだけ笑った。
(お前最近それ多いぞ)
チュチマは黙った。
少しして、疾風から言った。
(分かってるよ)
『何を』
(あいつ、ちゃんと役目終わったんだろ)
『そうだな』
(家族も残ってるし)
『ああ』
(壊れたわけでもない)
『ああ』
(……まだ走れたのにな)
チュチマは答えなかった。
疾風も、それ以上言わなかった。
機械としての寿命は、まだ残っていた。
ただ。
それを生かし続ける人間が、もういなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
当本編は比較的軽い読み味で読んでいただくため、早々にタイトル回収の描写を、軽い文体で導入しています。
重たい読み味が苦にならないといった方は、前日譚となる外伝1>外伝2>本編の時系列順で読むことで、著者の思惑どおりの3代にわたる時計を軸とした人間(機械)模様といった、叢書的な楽しみ方ができると思います。




