赤い女
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
一九九〇年、秋。
真っ赤なフェラーリ・テスタロッサが、東京の高速道路を滑るように走っていた。
低い。
広い。
リアフェンダーから後ろへ伸びた巨大な車体が、コンクリートの壁やビルのガラスへ赤い影を流していく。
車列の中でも、そこだけ空気が違って見えた。
後ろでは十二気筒が低く唸っている。
いかにも景気のいい時代の東京を走るのに相応しいクルマだった。
運転席を除けば。
ステアリングを握っているのは、仕立てのいいスーツを着た青年実業家でも、サングラスを掛けたレーシングドライバーでもない。
寝ぐせ。
よれたシャツ。
履き古したジーンズ。
二十二歳。
どう見ても、このクルマとは釣り合っていない若い男だった。
片桐疾風は、右のミラーを見た。
左も見る。
もう一度、右を見る。
(……でけえ)
【何が?】
(ケツ)
【失礼ね】
疾風は何も言わず、前を向いた。
左手首から別の声がした。
『私もそう思うぞ』
(お前は黙ってろ)
疾風の左腕には、古びた黒文字盤のクロノグラフが巻かれていた。
時計はそれ以上何も言わなかった。
フェラーリも黙った。
高速道路の流れだけが続く。
疾風は前方の車列を眺めながら、ほんの数時間前のことを思い出した。
そもそも。
なんで俺が、こんなものを運転しているんだ。
その日の午前。
埼玉県和光市にある自動車整備工場、KATAGIRI。
疾風は暇だった。
正確には、仕事がなかった。
工場の仕事をしているわけでもない。
だからといって、何か用があるわけでもない。
ただ実家なので、いた。
作業場ではインパクトレンチの音がしている。
事務所では母親の和子が伝票をめくっていた。
疾風は椅子へ斜めに座り、昨日の新聞を読んでいた。
電話が鳴った。
「はい、KATAGIRIです」
和子が受話器を取った。
「あら、司郎さん」
疾風は新聞から目だけ上げた。
「疾風?」
嫌な予感がした。
「いるけど」
少し間があった。
和子が疾風を見た。
「暇?」
「忙しい」
和子は受話器へ言った。
「ものすごく暇そう」
「聞こえてるぞ」
受話器を渡された。
「何」
『仕事』
伊東司郎の声だった。
父親の古い友人で、疾風にとっては子供のころから知っているオッサンである。
昔は二輪のレーサーだった。
国際A級。
五百cc。
世界GPまで行った。
今はレースそのものからは距離を置いているが、雑誌やメーカーに呼ばれて四輪へ乗ることもある。
「何の?」
『運び屋』
「俺、運び屋だけど」
『芝浦行って、一台取ってきて』
「どこまで」
『箱根』
「今から?」
『今から』
「何を?」
『フェラーリ』
疾風は新聞を畳んだ。
「……何?」
『テスタロッサ』
「テスタロッサ?」
隣で作業票を書いていた山崎が顔を上げた。
「急に仕事する顔になったな」
「うるせえ」
『何か言ったか?』
「そっちじゃねえよ」
疾風は受話器のカールコードを指で弄った。
「なんで俺?」
『暇だろ』
「それ理由になってねえだろ」
『撮影なんだよ。こっちはもう箱根にいる』
「撮影?」
『雑誌。予定してた比較車が途中で止まった』
「壊れた?」
『らしい。撮影隊もカメラマンも全員もう現地。NSXも来てる』
「NSX?」
『出たばっかのやつ』
「それは知ってる」
『で、代わりにテスタロッサなら出せるって話になった。でも運ぶ奴がいない』
「それで俺?」
『一人いるって言った』
「勝手に人を在庫みたいに言うな」
『嫌ならいいぞ』
「行かないとは言ってない」
『じゃ頼んだ』
切れた。
「……あのオッサン」
疾風は受話器を置いた。
和子が伝票から顔も上げずに言った。
「仕事できてよかったじゃない」
「俺これでも仕事してるよ」
「今日はしてなかったでしょ」
「今日の話かよ」
工場の奥から父親の誠が出てきた。
「何?」
「司郎さんにテスタロッサ取ってこいって」
「どこの?」
「芝浦」
「箱根まで?」
「うん」
誠は少し考えた。
「傷つけんなよ」
「どっちを?」
「フェラーリに決まってんだろ。店のクルマなら直せる」
「そういう問題かよ」
疾風はKATAGIRIのカローラバンで芝浦へ向かった。
走り慣れた商用車だった。
軽い。
細い。
何も気を使わない。
芝浦でカローラバンを降りたあとに見るテスタロッサは、ほとんど別の生き物のようだった。
低い車体。
赤。
横一文字にずらっと並んだサイドフィン。
そして後ろ。
広い。
とにかく広い。
疾風は車体の後ろへ回った。
もう一度横へ戻った。
「片桐さんですか?」
広報担当らしい男が声をかけてきた。
「はい」
「伊東さんから?」
「そうです」
男は一瞬だけ疾風の頭を見た。
寝ぐせを見るな。
「KATAGIRIの片桐さんの息子さんですよね」
「ああ、はい」
結局そこか。
疾風は少しだけ面白くなかった。
司郎の知り合い。
片桐誠の息子。
今日のところは、それで問題なくテスタロッサの鍵が出てくる。
「撮影が押してまして。できれば二時半までにターンパイクの現場へ」
疾風は腕時計を見た。
「まあ、普通に行けば」
「お願いします。くれぐれも」
「分かってます」
疾風は鍵を受け取った。
運転席へ座る。
思った以上に横へ広い。
シート位置を合わせる。
ミラー。
ペダル。
シフト。
キーをひねった。
背後で大きなエンジンが目を覚ました。
【あなたが運転するの?】
疾風の右手が止まった。
(……女か)
【何か問題でも?】
(いや)
『随分と自信のありそうな女だな』
(お前、初対面でいちいち口挟むな)
【誰と話しているの?】
(時計)
【時計?】
『時計だ』
数秒、沈黙。
【変な人ね】
(お前に言われたくねえよ)
芝浦を出た。
疾風は最初、かなり慎重に走らせた。
フェラーリ。
十二気筒。
五リッター近い排気量。
いかにも機嫌を損ねると何をするか分からないクルマを想像していた。
ところが。
(……普通だな)
【何が?】
(乗りやすい)
【当たり前でしょう】
(もっと気難しいと思ってた)
【それも失礼ね】
(だってフェラーリだろ)
【それが何?】
交通の流れに合わせる程度なら、むしろ楽だった。
低い回転から十分な力がある。
無理に回す必要もない。
シフトを頻繁に弄らなくても、太いトルクで車体を押していく。
問題は別にあった。
疾風はミラーを見る。
また見る。
(……でけえ)
【何が?】
(ケツ)
【失礼ね】
疾風は少し笑った。
首都高速。
コンクリートの壁。
ビル。
分岐。
密集した東京が、次々と後ろへ流れていく。
疾風は前の車だけを見ていなかった。
二台先。
三台先。
トラックの影。
合流。
車線変更。
少し先で詰まりそうなら早めにアクセルを戻す。
空けば速度を戻す。
ブレーキを踏まないことが偉いわけではない。
踏まなくて済むように先を見る。
昔、司郎に何度も言われた。
止まれるように走るんじゃない。
止まらなくて済むように走れ。
用賀を過ぎ、東名へ入る。
空が少し広くなった。
交通の流れも変わる。
前が開いた。
疾風はシフトをひとつ落とした。
アクセルを踏み込む。
背後の十二気筒が、急に声色を変えた。
低く抑えられていた音が回転とともに伸び、高らかに歌い始める。
疾風の口元が少しだけ緩んだ。
(……なるほど)
【何?】
(いや)
【言いなさい】
(速いな。それにいい声だ)
【当然でしょう】
疾風はアクセルを戻した。
十二気筒の歌が静まる。
少し間を置いて、
(でもケツでけえな)
【降りなさい】
『気が合いそうだな』
(どこがだよ)
厚木。
小田原厚木道路。
東京の密度が少しずつ薄くなっていく。
山が近づく。
箱根の輪郭が前方へ立ち上がってくる。
腕時計を見る。
まだ間に合う。
無理をする必要はない。
速く着くことより、着くこと。
それも、撮影に使える状態で。
小田原からターンパイクへ入った。
勾配がつく。
長いカーブ。
街の景色が消え、山の中へ入る。
テスタロッサの反応が変わった。
【ここなら、もう少しくらい歌わせてよ】
(ダメ)
【なぜ?】
(仕事中)
【つまらない男ね】
(撮影前にタイヤとブレーキ使ってどうすんだよ)
『正論だ』
【この時計、嫌い】
『奇遇だな。私もだ。』
(勝手に喧嘩すんな)
撮影隊が見えた。
道路脇にスタッフ。
機材。
何台かの車。
そして、その中に低い黒い車体があった。
NSX。
発売されたばかりの新車だった。
疾風は指定された場所へテスタロッサを止めた。
エンジンを切る。
外へ出る。
司郎が近づいてきた。
「おせえ」
「間に合ってるだろ」
「ギリギリ」
「誰のせいだよ」
編集者らしい男が、テスタロッサと疾風を交互に見た。
「この子?」
「こいつ」
「もうちょい紹介の仕方ってもんがあるだろ」
司郎は疾風を指した。
「暇な奴」
「帰るぞ」
そのとき、テスタロッサが低く言った。
【……あれが今日の相手?】
(らしい)
【六気筒でしょう?】
(お前なんだか感じ悪いぞ)
黒いNSXから声がした。
【こんにちは】
疾風は少し止まった。
(……普通だ)
【何がでしょう】
(いや、なんでもない)
【ずいぶん静かな子ね】
テスタロッサ。
【必要なことは話しています】
【面白くないわね】
【走行性能には関係ありません】
テスタロッサが少し黙った。
【……嫌いだわ、この子】
(俺はけっこう好きかも)
【聞いてないわ】
撮影が始まった。
まず司郎がNSXへ乗った。
疾風はスタッフの脇で缶コーヒーを飲みながら待っていた。
しばらくして戻ってきた司郎は、編集者へ淡々と話し始めた。
「進入でブレーキ残してもフロントが逃げにくい。そこからハンドル足しても変なロールの増え方しない。アクセル入れたときもリアが急に仕事始める感じがない」
編集者がメモを取る。
「乗りやすい?」
「それじゃ記事にならんだろ」
「だから聞いてんの」
「乗りやすいよ。でも『簡単』とは違う。速く走る操作まで普通の延長にある」
疾風は缶を口へ運びながら聞いていた。
昔から変わらない。
司郎は機械の具合を言葉にするのがうまい。
本人は大して意識していない。
うちの親父に鍛えられた結果だ。
何が変だ。
どこだ。
いつだ。
どうしたら出る。
分かった気になるな。
疾風自身も子供のころから、その横で散々聞かされている。
司郎が振り向いた。
「疾風」
「何」
「乗ってこい」
「なんで」
「テスタロッサ乗ってきただろ」
「運んできただけだって」
「比べられるじゃん」
「俺、ライターじゃねえぞ」
「知ってる」
「レーサーでもない」
「知ってる」
「じゃなんで俺なんだよ」
「暇だから」
「そこから離れろよ」
疾風はNSXへ乗り込んだ。
シート。
ペダル。
視界。
どれも自然だった。
(なんかお前、話早いな)
【ありがとうございます】
(褒めたのかこれ)
【褒め言葉として受け取っておきます】
走り出す。
すぐに分かった。
テスタロッサも思ったよりずっと乗りやすかった。
だが、方向が違う。
あちらはこちらがクルマを理解してやれば、それにきちんと応える。
NSXは最初からこちら側へ寄ってくる。
ブレーキ。
ハンドル。
アクセル。
【さきほどの方と似た操作をされますね】
(そうかぁ?)
【まだ回せます】
(分かってる)
【まだです】
(意外と煽るなお前)
【性能を使用していただいているだけです】
(お前、結構熱いな)
【その評価には同意しかねます】
(そういうとこだよ)
戻ると、編集者が待っていた。
「どうだった?」
疾風はNSXを振り返った。
「こっちは最初から人間に合わせて作ってあるな」
「どういう意味?」
「テスタロッサも思ったより全然普通に乗れる。でも、あっちはこっちがクルマを分かってやる感じ」
今度はNSXを見る。
「こっちは、クルマの方が最初から人間を分かってる感じ」
編集者のペンが動いた。
司郎が少しだけ笑った。
「じゃ、どっちが乗りやすい?」
「NSX」
「即答だな」
「だってフェラーリ、ケツでけえもん」
編集者のペンが止まった。
「それは記事に書けないな」
「じゃ聞くなよ」
疾風は缶コーヒーの残りを飲んだ。
「あと」
「何?」
「テスタロッサ、強めに荷重かけたあと右前だけ戻りちょっと遅い気がする」
編集者が司郎を見た。
司郎も疾風を見た。
「俺も思った」
「だろ」
疾風は何でもないように言った。
テスタロッサが少し離れたところから、
【ちゃんと分かっていたのね】
(まあな)
【なら最初からそう言いなさい】
(ケツでかいのも事実だろ)
【まだ言うの?】
撮影が一段落したころ。
編集者が疾風へ声をかけた。
「お前、こういう仕事やらない?」
「こういう?」
「試乗」
「俺レーサーじゃないけど」
「知ってる」
「ライターでもない」
「知ってる」
「じゃ何するの」
「乗って喋る」
「文章は?」
「こっちで書く」
疾風は少し考えた。
「金出る?」
「出る」
「やります」
即答だった。
司郎が横から言った。
「プータロー」
「うるせえ」
帰り。
疾風は便乗した助手席で窓の外を見ていた。
結局、箱根までフェラーリを運んだだけのはずが、知らない間に雑誌の仕事まで増えていた。
『運び屋ではなかったのか』
(運んだだろ)
『最後は車に乗って喋っていたぞ』
(それで金出るんだから仕事だろ)
『節操がないな』
(食えてりゃいいの)
時計は少し黙った。
疾風も黙った。
本当にそれでいいのか。
疾風自身、よく分かっていなかった。
ただ今日ひとつだけ、新しい仕事が増えた。
それで十分だった。
読んでいただき、ありがとうございます。
当本編は比較的軽い読み味で読んでいただくため、早々にタイトル回収の描写を、軽い文体で導入しています。
重たい読み味や絡んだ伏線が苦にならないといった方は、前日譚となる外伝1>外伝2>本編の時系列順で読むことで、著者の思惑どおりの3代にわたる時計を軸とした人間(機械)模様といった、叢書的な楽しみ方ができると思います。




