帰れ
翌日の午後、水野は刈屋の家へやってきた。
「何だよ、急に」
玄関を上がりながら言った水野に、刈屋は居間を指した。
「まあ座れ」
「その言い方、ろくな話じゃないな」
「別に悪い話ではない」
「刈屋さんがそう言うと余計に怪しいんだよ」
疾風は座卓の向こうから、そのやり取りを眺めていた。
昔からそうだった。
水野は片桐家にも刈屋の家にも、親戚のような顔をして普通にいる。
だが、考えてみれば親戚ではない。
そのことに気づいたのは、つい昨日だった。
左腕で、時計が小さく言った。
『水野』
水野は何の反応も示さなかった。
「水野のおじさん」
「何だ」
「今、何か聞こえた?」
「何が」
「やっぱ聞こえねえのか」
「何の話だ」
疾風は左腕を上げた。
「これ」
「時計がどうした」
「喋るんだよ」
水野が黙った。
時計を見た。
疾風を見た。
それから刈屋を見た。
「……刈屋さん」
「本当だ」
「聞こえるんですか」
「私は聞こえる」
「何で?」
「知らん」
「俺も知りたい」
水野はしばらく二人を交互に見た。
「お前ら、俺をからかってるんじゃないだろうな」
『あいかわらず雑なやつだな』
疾風は水野を見た。
「あいかわらず雑なやつだって言ってる」
「…………」
『昔からそうだった』
「昔からだって」
「いちいち伝えなくていい」
「俺じゃねえよ」
水野は左腕の時計をじっと見た。
「……本当に、これが喋ってるのか」
「うん」
「俺には何も聞こえんぞ」
「親父も聞こえない。母ちゃんは何となく分かることがあるらしい。爺ちゃんは聞こえる」
「お前は?」
「普通に聞こえる。こいつだけじゃなくて、クルマとかバイクも」
「……何だそれ」
「だから俺もそう思ってるって」
水野はまだ半信半疑の顔で、時計を見ていた。
やがて、その目が少し変わった。
「しかし……こいつがなあ」
「やっぱ知ってるんだよね」
「知ってるよ」
「どのくらい前から?」
「戦争中だ」
「そんな前から?」
「義雄さんが着けてたんだから当たり前だろ」
水野は笑った。
「一度、腕を取って覗き込んだことがある。『中尉の時計、なんかすげえですね』って言ったらな」
疾風の左腕を指した。
「日本で同じものを手に入れようとすれば、お前の俸給が三月分、まるごと消えるくらいだ、って」
「三か月?」
「慌てて手を離したよ。そしたら白江さんに笑われた」
『あのころから扱いが雑だった』
「また雑だって」
「もういい」
水野は苦笑した。
だが、その視線は時計から離れなかった。
「そうか。お前、まだ動いてるのか」
『ああ』
「まだ動いてるって」
「そうか」
それだけ言って、水野は少し黙った。
疾風は、そこでようやく本題を思い出した。
「でさ」
「何だ」
「水野のおじさんって、結局何なの?」
「何って何だよ」
「親戚じゃないよね?」
「違うぞ」
「なのに俺がガキのころから普通にいるよね?」
「いたな」
「何なの?」
刈屋が答えた。
「水野だ」
「説明になってねえよ」
「そう言われてもな」
水野が笑った。
しばらく考えてから、座卓に肘をついた。
「俺は戦争中、義雄さんと一緒に飛んでた」
「戦友?」
「それだけじゃないな」
水野は首を振った。
「白江さんには、飛行機乗りにしてもらった」
「白江さん?」
「俺の上官だった人だ」
水野は少し遠くを見るような目をした。
「義雄さんには、生きて帰る飛び方を教えてもらった」
疾風は黙って聞いた。
「敵を落とすことより、深追いするな、燃料を忘れるな、機体がおかしいと思ったら意地を張るな。帰れなくなる勝ち方をするなってな」
「……爺ちゃんが?」
「そうだ」
水野は刈屋を見た。
「で、刈屋さんには、その飛行機を生きて帰れるようにしてもらった」
「爺ちゃん、そんなにすごかったの?」
刈屋が眉を寄せた。
「何だ、その聞き方は」
「いや、機械に詳しいのは知ってるけど」
水野が笑った。
「お前、本当に知らないんだな」
「何を」
「俺たちのところじゃ、整備の神様みたいな人だったんだぞ」
「大げさだ」
刈屋が即座に言った。
「本人はこう言うけどな」
「必要なことをしただけだ」
「俺たち搭乗員が、何か変だ、くらいしか言えないものを見つけるんだよ。音だの、振動だの、焼け方だの、油の汚れだの」
水野は疾風を見た。
「空で俺たちが感じていたものを、この人は地上で聞いてた」
疾風は刈屋を見る。
昨日、初めて時計の声を聞いた老人は、何も言わなかった。
『刈屋は昔からそうだった』
「昔からだって」
「それは伝えなくていい」
「何でみんな俺に怒るんだよ」
『お前が伝えているからだ』
「お前のせいだろ」
水野が吹き出した。
「本当に喋ってるみたいだな」
「だから喋ってるんだって」
笑いが収まると、水野は続けた。
「白江さんと義雄さん。この二人がいなかったら、俺はあの戦争を生きて帰ってない」
少し置いた。
「刈屋さんもだ」
刈屋は何も言わない。
「だから俺は、あの人たちに生かされて、教えられて、最後まで飛んで帰ってきたんだ」
「お前が帰ったのは、お前が帰ったからだ」
刈屋が言った。
水野は笑った。
「そういうことにしといてください」
左腕で、チュチマが言った。
『よく帰った』
疾風は時計を見た。
「……水野のおじさん」
「何だ」
「よく帰ったって」
水野の表情が止まった。
「時計が?」
「うん」
水野はしばらく何も言わなかった。
「……そうか」
『義雄がいなくなったあとも、飛んだのだろう』
「爺ちゃんが死んだあとも飛んでたんだろ、って」
「ああ」
水野は頷いた。
「終戦まではな」
『そうか』
短い言葉だった。
だが、それ以上は何も言わなかった。
疾風も伝えなかった。
「戦争が終わってからは?」
「しばらくして、白江さんがまた飛ぶことになった」
「また?」
「航空自衛隊だ。搭乗員として戻った」
「へえ」
「俺も誘われたよ」
「行かなかったの?」
「行かなかった」
「何で」
「もう戦闘機はいいと思った」
水野は肩をすくめた。
「飛ぶのをやめたわけじゃない。測量だの取材だの、民間の飛行機を飛ばしてた。おかげで食うには困らなかった」
「ずっとパイロットだったの?」
「まあな」
「初めて聞いたぞ」
「聞かれなかったからな」
「白江さんは?」
水野の顔から、わずかに笑いが消えた。
「もう死んだよ」
「飛行機で?」
「いや」
水野は首を振った。
「釣りだ」
「……釣り?」
「休みの日にな。水の事故だ」
疾風は何も言えなかった。
戦争を生き残った。
戦後も空を飛んだ。
その最後が飛行機ではなく、休日の釣りだった。
水野はそれ以上、その話をしなかった。
「で、戦争が終わってからも、うちに来てたの?」
「ああ」
「何で?」
「最初は義雄さんの家だったからだよ」
水野は言った。
「そのうち誠の家になった」
疾風を見た。
「気がついたら、お前までいた」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目か?」
「いや」
疾風は頭を掻いた。
「何かもっと、親戚みたいな理由があるのかと思ってた」
「ない」
「じゃあ本当に、ただの水野のおじさんじゃん」
「さっきからそう言ってるだろ」
「だからそれが分かんなかったんだよ」
刈屋が言った。
「水野は水野だ」
「爺ちゃんは黙ってて」
少し笑いが戻った。
それが消えたのは、疾風が次のことを聞いたときだった。
「俺の父方の爺ちゃんって、どんな人だった?」
水野はすぐには答えなかった。
「昨日まで、ほとんど知らなかったんだよ」
「誠から聞いてないのか」
「戦争で死んだってくらい」
「そうか」
「どうやって死んだの?」
水野は座卓に置いた手を見た。
やがて言った。
「帰ってきたんだよ」
「え?」
「義雄さんは、帰ってきた」
疾風は意味が分からなかった。
「昭和二十年の七月二十八日だ」
水野の声から、さっきまでの軽さが消えた。
「義雄さんは傷を負ってた。機体も傷だらけだった」
「機体って」
「四式戦闘機」
水野は疾風を見た。
「疾風だ」
自分の名前を呼ばれたような気がした。
「……はやて?」
「ああ」
「昨日、こいつも言ってた。四式戦闘機、疾風って」
「そうか」
「爺ちゃんが乗ってたの?」
「そうだ」
水野はゆっくり頷いた。
「それで帰ってきた」
「助からなかったの?」
「飛行場までは帰ってきた」
その言い方で、疾風にも分かった。
「刈屋さんもいた。俺もいた」
水野は続けた。
「義雄さんは機体を降ろされるとき、刈屋さんに言った」
刈屋は目を伏せていた。
「壊してしまってすみません。また飛べるようにしてやってください、ってな」
疾風は刈屋を見た。
「……それが最後?」
「ああ」
答えたのは刈屋だった。
疾風は自分の左腕を見た。
「お前も、そこにいたんだよな」
『いた』
「全部見てた?」
『ああ』
「爺ちゃん、どんなだった?」
しばらく、時計は答えなかった。
『義雄だけではない』
「え?」
『あの疾風も傷ついていた』
疾風は黙った。
『熱かった』
『重かった』
『いくつも傷んでいた』
『それでも飛んだ』
水野には聞こえていない。
刈屋だけが、疾風と同じように黙って時計を見ていた。
『義雄は、あの機体を帰そうとしていた』
「……うん」
『そして、あの機体も』
時計の声が途切れた。
『義雄を帰そうとしていた』
疾風は顔を上げた。
水野がこちらを見ている。
「何て言ってる?」
「あの飛行機も……爺ちゃんを帰そうとしてたって」
水野の目が止まった。
刈屋は動かなかった。
四十五年前。
傷ついた人間が、傷ついた機械を帰そうとしていた。
傷ついた機械が、傷ついた人間を帰そうとしていた。
義雄は、機体を飛行場まで連れて帰った。
機体も、義雄を飛行場まで連れて帰った。
どちらも、自分だけが帰ろうとしていたのではなかった。
その二つの間で、時計だけが両方の声を聞いていた。
聞いているだけだった。
「昨日言ってたの……これ?」
『そうだ』
「爺ちゃんに、機械の声を届けられなかったって」
『そうだ』
「飛行機は、何て言ってた?」
『帰りたい』
少し間があった。
『帰してやりたい』
疾風は左腕を握った。
「じゃあ、お前は?」
時計は答えなかった。
「お前は、爺ちゃんに何て言いたかった?」
長い沈黙のあと。
『帰れ』
「……飛行機に?」
『違う』
『義雄にだ』
*
しばらく、誰も口を開かなかった。
水野には、今のやり取りは聞こえていない。
それでも、疾風の顔を見ていた。
「……何て言った?」
疾風は左腕から目を離さなかった。
「帰れ、って」
「誰に」
「爺ちゃんに」
水野の表情が止まった。
「こいつ、爺ちゃんに帰れって言いたかったんだって」
水野は何も言わなかった。
「でも、言えなかった」
刈屋も黙っていた。
「飛行機も、爺ちゃんを帰そうとしてた。こいつはそれを聞いてた。でも、それも伝えられなかった」
疾風はそこで初めて水野を見た。
「ずっと、それが残ってたんだって」
水野は俯いた。
時計は四十五年間、動き続けていた。
義雄の腕を離れ、誠の腕へ渡った。
その間にも、水野とは何度も会っている。
義雄が生きて帰そうとした若い搭乗員が、本当に生きて帰ったことも知っていた。
それでも、伝える方法がなかった。
『水野』
疾風は時計を見る。
『よく帰った』
今度は、すぐに伝えた。
「……水野のおじさん」
「何だ」
「よく帰った、って」
水野は顔を上げた。
「こいつが?」
「うん」
水野はしばらく時計を見ていた。
「……そうか」
それだけだった。
それで十分だった。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて疾風は、もう一度自分の名前を思った。
「なあ」
『何だ』
「俺の名前って」
水野と刈屋が顔を上げた。
「この飛行機から来てるの?」
『誠が決めた名だ』
「それは聞いた」
『なら、それが答えだ』
「逃げんなよ」
『逃げてはいない』
「お前も、疾風がいいと思ったんだろ」
時計は少し黙った。
『思った』
「親父に、それが伝わった?」
『分からない』
「またそれかよ」
『誠が自分で決めたのかもしれない。私の中にあったものが、わずかに滲んだのかもしれない』
「じゃあさ」
疾風は聞いた。
「何で疾風だったの?」
『何がだ』
「速い飛行機だったから?」
『違う』
返事は早かった。
疾風は待った。
『帰ってきたからだ』
部屋が静かになった。
疾風は左腕の時計を見た。
自分の名前を、二十二年間使ってきた。
速そうな名前だとは思っていた。
それ以上のことを考えたことはなかった。
だが、その名前は。
速く飛んだ機械の名前ではなかった。
傷ついて。
壊れながら。
それでも人を連れて帰ってきた機械の名前だった。
「……そっか」
時計は何も言わなかった。
水野も、刈屋も何も言わなかった。
疾風はしばらくして顔を上げた。
「で、水野のおじさん」
「何だ」
「結局、親戚じゃないんだよね?」
「まだそこに戻るのか」
「だって気になるだろ」
「違う」
「じゃあ何なの?」
水野は少し考えた。
「さあな」
刈屋が言った。
「水野だ」
「だから説明になってねえって」
左腕で、時計が笑ったような気がした。




