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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。  作者: lemonia


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11/12

帰れ

翌日の午後、水野は刈屋の家へやってきた。


「何だよ、急に」


玄関を上がりながら言った水野に、刈屋は居間を指した。


「まあ座れ」


「その言い方、ろくな話じゃないな」


「別に悪い話ではない」


「刈屋さんがそう言うと余計に怪しいんだよ」


疾風は座卓の向こうから、そのやり取りを眺めていた。


昔からそうだった。


水野は片桐家にも刈屋の家にも、親戚のような顔をして普通にいる。


だが、考えてみれば親戚ではない。


そのことに気づいたのは、つい昨日だった。


左腕で、時計が小さく言った。


『水野』


水野は何の反応も示さなかった。


「水野のおじさん」


「何だ」


「今、何か聞こえた?」


「何が」


「やっぱ聞こえねえのか」


「何の話だ」


疾風は左腕を上げた。


「これ」


「時計がどうした」


「喋るんだよ」


水野が黙った。


時計を見た。


疾風を見た。


それから刈屋を見た。


「……刈屋さん」


「本当だ」


「聞こえるんですか」


「私は聞こえる」


「何で?」


「知らん」


「俺も知りたい」


水野はしばらく二人を交互に見た。


「お前ら、俺をからかってるんじゃないだろうな」


『あいかわらず雑なやつだな』


疾風は水野を見た。


「あいかわらず雑なやつだって言ってる」


「…………」


『昔からそうだった』


「昔からだって」


「いちいち伝えなくていい」


「俺じゃねえよ」


水野は左腕の時計をじっと見た。


「……本当に、これが喋ってるのか」


「うん」


「俺には何も聞こえんぞ」


「親父も聞こえない。母ちゃんは何となく分かることがあるらしい。爺ちゃんは聞こえる」


「お前は?」


「普通に聞こえる。こいつだけじゃなくて、クルマとかバイクも」


「……何だそれ」


「だから俺もそう思ってるって」


水野はまだ半信半疑の顔で、時計を見ていた。


やがて、その目が少し変わった。


「しかし……こいつがなあ」


「やっぱ知ってるんだよね」


「知ってるよ」


「どのくらい前から?」


「戦争中だ」


「そんな前から?」


「義雄さんが着けてたんだから当たり前だろ」


水野は笑った。


「一度、腕を取って覗き込んだことがある。『中尉の時計、なんかすげえですね』って言ったらな」


疾風の左腕を指した。


「日本で同じものを手に入れようとすれば、お前の俸給が三月分、まるごと消えるくらいだ、って」


「三か月?」


「慌てて手を離したよ。そしたら白江さんに笑われた」


『あのころから扱いが雑だった』


「また雑だって」


「もういい」


水野は苦笑した。


だが、その視線は時計から離れなかった。


「そうか。お前、まだ動いてるのか」


『ああ』


「まだ動いてるって」


「そうか」


それだけ言って、水野は少し黙った。


疾風は、そこでようやく本題を思い出した。


「でさ」


「何だ」


「水野のおじさんって、結局何なの?」


「何って何だよ」


「親戚じゃないよね?」


「違うぞ」


「なのに俺がガキのころから普通にいるよね?」


「いたな」


「何なの?」


刈屋が答えた。


「水野だ」


「説明になってねえよ」


「そう言われてもな」


水野が笑った。


しばらく考えてから、座卓に肘をついた。


「俺は戦争中、義雄さんと一緒に飛んでた」


「戦友?」


「それだけじゃないな」


水野は首を振った。


「白江さんには、飛行機乗りにしてもらった」


「白江さん?」


「俺の上官だった人だ」


水野は少し遠くを見るような目をした。


「義雄さんには、生きて帰る飛び方を教えてもらった」


疾風は黙って聞いた。


「敵を落とすことより、深追いするな、燃料を忘れるな、機体がおかしいと思ったら意地を張るな。帰れなくなる勝ち方をするなってな」


「……爺ちゃんが?」


「そうだ」


水野は刈屋を見た。


「で、刈屋さんには、その飛行機を生きて帰れるようにしてもらった」


「爺ちゃん、そんなにすごかったの?」


刈屋が眉を寄せた。


「何だ、その聞き方は」


「いや、機械に詳しいのは知ってるけど」


水野が笑った。


「お前、本当に知らないんだな」


「何を」


「俺たちのところじゃ、整備の神様みたいな人だったんだぞ」


「大げさだ」


刈屋が即座に言った。


「本人はこう言うけどな」


「必要なことをしただけだ」


「俺たち搭乗員が、何か変だ、くらいしか言えないものを見つけるんだよ。音だの、振動だの、焼け方だの、油の汚れだの」


水野は疾風を見た。


「空で俺たちが感じていたものを、この人は地上で聞いてた」


疾風は刈屋を見る。


昨日、初めて時計の声を聞いた老人は、何も言わなかった。


『刈屋は昔からそうだった』


「昔からだって」


「それは伝えなくていい」


「何でみんな俺に怒るんだよ」


『お前が伝えているからだ』


「お前のせいだろ」


水野が吹き出した。


「本当に喋ってるみたいだな」


「だから喋ってるんだって」


笑いが収まると、水野は続けた。


「白江さんと義雄さん。この二人がいなかったら、俺はあの戦争を生きて帰ってない」


少し置いた。


「刈屋さんもだ」


刈屋は何も言わない。


「だから俺は、あの人たちに生かされて、教えられて、最後まで飛んで帰ってきたんだ」


「お前が帰ったのは、お前が帰ったからだ」


刈屋が言った。


水野は笑った。


「そういうことにしといてください」


左腕で、チュチマが言った。


『よく帰った』


疾風は時計を見た。


「……水野のおじさん」


「何だ」


「よく帰ったって」


水野の表情が止まった。


「時計が?」


「うん」


水野はしばらく何も言わなかった。


「……そうか」


『義雄がいなくなったあとも、飛んだのだろう』


「爺ちゃんが死んだあとも飛んでたんだろ、って」


「ああ」


水野は頷いた。


「終戦まではな」


『そうか』


短い言葉だった。


だが、それ以上は何も言わなかった。


疾風も伝えなかった。


「戦争が終わってからは?」


「しばらくして、白江さんがまた飛ぶことになった」


「また?」


「航空自衛隊だ。搭乗員として戻った」


「へえ」


「俺も誘われたよ」


「行かなかったの?」


「行かなかった」


「何で」


「もう戦闘機はいいと思った」


水野は肩をすくめた。


「飛ぶのをやめたわけじゃない。測量だの取材だの、民間の飛行機を飛ばしてた。おかげで食うには困らなかった」


「ずっとパイロットだったの?」


「まあな」


「初めて聞いたぞ」


「聞かれなかったからな」


「白江さんは?」


水野の顔から、わずかに笑いが消えた。


「もう死んだよ」


「飛行機で?」


「いや」


水野は首を振った。


「釣りだ」


「……釣り?」


「休みの日にな。水の事故だ」


疾風は何も言えなかった。


戦争を生き残った。


戦後も空を飛んだ。


その最後が飛行機ではなく、休日の釣りだった。


水野はそれ以上、その話をしなかった。


「で、戦争が終わってからも、うちに来てたの?」


「ああ」


「何で?」


「最初は義雄さんの家だったからだよ」


水野は言った。


「そのうち誠の家になった」


疾風を見た。


「気がついたら、お前までいた」


「それだけ?」


「それだけじゃ駄目か?」


「いや」


疾風は頭を掻いた。


「何かもっと、親戚みたいな理由があるのかと思ってた」


「ない」


「じゃあ本当に、ただの水野のおじさんじゃん」


「さっきからそう言ってるだろ」


「だからそれが分かんなかったんだよ」


刈屋が言った。


「水野は水野だ」


「爺ちゃんは黙ってて」


少し笑いが戻った。


それが消えたのは、疾風が次のことを聞いたときだった。


「俺の父方の爺ちゃんって、どんな人だった?」


水野はすぐには答えなかった。


「昨日まで、ほとんど知らなかったんだよ」


「誠から聞いてないのか」


「戦争で死んだってくらい」


「そうか」


「どうやって死んだの?」


水野は座卓に置いた手を見た。


やがて言った。


「帰ってきたんだよ」


「え?」


「義雄さんは、帰ってきた」


疾風は意味が分からなかった。


「昭和二十年の七月二十八日だ」


水野の声から、さっきまでの軽さが消えた。


「義雄さんは傷を負ってた。機体も傷だらけだった」


「機体って」


「四式戦闘機」


水野は疾風を見た。


「疾風だ」


自分の名前を呼ばれたような気がした。


「……はやて?」


「ああ」


「昨日、こいつも言ってた。四式戦闘機、疾風って」


「そうか」


「爺ちゃんが乗ってたの?」


「そうだ」


水野はゆっくり頷いた。


「それで帰ってきた」


「助からなかったの?」


「飛行場までは帰ってきた」


その言い方で、疾風にも分かった。


「刈屋さんもいた。俺もいた」


水野は続けた。


「義雄さんは機体を降ろされるとき、刈屋さんに言った」


刈屋は目を伏せていた。


「壊してしまってすみません。また飛べるようにしてやってください、ってな」


疾風は刈屋を見た。


「……それが最後?」


「ああ」


答えたのは刈屋だった。


疾風は自分の左腕を見た。


「お前も、そこにいたんだよな」


『いた』


「全部見てた?」


『ああ』


「爺ちゃん、どんなだった?」


しばらく、時計は答えなかった。


『義雄だけではない』


「え?」


『あの疾風も傷ついていた』


疾風は黙った。


『熱かった』


『重かった』


『いくつも傷んでいた』


『それでも飛んだ』


水野には聞こえていない。


刈屋だけが、疾風と同じように黙って時計を見ていた。


『義雄は、あの機体を帰そうとしていた』


「……うん」


『そして、あの機体も』


時計の声が途切れた。


『義雄を帰そうとしていた』


疾風は顔を上げた。


水野がこちらを見ている。


「何て言ってる?」


「あの飛行機も……爺ちゃんを帰そうとしてたって」


水野の目が止まった。


刈屋は動かなかった。


四十五年前。


傷ついた人間が、傷ついた機械を帰そうとしていた。


傷ついた機械が、傷ついた人間を帰そうとしていた。


義雄は、機体を飛行場まで連れて帰った。


機体も、義雄を飛行場まで連れて帰った。


どちらも、自分だけが帰ろうとしていたのではなかった。


その二つの間で、時計だけが両方の声を聞いていた。


聞いているだけだった。


「昨日言ってたの……これ?」


『そうだ』


「爺ちゃんに、機械の声を届けられなかったって」


『そうだ』


「飛行機は、何て言ってた?」


『帰りたい』


少し間があった。


『帰してやりたい』


疾風は左腕を握った。


「じゃあ、お前は?」


時計は答えなかった。


「お前は、爺ちゃんに何て言いたかった?」


長い沈黙のあと。


『帰れ』


「……飛行機に?」


『違う』


『義雄にだ』


     *


しばらく、誰も口を開かなかった。


水野には、今のやり取りは聞こえていない。


それでも、疾風の顔を見ていた。


「……何て言った?」


疾風は左腕から目を離さなかった。


「帰れ、って」


「誰に」


「爺ちゃんに」


水野の表情が止まった。


「こいつ、爺ちゃんに帰れって言いたかったんだって」


水野は何も言わなかった。


「でも、言えなかった」


刈屋も黙っていた。


「飛行機も、爺ちゃんを帰そうとしてた。こいつはそれを聞いてた。でも、それも伝えられなかった」


疾風はそこで初めて水野を見た。


「ずっと、それが残ってたんだって」


水野は俯いた。


時計は四十五年間、動き続けていた。


義雄の腕を離れ、誠の腕へ渡った。


その間にも、水野とは何度も会っている。


義雄が生きて帰そうとした若い搭乗員が、本当に生きて帰ったことも知っていた。


それでも、伝える方法がなかった。


『水野』


疾風は時計を見る。


『よく帰った』


今度は、すぐに伝えた。


「……水野のおじさん」


「何だ」


「よく帰った、って」


水野は顔を上げた。


「こいつが?」


「うん」


水野はしばらく時計を見ていた。


「……そうか」


それだけだった。


それで十分だった。


しばらく、誰も話さなかった。


やがて疾風は、もう一度自分の名前を思った。


「なあ」


『何だ』


「俺の名前って」


水野と刈屋が顔を上げた。


「この飛行機から来てるの?」


『誠が決めた名だ』


「それは聞いた」


『なら、それが答えだ』


「逃げんなよ」


『逃げてはいない』


「お前も、疾風がいいと思ったんだろ」


時計は少し黙った。


『思った』


「親父に、それが伝わった?」


『分からない』


「またそれかよ」


『誠が自分で決めたのかもしれない。私の中にあったものが、わずかに滲んだのかもしれない』


「じゃあさ」


疾風は聞いた。


「何で疾風だったの?」


『何がだ』


「速い飛行機だったから?」


『違う』


返事は早かった。


疾風は待った。


『帰ってきたからだ』


部屋が静かになった。


疾風は左腕の時計を見た。


自分の名前を、二十二年間使ってきた。


速そうな名前だとは思っていた。


それ以上のことを考えたことはなかった。


だが、その名前は。


速く飛んだ機械の名前ではなかった。


傷ついて。


壊れながら。


それでも人を連れて帰ってきた機械の名前だった。


「……そっか」


時計は何も言わなかった。


水野も、刈屋も何も言わなかった。


疾風はしばらくして顔を上げた。


「で、水野のおじさん」


「何だ」


「結局、親戚じゃないんだよね?」


「まだそこに戻るのか」


「だって気になるだろ」


「違う」


「じゃあ何なの?」


水野は少し考えた。


「さあな」


刈屋が言った。


「水野だ」


「だから説明になってねえって」


左腕で、時計が笑ったような気がした。


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