帰ってきた
その日の夜。
疾風は、居間でテレビを見ている誠の前に座った。
「親父」
「ん?」
「飛行機の疾風って知ってる?」
誠がテレビから目を離した。
「知ってるよ」
「四式戦闘機」
「それも知ってる」
「見たことある?」
「ある」
「マジで?」
「飛んでるところも見た」
疾風は少し身を乗り出した。
「いつ?」
「お前が小さいころ」
「へえ」
「お前も見てるぞ」
「……は?」
誠はテレビへ目を戻した。
「連れてったからな」
「俺を?」
「そう」
「飛んでる疾風を?」
「そう」
疾風は左腕を見た。時計は何も言わない。
「……覚えてねえ」
「五歳くらいだからな」
「何で今まで言わねえんだよ」
「聞かなかっただろ」
「今日、それと同じようなこと聞いたぞ」
「誰に」
「水野のおじさん」
「なら、そういうもんなんだろ」
「どういうもんだよ」
誠は答えなかった。
*
一九七三年。
疾風は、まだ五歳だった。
人が多かったことも。空を見上げたことも。大きな音がしたことも。本人の記憶には、もう残っていない。
ただ、誠の左腕にいた時計は覚えている。
遠くから、発動機の音が聞こえてきた。
時計は、その種類を知っていた。かつて聞いたものと同じだった。
四式戦闘機。疾風。
もちろん、あの機体ではない。義雄を連れて帰った機体ではなかった。
別の場所で生まれ、別の人間を乗せ、別の戦場を飛んだ一機だった。戦争が終わったあと、海を渡った。そして長い時間を経て、日本へ戻ってきた。
「来たぞ」
誠が空を見上げた。
「どれ?」
「あれ」
幼い疾風も空を見た。
「ちっちゃい」
「遠いからだ」
発動機の音が大きくなっていく。機影も、少しずつ大きくなる。
時計にはまだ声までは聞こえない。ただ、音だけが近づいてきた。
やがて機体が低く通過する。その一瞬。
【帰ってきたぞー!】
声も一緒に頭上を通り過ぎた。
『…………』
時計は、しばらく何も言えなかった。声はすぐに遠ざかった。あとには発動機の音だけが残った。
*
「見えるか」
「みえる!」
誠は幼い疾風を抱き上げた。
「あれが疾風だ」
幼い疾風が誠を見た。
「ぼく?」
「お前じゃねえよ」
「はやてでしょ?」
「そうだけど」
「ぼくもはやて」
「お前もな」
話が通じているような、いないような会話だった。
時計は誠の左腕から空を見ていた。機体は再び近づき、そして離れていった。
近づいたときだけ、何かが聞こえる。しかし短すぎた。言葉として拾う前に、声はまた遠ざかっていった。
時計は追わなかった。追えるものでもなかった。
*
飛行を終えた機体が地上へ降りた。
しばらくして、発動機の音が再び近づいてきた。今度は遅い。タキシングしてくる。
距離が縮まるにつれ、声も少しずつ形を持った。
【……いやあ、久しぶりだ】
時計が答えた。
『日本がか』
【日本の空気が】
『帰りたかったのか』
【別に】
『……そうなのか』
【帰れるなら帰るさ】
機体はゆっくりと近くを通っていく。
【でも、向こうも悪くなかったぞ】
『向こう?』
【アメリカだよ】
そこで距離が開いた。声が薄くなる。
【また……あと……】
聞き取れなくなった。
時計は黙った。ずいぶん陽気なやつだった。
*
しばらくして、誠は幼い疾風を連れて駐機された機体を見に行った。
人垣の向こうに四式戦闘機がいる。さっきまで空を飛んでいた機体だった。
近づく。今度は声がはっきり聞こえた。
【さっきの時計か】
『そうだ』
【変わったやつだな】
『お前に言われたくはない』
【俺の何が変なんだ】
『帰ってきたぞ、と叫びながら飛んでくる機械を初めて見た』
【帰ってきたんだから仕方ないだろ】
『そうか』
【そうだ】
時計は、改めて機体の声を聞いた。やはり違った。
『お前は、ずいぶん違うな』
【何が】
『私が昔知っていた疾風とは、声が違う』
【昔?】
『戦争中だ』
機体は少し黙った。
『あのころの疾風は、常に何かを見ていた』
『追うものがあった』
『逃げるものがあった』
『守るものがあった』
『帰らなければならない場所があった』
目の前の機体には、それがない。
声に張りはある。機嫌もいい。だが、かつて聞いた声とは根本から何かが違っていた。
『お前には、それがない』
【そりゃそうだ】
『なぜだ』
【戦争、終わったんだろ?】
『ああ』
【じゃあ、俺はもう戦う機械じゃない】
時計は黙った。
四式戦闘機。疾風。戦うために作られた機械だった。
速く飛ぶことも。高く上がることも。急激に向きを変えることも。武器を積むことも。すべては戦うために与えられたものだった。
だが、目の前の一機はそうではないと言う。
『では、今は何だ』
【飛行機だ】
『……そうか』
【飛行機なんだから、飛べればいい】
簡単な答えだった。時計には、それが少し眩しかった。
*
『アメリカではどうしていた』
【いろいろだ】
『飛んだのか』
【飛んだぞ】
機体の声が少し得意そうになった。
【調べられたりもした。飛ばされたりもした】
『嫌ではなかったのか』
【別に】
【いい部品を使ってくれた】
【油もいい】
【整備もしてくれた】
少し間があった。
【それに、飯がうまかった】
『飯?』
【極上のハイオクだ】
『…………』
【いつも腹いっぱい食わせてもらった】
『ずいぶん恵まれていたな』
【だろ?】
機体は明らかに自慢していた。
【それで飛んだら、速い速いって褒めるんだ】
『そうか』
【俺、けっこう速かったからな】
時計には、その言葉を疑う理由がなかった。
かつて、別の疾風が本来与えられるはずだった燃料を与えられた日を覚えている。
あの日。初めて、機械の声が聞こえた。
あの疾風自身が驚いていた。自分は、本来こうして飛ぶものだったのかと。
『私は知っている』
【何を】
『お前たちは、本来そのように飛ぶよう作られていた』
【当たり前だ】
即答だった。
【そういうふうに作られた】
時計は、昔の言葉を思い出した。
疾風は、飛ぶように作られています。
刈屋がそう言った。飛べないことのほうがおかしいのだと。
それから長い年月が過ぎていた。
目の前にいる疾風は、腹いっぱい良い燃料を飲み、十分に手を掛けられ、自分がどれだけ飛べるのかを知っていた。
【向こうじゃ、けっこうチヤホヤされたぞ】
『自慢か』
【事実だ】
『そうか』
『おまえの兄には世話になった。四七戦隊だ』
【そうか。俺は一一戦隊だった】
機体は、それ以上聞かなかった。時計も話さなかった。
*
やがて、人が機体から離された。もう一度、発動機が始動した。
幼い疾風が耳を押さえた。
「うるさい!」
「飛行機だからな」
「うるさい!」
「分かったよ」
誠は笑っていた。
時計には、機体の声が聞こえる。
【いい音だろ】
『本人が言うな』
【いい音だろ】
『聞こえている』
【もう一回言おうか】
『いらん』
発動機が暖まっていく。回転が整う。機体は、どこか嬉しそうだった。
【なあ】
『何だ』
【俺、まだ飛べるぞ】
時計は答えた。
『ああ』
【それでいいんだろ】
『いい』
【戦わなくても】
『ああ』
【ただ飛べばいいんだろ】
時計は少し間を置いた。
『そうだ』
発動機の音が高まった。
【いい時代になったな】
時計は答えなかった。答える必要はなかった。
*
機体は再び動き出した。タキシングして離れていく。
【じゃあな、時計】
『ああ』
【見てろよ】
『何を』
【飛ぶところだよ】
声が遠くなる。やがて聞こえなくなった。そのあとは、発動機の音だけだった。
四式戦闘機は滑走し、空へ上がった。
時計には、もう声は聞こえない。ただ見ていた。
かつて戦うために作られた機械が、何も追わず、何にも追われず、空を飛んでいる。それだけでよかった。
*
飛行が終わった。機体が着陸した。
滑走路を走り、速度を落とす。やがて、こちらへ戻ってくる。
発動機の音が近づく。まだ声は聞こえない。さらに近づく。音が大きくなる。
そして、声が戻ってきた。
【どうだった】
『よく飛んでいた』
【だろ?】
『ああ』
機体が近くを通る。
【今日は、ちゃんと帰った】
時計は答えた。
『ああ』
機体はそのまま通り過ぎた。声が遠ざかっていく。
それ以上の言葉はなかった。
ただ飛んで。降りて。帰ってきた。
それだけだった。それだけのことができる時代になっていた。
*
一九九〇年。
「……全然覚えてねえ」
疾風は左腕を見ながら言った。
『だろうな』
「お前は覚えてるんだ」
『覚えている』
「その飛行機とも喋った?」
『少しな』
「どんなやつだった?」
時計は少し考えた。
『機嫌のいいやつだった』
「それだけ?」
『アメリカでの暮らしも、それなりに楽しんでいた』
「へえ」
『良い部品を使ってもらった。油も良かったそうだ』
「待遇いいな」
『飯もうまかったと言っていた』
「飛行機の?」
『極上のハイオクだそうだ』
「……そりゃごちそうだ」
『腹いっぱい食わせてもらって、飛んだら褒められたと自慢していた』
「ずいぶん陽気だな」
『そうだな』
「日本に帰ってきて嬉しかったんじゃないの?」
『帰れるなら帰る、と言っていた』
「何だそれ」
『向こうも嫌いではなかったそうだ』
疾風は笑った。
「帰国子女かよ」
『子女ではない』
「分かってるよ」
少しして、時計が言った。
『だが、一番違ったのはそこではない』
「何が?」
『戦う機械ではなくなっていた』
疾風は黙って聞いた。
『私が戦争中に聞いた疾風の声とは違った』
『何かを追っていない』
『何かから逃げてもいない』
『誰かを撃つ必要もない』
『ただ、飛ぶことを喜んでいた』
「飛行機だから?」
『本人もそう言った』
「何て?」
『もう戦う機械ではない。飛行機だ、と』
疾風はしばらく黙った。
「そっか」
『ああ』
「それで?」
『何がだ』
「その日、最後に何か言ってた?」
時計は思い出した。
戦争が終わって二十八年。撃つ必要もなく。撃たれることもなく。ただ空を飛び、地上へ戻ってきた四式戦闘機。
『今日は、ちゃんと帰った、と』
疾風は黙った。昨日聞いた話を思い出したのだろう。
「……誰が?」
時計は答えた。
『全員だ』
飛行機も。誠も。五歳の疾風も。あの日、空を見上げていた者たちも。
飛んだものも、飛ばなかったものも。それぞれの場所へ帰っていった。
「そっか」
『ああ』
それだけだった。
疾風は立ち上がった。
「腹減った」
誠がテレビの前から言った。
「冷蔵庫に何かあるだろ」
「何かって何だよ」
「見ろよ」
「極上のハイオクは?」
「ガソリン飲みたいなら勝手にしろ」
「死ぬわ」
疾風は台所へ向かった。
左腕で、時計はいつも通り時を刻んでいた。




