この腕
初の連載となります。
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第2話 この腕
私を左手首に巻き、半目で涎を垂らして眠っている、この若い男が現在の私の主人である。
片桐疾風。
二十二歳。
本人は、自分のことを「運び屋」と称している。
私には、何を運んでいるのかよく分からない日も多い。
今もそうだ。
昼下がり。
仕事もなく、自宅の居間にあるソファへ横になり、そのまま寝落ちしている。
片足は床。
もう片方はソファの背へ引っかけている。
行儀が悪い。
口も少し開いている。
さらに、涎まで垂れている。
誠はこんな寝方をしなかった。
少なくとも、私を腕へ巻いたままでは。
疾風が身じろぎした。
右手が動く。
短パンの中へ入る。
ぼりぼり。
私は嫌な予感がした。
右手が出てくる。
そのまま左腕へ伸びてきた。
『待て』
止まらない。
『待て待て待て待て』
疾風が薄目を開けた。
(何)
『ちょちょちょちょ、ふぐりの脇を掻いた指で私に触るんじゃない』
(朝っぱらから細けえな)
『昼だ。それと衛生の話をしている』
疾風は壁の時計を見た。
(……ほんとだ)
『まずそこからか』
右手が再び伸びてくる。
『だから触るな』
(うるせえな)
疾風は面倒くさそうに起き上がり、そのまま洗面所へ向かった。
どうやら手は洗うらしい。
そこは評価しておく。
私は時計である。
チュチマ・グラスヒュッテ。
フリーガークロノグラフ。
一九四一年型。
機械式。
時を刻む。
秒を測る。
ゼンマイを巻けば動く。
油が切れれば調子を崩す。
部品が摩耗すれば交換も必要になる。
定期的な整備も要る。
その意味では、私は今も普通の時計だ。
ただし。
普通の時計は、自分が整備されたことを覚えてはいないらしい。
普通の時計は、着けている人間へ話しかけたりもしない。
普通の時計は、隣に停まった自動車と会話もしない。
どうやら、その辺りから私は普通ではない。
いつからそうなったのか。
なぜそうなったのか。
それについては、私自身にも完全には分からない。
私は時計である。
少なくとも、最初はそうだった。
今も時計ではある。
ただ、少し余計なものが増えた。
私は機械の声が聞こえる。
自動車。
航空機。
工作機械。
その他にも、長く動き続けているものほど声ははっきりしている。
もっとも、人間が想像するほど便利なものではない。
【三番がおかしい】
と言われても、
三番の何がおかしいのかまでは、本人にも分かっていないことがある。
【なんか重い】
では、どこが重いのか分からない。
【痛い】
では、なおさら分からない。
機械とは案外、自分の身体について無知である。
人間と大差ない。
だから結局は、人間が見る。
測る。
考える。
原因を探す。
以前の主人は、それが非常にうまかった。
片桐誠。
疾風の父親である。
誠は、長い間、私を左腕へ巻いていた。
三十年近く。
ほぼ毎日。
仕事の日も。
休みの日も。
工場で油にまみれる日も。
車の下へ潜るときも。
私を飾り物として扱ったことはなかった。
当然、傷は増えた。
ケースにも。
風防にも。
小さな痕はいくつも残っている。
だが、粗末にはされなかった。
調子が悪ければ整備へ出された。
進み方が変われば気づいた。
クロノグラフの動きがおかしければ使わなかった。
そして、自分で分からないところまで開けようとはしなかった。
「知らねえものまで触るのは腕じゃねえよ」
昔、一度そう言った。
時計屋がいるだろ、と。
私はあの考え方が嫌いではなかった。
誠は私を大切にした。
ただし、しまい込むという意味ではない。
使った。
傷つけた。
汚した。
そして、直した。
私にとっては、その方がいい。
私は誠へ何度も話しかけた。
『誠』
呼んだ。
何度も。
だが、誠は振り向かなかった。
私が共にある機械のことを伝える言葉が、そのまま届いたことは一度もない。
それでも時々、彼の意識に何かが滲んだようなことはあった。
理由のない違和感。
なんとなく気になる場所。
説明できない選択。
それが私の声だったのか。
誠自身の勘だったのか。
今でも分からない。
やがて、それすら必要なくなった。
私が何かを言う前に、誠は気づくようになった。
音。
振動。
匂い。
熱。
摩耗。
動き。
少しずつ積み上げて、答えへ辿り着く。
私が、
『そこだ』
と思う頃には、もう工具を持っていた。
少し寂しかった。
それ以上に、嬉しかった。
私の声が、言葉として誠に届くことは最後までなかった。
だが、ある頃から、それでよいと思うようになった。
私が言うより先に、誠は分かるようになったからだ。
そして。
ある日。
私は次の腕へ移った。
この腕だ。
現在ソファへ寝転がり、手を洗っただけで褒められる男の腕である。
片桐疾風。
最初に声をかけたときのことは、よく覚えている。
『疾風』
(何)
返事が返ってきた。
私は驚いた。
もう一度呼んだ。
『疾風』
(だから何)
また返ってきた。
あまりにも普通に返されたので、こちらが困った。
誠には三十年近く、言葉としては届かなかった。
その息子には、一度で届いた。
理由は分からない。
しかも、私の声だけではない。
私を介して、他の機械の声まで聞く。
自動車。
バイク。
機械。
昨日はフェラーリと喧嘩をしていた。
正確には、私も混ざった。
あの女は気に入らない。
向こうも同じことを言っていたので、そこだけは気が合う。
問題は、疾風が誠ほど丁寧ではないことである。
誠は私を机へぶつけるような男ではなかった。
疾風はぶつける。
しかも謝らない。
(時計に謝る奴いるかよ)
『ここにいるだろ。喋る時計が』
(細けえな)
『私は時計だ。細かいのが仕事だ』
風呂へ入る直前まで外さない。
車を弄るときも着けたまま。
バイクへ乗るときもそのまま。
寝るときも外さないことがある。
今日のように、ソファで勝手に寝落ちするからだ。
汗をかいても、すぐには拭かない。
時々、壁や机へ当てる。
袖口へ引っかける。
誠なら一度で気づくようなことを、二度やる。
雑だ。
非常に雑だ。
だが、不思議と壊すところまではやらない。
そこだけは、父親に似ている。
疾風は洗面所から戻ってきた。
手は洗ってある。
よし。
再びソファへ座る。
『今日は仕事はあるのか』
(ない)
『昨日増えたのではなかったか』
(連絡待ち)
『つまり、ないのだな』
(うるせえ)
疾風は新聞を取った。
昨日読んでいたものだ。
また読むらしい。
定職なし。
実家暮らし。
生活費も入れていない。
仕事がなければ寝る。
金が入ればガソリンやら何やらへ消える。
計画性はあまり感じられない。
誠とはまるで違う。
だが。
頼まれた仕事については、妙に真面目だ。
昨日もそうだった。
高価な車を預かった。
時間制限があった。
それでも無茶には走らなかった。
撮影前にタイヤもブレーキも無駄に使わなかった。
借りたものを、使える状態のまま届けた。
疾風はだらしない。
雑だ。
将来のことも、あまり考えていない。
だが。
任されたものをあるべき所に帰すことについては、妙に真面目である。
誠とは違う。
誠は機械へ問いかけなかった。
見た。
聞いた。
触った。
測った。
考えた。
疾風は、まず聞く。
(今日どう?)
【別に】
(別にじゃ分かんねえよ)
【なんか重い】
(どこが)
【分かんない】
『だから測れと言われるんだ』
(親父みたいなこと言うな)
声が聞こえる。
それは便利だ。
だが、声が答えとは限らない。
その辺りを、こいつはまだ少し分かっていない。
いずれ分かるだろう。
誠の息子なのだから。
たぶん。
それにしても。
疾風は、自分のことを特別だとは思っていない。
そこが一番奇妙かもしれない。
私が喋る。
車が喋る。
バイクが喋る。
普通なら、もう少し大騒ぎするものではないだろうか。
最初こそ驚いていた。
だが、すぐ慣れた。
今では私が黙っていると、
(今日静かだな)
と言う。
自分だけに機械の声が聞こえることについても、
(そういうもんなんじゃねえの)
程度で済ませる。
どういうものだ。
私にも分からない。
自分を特別扱いする気もない。
特別扱いされることも、あまり好きではない。
昨日、テスタロッサの鍵を渡されたときもそうだった。
司郎の知り合い。
片桐誠の息子。
その肩書きで信用されたことを、少し気にしていた。
本人は何も言わなかったが。
そういうところは、案外分かりやすい。
電話が鳴った。
疾風が少しだけ顔を上げた。
和子が取る。
「はい、KATAGIRIです」
疾風が聞き耳を立てる。
部品屋だった。
露骨に興味を失った。
『仕事ではなかったな』
(うるせえ)
『暇だな』
(うるせえ)
『寝るのか』
(うるせえ)
疾風はソファへ再び横になった。
『今度は右手を短パンへ入れるな』
(寝る前から監視すんなよ)
『必要な監視だ』
(お前、絶対性格悪くなったよな)
そうかもしれない。
誠の腕にいたころは、誰に何を言っても返事がなかった。
独り言は、あまり面白くない。
今は違う。
『疾風』
(何)
返事がある。
私はそれを、まだ少し面白いと思っている。
誠の腕は悪くなかった。
長い時間を一緒に過ごした。
私はあの腕が好きだった。
だが。
疾風が目を閉じる。
『疾風』
(何だよ)
『……いや、なんでもない』
(呼ぶなよ)
私は時を刻む。
次の腕で。
少々不潔ではあるが。
この腕も、悪くない。
読んでいただき、ありがとうございます。
当本編は比較的軽い読み味で読んでいただくため、早々にタイトル回収の描写を、軽い文体で導入しています。
重たい読み味が苦にならないといった方は、前日譚となる外伝1>外伝2>本編の時系列順で読むことで、著者の思惑どおりの3代にわたる時計を軸とした人間(機械)模様といった、叢書的な楽しみ方ができると思います。




