KATAGIRIの日
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
「疾風、それ運んで」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
片桐疾風は、両手にビールのケースを抱えたまま工場を横切った。
いつもならクルマが入っているスペースに、今日は長机が並んでいる。
折り畳み椅子。
紙皿。
割り箸。
大皿。
缶ビール。
ジュース。
そして、やたら大量の食い物。
自動車整備工場KATAGIRIの創立記念日。
といっても、式典があるわけではない。
社長挨拶もない。
記念品もない。
仕事を少し早めに切り上げて、昔からの客や取引先を呼んで飲み食いするだけだった。
なのに。
「疾風、椅子あと三つ」
「俺ここの従業員じゃないんだけど」
和子は皿を並べながら顔も上げなかった。
「でもここの子でしょ」
「成人してます」
「生活費入れてから言って」
「……何運べばいい?」
「椅子」
「はい」
山崎が笑った。
「従業員より素直じゃねえか」
「うるせえ」
「お前今日くらい働けよ」
「客だよ俺」
「どこの客が勝手に冷蔵庫開けてビール飲むんだよ」
「まだ飲んでねえよ」
「あとで飲む気だろ」
「そりゃ飲むだろ」
山崎浩二。
KATAGIRIでは現場のまとめ役みたいなもので、疾風より七つほど上。
子供のころから知っているせいで、疾風にとっては社員というより兄貴分に近い。
その向こうでは大森がテーブルを動かし、清水が紙コップの数を数えていた。
「もりちゃん、そっち持って」
「お前が持て」
「持ってるだろ」
「ひろくん、ビール何本冷えてる?」
「数えた」
「何本?」
「数えたから大丈夫」
「答えになってねえよ」
「お前に飲ませる分はない」
「なんでだよ」
いつものKATAGIRIだった。
ただ、今日はクルマより人の方が多い。
夕方になると、ぼちぼち客が集まり始めた。
部品屋。
古くからの客。
近所のショップ。
昔から付き合いのある板金屋。
顔は知っているけど名前は知らない人もいる。
逆に、疾風が子供のころから知っている人もいる。
「おお、疾風。でかくなったな」
「もう二十二っすよ」
「俺の中じゃまだ小学生だ」
「それ更新してくださいよ」
そんな会話を何度か繰り返した。
母親の和子は、さっきから一度も座っていない。
和子の声が、あちこちへ飛ぶ。
「佐藤さん、こっち空いてますよ」
「浩ちゃん、あっちの人にビール」
「ひろくん、電話」
「もりちゃん、その皿こっち」
誰が来たか。
何を飲んでいるか。
料理が足りているか。
電話。
会計。
全部見ている。
疾風は缶ジュースを開けながら言った。
「母ちゃん、今日も仕事してんじゃん」
「誰かやらないと終わらないでしょ」
隣の古い客が笑った。
「専務は今日も忙しいな」
疾風が和子を見た。
「母ちゃん専務だったの?」
「今さら?」
「いや、なんとなく母ちゃんだと思ってた」
「それも間違ってないわよ」
和子はそう言って、また別の客のところへ行った。
『お前の母親がいなければ、この店は三日で止まるな』
(たぶんな)
左腕から時計が言った。
(親父一人だと電話出ねえし)
『それは知っている』
(知ってんのかよ)
『長かったからな』
疾風は時計を見た。
こういうときだけ妙に古参面する。
その社長は何をしているのかと思えば。
案の定、仕事をしていなかった。
「だから、あれはキャブじゃないんだよ」
「いや、でも症状は同じだったって」
「症状が同じだからって原因まで同じにすんな」
誠は工場の隅で、三人ほどに囲まれてクルマの話をしていた。
手にはビール。
目の前には料理。
どちらもほとんど減っていない。
話だけが進んでいる。
「あのとき片桐さんに見てもらわなきゃ、エンジン載せ替えてたよ」
「載せ替えりゃ直るだろ」
「そういう話じゃねえよ」
「直るならいいじゃん」
「金が違うだろ」
「じゃあ直してよかったな」
雑だ。
ものすごく雑だ。
なのに、その周りに人が集まっている。
疾風は少し離れたところから親父を見た。
(親父、外ではちゃんとした人だったんだな)
『失礼だな』
(家じゃただの親父だぞ)
『家でも誠だ』
(哲学みたいに言うな)
時計が黙った。
たぶん呆れている。
「おう」
聞き慣れた声がした。
伊東司郎だった。
「遅えよ」
疾風が言うと、
「仕事」
「何乗ってきた?」
「普通のクルマ」
「普通って何」
「今日は普通」
「だから何だよ」
司郎は答えず、そのまま誠のところへ行った。
「お前まだその話してんのか」
「お前が遅いからだろ」
「俺関係ねえじゃん」
古い客の一人が司郎を見て言った。
「司郎ちゃん、まだ乗ってんの?」
「乗るだけなら」
「速いやつ?」
「仕事なら」
「昔ほど無茶しねえか」
「昔もそんなしてねえよ」
周囲が笑った。
疾風も笑った。
本人だけ少し不満そうだった。
「そういや疾風」
「何」
「編集部から電話来た?」
「まだ」
「そのうち来る」
「ほんとかよ」
「昨日、結構ウケてたから」
「何が」
「ケツでけえ」
「それ記事に書けねえって言ってただろ」
司郎が笑った。
「だからウケたんだよ」
「意味分かんねえ」
『お前の評価は端的だからな』
(褒めてる?)
『たぶん』
(たぶんかよ)
しばらくして。
工場の入口に、また人影が現れた。
白髪の老人。
細身。
足取りはゆっくりだが、背筋はまだ伸びている。
「爺ちゃん」
疾風が声をかけた。
刈屋は片手を上げた。
「働いてるか」
「今日は働かされてる」
「同じことだ」
「違うよ」
刈屋は笑った。
和子がすぐ気づく。
「お父さん、こっち」
「はいはい」
誠も振り向いた。
「来たか」
「来たぞ」
「もっと早く来りゃいいのに」
「年寄りを急かすな」
司郎が笑った。
疾風は少し妙な気分になる。
親父が刈屋の爺ちゃんにだけは、ほんの少しだけ子供みたいになる。
別に畏まるわけじゃない。
頭を下げるわけでもない。
でも、ほかの人とは違う。
昔からそうだった。
さらに少し遅れて。
「おう、まだやってるか」
もう一人、老人が入ってきた。
誠が顔を上げた。
「水野のおじさん」
「おじさん言うな。お前もいい歳だろ」
「子供のころからそう呼んでるから今さら変わんねえよ」
疾風は思わず笑った。
水野。
疾風が子供のころから、ときどき家へ来る老人だった。
何の人なのかは、よく知らない。
ただ。
親父も昔から「水野のおじさん」と呼んでいる。
そこだけ考えると、いったい何年前からこの家へ出入りしているのか分からない。
刈屋が手を上げた。
「遅かったな」
「お前らが早すぎるんだ」
「年寄りは早いんだよ」
「自分で言うな」
和子が椅子を引いた。
「水野さん、ここ空いてますよ」
「悪いね」
水野が座る。
その途中。
一瞬だけ、疾風の左腕を見た。
「……それ、お前が着けてるのか」
「うん」
疾風も時計を見る。
「親父にもらった」
水野は少しだけ目を細めた。
「そうか」
それだけだった。
『……水野』
(知ってんの?)
『昔からな』
(へえ)
疾風はビールへ手を伸ばした。
それ以上は聞かなかった。
宴会が進む。
誰かが昔話を始める。
一人が話すと、別の誰かが訂正する。
「それ昭和六十年じゃない」
「いや五十九年だ」
「そのクルマなら六十年だろ」
「お前まだ店来てなかったじゃん」
「客で来てたんだよ」
話がどんどん古くなる。
疾風が生まれる前。
KATAGIRIが今の場所へ移る前。
親父がまだ若かったころ。
そこまで来ると、疾風にはほとんど昔話だった。
「誠なんか昔はもっと無口だったからな」
古い客が言った。
「今も無口だろ」
司郎が返す。
「今は喋るよ。昔は『違う』『ダメ』『やり直し』しか言わなかった」
「今も大して増えてねえじゃん」
笑いが起きる。
疾風はビールを飲みながら聞いていた。
ふと、どうでもいい疑問が浮かんだ。
「そういや親父」
「ん?」
「高校どこだったっけ」
誠は焼き鳥を一本取った。
「行ってない」
「は?」
「高校」
「うん」
「行ってない」
疾風はしばらく親父を見た。
「……中卒?」
「そう」
「うそ」
「何が」
「俺、高校のとき親父に数学教えてもらってたじゃん」
「だから何」
「いや何って……」
疾風は本気で混乱した。
「あれ高校数学だぞ」
「知ってるよ」
「なんで知ってんだよ」
「必要だったから覚えた」
「意味分かんねえ」
横から刈屋が言った。
「俺が教えた」
疾風が振り向く。
「爺ちゃんが?」
「そうだ」
「高校数学を?」
「必要なところからな」
疾風は誠と刈屋を交互に見た。
「学校行かずに?」
「学校で覚えなかっただけだ」
刈屋はビールを一口飲んだ。
「機械をやるのに要るものから逆に覚えた」
誠が横から言う。
「数字が要るから数学やった。動き分かんねえから物理やった。それだけ」
「それだけって」
疾風は納得できない顔をした。
「なんで中卒の親父に高校数学教えられて、高卒の俺がプータローなんだよ」
山崎が吹き出した。
司郎は声を出して笑った。
和子だけは真顔だった。
「学歴の問題じゃないでしょ」
『私もそう思うぞ』
(お前まで言うな)
「何ぶつぶつ言ってんの?」
「何でもない」
疾風はビールを飲んだ。
少し苦かった。
夜も深くなってくると、一人ずつ帰り始めた。
「じゃあ片桐さん、また」
「おう」
「専務、ごちそうさま」
「気をつけて」
「疾風、ちゃんと働けよ」
「だから俺ここの社員じゃねえって」
何度言ったか分からない。
最後の客を見送る。
工場の中には、まだ身内みたいな連中が残っていた。
刈屋。
水野。
司郎。
山崎。
大森。
清水。
誠。
和子。
そして疾風。
みんな、何かしらここにつながっている。
疾風だけが社員ではない。
でも、完全な外でもない。
子供のころからここにいる。
工具の場所も知っている。
客の顔も知っている。
店のクルマを勝手に使う。
冷蔵庫も勝手に開ける。
仕事がなくなると、なぜかここへ来る。
それでも。
ここで働いているわけではない。
「疾風、それ中入れといて」
和子が長机を指した。
「まだやるの?」
「誰が出したと思ってるの」
「俺」
「じゃ戻して」
「はいはい」
山崎が反対側を持った。
「従業員じゃなかったんじゃないの?」
「うるせえ」
『よく働く従業員だな』
(違うっつってんだろ)
『便利屋か』
(もっと悪くなった)
机を運び込む。
椅子を畳む。
ゴミをまとめる。
空き缶を袋へ入れる。
結局最後まで手伝った。
やがて、工場の照明が一つずつ消えた。
作業場。
事務所。
受付。
暗くなる。
外へ出た疾風は、振り返った。
KATAGIRI。
4と7を組み合わせたマーク。
子供のころから知っている場所。
親父が作った店。
母親が回してきた店。
ここで働く人。
ここへ来る人。
自分も、その中にいる。
いるけど。
(俺、結局何なんだろうな)
『運び屋ではなかったのか』
(……自称な)
『では便利屋』
(だからやめろ)
疾風は少し笑った。
答えは出なかった。
別に今すぐ出す必要もない気がした。
KATAGIRIの4と7の看板だけが、消灯した工場の上に残っていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当本編は比較的軽い読み味で読んでいただくため、早々にタイトル回収の描写を、軽い文体で導入しています。
重たい読み味が苦にならないといった方は、前日譚となる外伝1>外伝2>本編の時系列順で読むことで、著者の思惑どおりの3代にわたる時計を軸とした人間(機械)模様といった、叢書的な楽しみ方ができると思います。




