聞こうとした人
疾風は、左手首の時計を見ていた。
黒い文字盤。
二つのプッシャー。
傷の入ったケース。
見慣れた時計だった。
少し前までは、それだけだった。
親父がずっと着けていた古い時計。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ところが今は違う。
チュチマ・グラスヒュッテ。
フリーガークロノグラフ。
一九四一年。
中野の時計屋で見た同じような時計には、四十万円台の値札がついていた。
(お前、やっぱ高えな)
『またその話か』
(だって五十万近いぞ)
『私が決めた値段ではない』
(知ってるよ)
疾風はベルトの端を指でいじった。
親父がずっと着けていた。
そこまでは知っている。
その前は知らない。
以前聞いたとき、チュチマは答えなかった。
(なあ)
『何だ』
(もういいだろ)
『何がだ』
(親父の前)
チュチマが黙った。
(誰が持ってたの)
少し間があった。
『刈屋に聞け』
(……何で?)
『聞けば分かる』
(お前が答えれば早いじゃん)
『刈屋に聞け』
(めんどくせえ時計だな)
『知っている』
*
翌日。
疾風は、刈屋の家を訪ねた。
呼び鈴を押すと、しばらくして中から足音がした。
「爺ちゃん」
「何だ。急に」
「ちょっと聞きたいんだけど」
「珍しいな」
「何が」
「お前が先に聞いてから物を触るのが」
「いつの話だよ」
「七歳」
「覚えてんの?」
「キャブレターを全部ばらされた」
「あれ戻したじゃん」
「私がな」
「細けえなあ」
家へ上がると、刈屋は読みかけの新聞を畳んだ。
「それで」
疾風は左腕を持ち上げた。
「これ」
刈屋の視線が時計へ落ちる。
「これがどうした」
「親父の前、誰が持ってたか知ってる?」
刈屋は時計を見る。
「どうして私に聞く」
「こいつが、爺ちゃんに聞けって」
刈屋の視線が、時計から疾風へ戻った。
「……こいつが?」
「うん」
疾風は左腕を少し持ち上げた。
「喋るんだよ、これ」
刈屋は黙った。
「……何?」
「喋る」
「時計が?」
「うん」
刈屋は疾風の顔を見る。
冗談かどうか確かめているらしい。
「いつからだ」
「俺が着けてから」
「誠からもらったときか」
「そう」
「誠は知っているのか」
「知ってる。母ちゃんも」
「私には言わなかったぞ」
「外で言うなって親父が」
「私は外なのか」
「そこは親父に言って」
刈屋はしばらく疾風を見ていた。
それから、時計へ視線を戻した。
「それで、その時計が私に聞けと言ったのか」
「そう」
「何を」
「親父の前に誰が持ってたか」
刈屋は少し考えた。
「義雄さんだ」
「……親父の親父の?」
「そうだ」
疾風は自分の左腕を見る。
「これ、爺ちゃんの時計だったの?」
「私も爺ちゃんだ」
「そっちじゃなくて」
「分かってる」
「紛らわしいな」
「お前が爺ちゃんで済ませるからだ」
刈屋は少しだけ笑った。
「片桐義雄。お前の父方の祖父だ」
疾風は時計を見る。
(お前、親父どころか、その前からうちにいたの?)
『そうだ』
(何で黙ってたんだよ)
『聞かれたからといって、何でも話す義務はない』
(あるだろ。俺が着けてんだぞ)
『今、知った』
(そういう問題かよ)
そのときだった。
『刈屋』
刈屋の顔が止まった。
疾風も止まった。
「……今のは」
刈屋が時計を見る。
『私だ』
数秒。
「……お前か」
疾風は刈屋を見た。
「え?」
刈屋はまだ時計を見ている。
「爺ちゃん、聞こえてんの?」
「聞こえている」
「普通に?」
「今のところは」
「今のところって何だよ」
「聞こえている以上のことは、まだ分からん」
疾風は椅子を少し引き寄せた。
「ちょっと待って。親父は聞こえなかったぞ」
「誠が?」
「うん。母ちゃんも言葉までは聞こえない」
刈屋はもう一度時計を見る。
「お前には?」
「普通に聞こえる」
「時計だけか」
「最初は」
「今は?」
「クルマもバイクも喋る」
刈屋の目が少し細くなった。
「順番に話せ」
「何の取り調べだよ」
「分からんことが増えた。整理する」
その声は、疾風が子供のころから聞いてきたものだった。
キャブレターをばらしたとき。
工具の使い方を間違えたとき。
分からないまま部品を外そうとしたとき。
怒る前に、まず状況を並べる。
刈屋は昔からそうだった。
*
「まず誠」
「うん」
「本当に何も聞こえないのか」
『言葉として届いたことはない』
刈屋の視線が時計へ落ちる。
まだ少し妙な顔をしている。
「言葉として、ということは?」
『若いころ、私が考えた方向へ誠が動いたことは何度かある』
「具体的には」
『そこを見ろ、と思ったときに、同じ場所を調べた』
「声が届いた?」
『分からない』
「誠自身の判断の結果だった可能性もあるということか?」
『そうだ』
「その後は?」
『私が伝えようとしたころには、もう工具を持っていた』
疾風が笑った。
「親父、時計に勝ってんじゃん」
『勝ち負けではない』
「負けた方ってだいたいそう言わない?」
『黙れ』
刈屋の口元が少し動いた。
「和子は」
「母ちゃんは、言葉じゃないみたい。嫌とか、気持ちいいとか。こいつが何か言ったとき、意味だけ拾うこともある」
「……そうか」
「何?」
「和子は昔から、機械の調子を妙なところで当てることがあった」
「母ちゃんが?」
「理由を聞いても説明できない。ただ、今日は何か嫌だとか、これは大丈夫だとか言う」
「当たるの?」
「だから今、思い出した」
刈屋は腕を組んだ。
「義雄さんは?」
チュチマが少し黙った。
『私の言葉は届かなかった』
「そうか」
『だが、義雄も刈屋も、機械の声を聞こうとはしていた』
刈屋の視線が時計へ戻った。
『覚えているだろう』
「ああ」
『義雄が言った』
チュチマが続けた。
『機体が話せれば、もっと楽なんだがな』
刈屋は黙っていた。
『お前は答えた』
「話したとしても、搭乗員が聞かなければ同じです」
『義雄は、俺は聞くぞ、と言った』
「存じています、と答えた」
疾風は二人を交互に見る。
一人は八十近い老人。
もう一人は五十年近く動き続けている腕時計。
なのに会話している内容だけは、疾風が生まれるはるか前だった。
『お前たちは、私より先に機械の声を聞こうとしていた』
刈屋は、しばらく疾風を見ながら言った。
「義雄さんは、聞こえずとも常に聞こうとしていた」
「うん」
「誠には言葉は聞こえない。ただ、若いころには何かが届いた可能性がある」
「うん」
「和子は、言葉になりきらないものを拾う」
「たぶん」
「私は今、この時計の声を聞いている」
刈屋はそこで一度止まった。
「そして、お前は言葉として聞く。時計だけではなく、ほかの機械まで」
「そう」
刈屋は小さく息を吐いた。
「義雄さんの孫で、誠と和子の息子か……私の孫でもある」
「……何?」
「出来すぎていると思っただけだ」
「じゃあ、遺伝?」
「そこまで言ってない」
「でも今、家族並べたじゃん」
「並べた。それだけだ」
「同じじゃないの?」
「違う」
即答だった。
「片桐の側にも、似たものがある。こちらの側にもある」
刈屋は自分を指した。
「和子にもある」
次に疾風を見る。
「両方を引いたお前に、今こういうことが起きている」
「じゃあやっぱり」
「だから、そこから先を勝手に決めるな」
「はい」
反射的に返事をした。
「血なのかもしれない。育った環境かもしれない。誠のところで機械ばかり触ってきたこともある。司郎から乗り方を叩き込まれたこともある」
刈屋は時計を見る。
「こいつ自身が変わった可能性もある」
『それはある』
刈屋が時計を見る。
「何か心当たりがあるのか」
『私は、義雄の最後まで機体の声を聞いていた』
刈屋の顔から、わずかに表情が消えた。
『だが、その声を義雄へは一言も届けられなかった』
疾風は黙った。
『そのことは、今も強く私の中に慙愧の念として残っている』
「それで変わったと?」
『分からない』
「そうか」
刈屋は、それ以上聞かなかった。
「原因は分からん」
「うん」
「だが、現象は目の前にある」
「うん」
「片桐の側にもある。こちらの側にもある。そして両方を引いたお前が、実際にここにいる」
少し間を置く。
「そこまでを偶然として捨てる理由もない」
疾風は左手首を見た。
(だってさ)
『私に言うな』
*
「それで」
刈屋が言った。
「ほかの機械とも話せると言ったな」
「うん」
「どの程度だ」
「どの程度って?」
「故障箇所まで言うのか」
「そこまでは無理。本人が分かってることだけ」
「具体的には」
「右が変とか。重いとか。熱いとか」
「位置は」
「分かることもある」
「いつから変わったかは」
「覚えてれば」
「操作との関係は」
「聞けば答えることもある」
「距離は」
「近い方がいい」
「接触は必要か」
「絶対じゃない」
「動いていなくても聞こえるのか」
「分かんない。エンジン止めたくらいなら喋るけど、ずっと動いてないやつは知らない」
「人間が異常を感じる前に、機械自身が訴えることは」
「ある」
「乗っているお前自身が気づいていなくても?」
「クルマやバイクでなら、ある」
刈屋が黙った。
疾風は、そこで初めて気づいた。
刈屋は、機械に詳しいから陸軍にいた男ではない。
技術畑ではあった。
だが、その前に軍人だった。
必要な情報を集める。
使えるものと使えないものを分ける。
可能性を判断する。
必要なら、人も機械も動かす。
そういう側にいた陸軍将校だった。
疾風は、初めて軍人としての刈屋と向かい合っていた。
「それを、当時できたのか」
低い声だった。
「当時って?」
「戦争中だ」
「俺、生まれてないけど」
「お前の話ではない」
刈屋の視線が時計へ刺さった。
「こいつだ」
疾風は黙った。
「機体自身が、どこがおかしいか訴える」
刈屋は一つずつ確認するように言った。
「いつから変わった」
「どの操作で変わった」
「どこが熱い」
「どこが重い」
疾風は返事をしなかった。
「搭乗員が気づく前でも、それを拾える」
刈屋の声は低いままだった。
「そして整備側へ伝えられる」
そこで初めて、声に硬いものが混じった。
「当時それが分かっていたなら、私は義雄さんからこの時計を取り上げている」
疾風が顔を上げた。
「……爺ちゃん?」
「本人が嫌がってもだ」
疾風は、思わず姿勢を正した。
「必要なら、さらに上へ掛け合ってでもだ」
刈屋は時計から目を離さない。
「使えると分かれば、使う」
短く言った。
「それが戦争だ」
疾風は何も言えなかった。
「搭乗員が異常を感じてからでは遅いことがある」
「……うん」
「地上で再現しない不具合もある」
「うん」
「飛んでいる機体が、その場で訴えられるなら話が違う」
刈屋の声がさらに鋭くなった。
「どれだけ早く手を入れられた」
疾風は黙った。
「どれだけの機体を失わずに済んだ」
一拍。
「どれだけの搭乗員を帰せた」
疾風は、そこでようやく分かった。
爺ちゃんが怒っている。
誰かにではない。
目の前に、五十年遅れて現れた可能性に。
もし、あのころこれがあったなら。
その問いを、刈屋は頭の中で猛烈な速さで計算している。
チュチマが答えた。
『無理だった』
刈屋の目が細くなる。
「なぜだ」
『あのころの私には、まだ聞こえていなかった』
「何が」
『機械の声だ』
刈屋が止まった。
「……お前にも?」
『そうだ』
しばらく誰も話さなかった。
『お前と義雄が、機械の声を聞こうとしていたころ、私にもまだ聞こえていなかった』
「では、いつからだ」
チュチマは少し間を置いた。
『四式戦闘機、疾風』
疾風が顔を上げる。
『あれが、本来与えられるはずだった燃料で飛んだ日だ』
刈屋の表情が変わった。
「……あの日か」
『そうだ』
「そこで初めて?」
『初めて、言葉として聞こえた』
刈屋は腕を組んだまま動かなかった。
『そのあと、ほかの機械の声も聞こえるようになった』
「なら、その時点では」
『聞くことはできた』
「伝えることは?」
『できなかった』
即答だった。
『義雄にも』
少し置く。
『お前にも』
刈屋が時計を見る。
『お前が機械の訴えを聞こうとしていたことは知っていた』
「なら、なぜ」
『その意味を、今ほど分かっていなかった』
刈屋は何も言わない。
『私自身が、何になっているのかも分からなかった』
時計の秒針だけが動いている。
『今のように、聞いた声を人間へ渡すことはできなかった』
長い沈黙のあと。
刈屋が息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
さっきまで部屋を満たしていた圧が、少しずつ消えていく。
「なら、当時の我々にはどうにもならない」
『そうだ』
「分かった」
疾風も、ようやく息を吐いた。
「爺ちゃん、怖えよ」
「何がだ」
「今の」
「普通に話しただけだ」
「どこがだよ」
*
疾風は、ふと気づいた。
「ちょっと待って」
「何だ」
「今、何て言った?」
「いろいろ言った」
「そうじゃなくて」
疾風は時計を見る。
「四式戦闘機?」
『そうだ』
「そのあと」
『疾風』
「それ」
疾風は自分を指した。
「俺じゃなくて?」
「飛行機だ」
刈屋が答えた。
「四式戦闘機。陸軍の戦闘機だ」
「……疾風って名前なの?」
「そうだ」
疾風はしばらく黙った。
それから左手首を見る。
(お前)
『何だ』
(俺の名前、親父にちょっと混ざったかもしれないって言ったよな)
『言った』
(その疾風と関係あんの?)
チュチマは答えなかった。
「爺ちゃん」
「何だ」
「その飛行機、親父の親父と関係ある?」
刈屋はすぐには答えなかった。
少し考える。
「その話なら」
疾風を見る。
「水野もいた方がいい」
「何で水野のおじさんが出てくんの?」
「聞けば分かる」
「それ今日二回目なんだけど」
「なら慣れろ」




