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怪しい男の魔道通信機

「ふぁ……。眠い……」

 

 まだ朝の光が薄い午前7時45分。私は築140年のアパートを出て、重い足取りで出勤の途についていた。

 異世界に転移して3年、どんなに魔法が身近になろうとも、サラリーマンの「朝の出社の気だるさ」だけは、地球にいた頃と1ミリも変わらない。

 

 旧市街の薄暗い路地を抜けると、大通りはすでに朝の活気に満ちていた。

 すれ違うのは、これからダンジョンへ向かうのであろう、鉄の臭いをさせた冒険者のパーティー。上空を見上げれば、ワイバーンに乗った魔導郵便の配達員が、大きな鞄を抱えてビル——といっても石造りの5階建てだが——の合間をすり抜けていく。

 

 現代日本ならここでコンビニに寄って、淹れたてのホットコーヒーと100円のパンでも買うのになぁ。

 そんな無い物ねだりを心の中で呟きながら、私は通り沿いの露店に目をやった。

 せめてもの気付けにと、露店おばちゃんから紙に包まれたマンドラゴラモドキのハーブ焼きを買う。齧り付くと、独特の苦味と柑橘系の鋭い酸味が脳を直撃し、強制的に意識が覚醒した。

 よし、今日も生き延びよう。

 

 午前8時15分、エレマギ社の事務所兼店舗に到着。

 私は裏口から入り、更衣室でピシッとした制服に着替える。鏡の前で、まだ少し残っていた眠気を両手でパンッ!と叩いて追い出し、完璧な、お客様相談室チーフ・ユキミ・サトウの営業スマイルを顔面にセットした。

「おはようございます、チーフ!」

「おはよう、シェリー。今日もよろしくね」

 すでに出社してカウンターの掃除をしていた部下のシェリーが、元気に挨拶を返してくる。

 

 朝一のミーティング、溜まった書類の処理、午前中に舞い込んだ『自動掃除洗濯機が凍りついた』という微笑ましいクレーマーへの対処……。激務をこなしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。

 

 そして、定時の30分前。

 「——よし。これで今日の分の報告書は終わり、と」

 半紗紙にさらさらとインクを走らせ、私は小さく伸びをした。

 魔導時計の針は、16時30分を指している。17時まで、あとちょうど30分。デスクの上の書類は綺麗に片付き、引き出しの整理も万端だ。

 今日は大きなトラブルもなかったし、比較的のんびりとした一日だった。

 こんな日は定時ダッシュを決めて、昨日買っておいたあの発光キノコとロック鳥肉で、絶対に美味しいアヒージョを作ると決めている。

 脳内で今夜の晩酌のメニューを組み立てながら、私は喉を潤すためにスタッフルームへ向かおうとした。

 

 ——その、瞬間だった。

 肌を刺すような、ゾクッとする冷気がお客様相談室の空間を満たした。

 エアコンの温度設定が急に下がったとか、そんな生易しいレベルではない。部屋中の空気が一瞬で凍りつき、魔導灯の光が怯えるようにチカチカと明滅を始める。

 ガタガタと、カウンターの奥でシェリーの震える音が聞こえた。

 私が怪訝に思いながら受付へと視線を戻したとき、相談室の重い木製のドアが、音もなく静かに開いた。

 入ってきたのは、漆黒の夜をそのまま纏ったかのような、深い黒のローブに身を包んだ男だった。

 フードの奥からのぞく顔は、彫刻のように整っているが、血の気が引いたように白い。そして何より、その双眸——深い血のような真紅の瞳が、尋常ではない圧を放っている。あきらかに堅気ではない。元魔王軍の幹部か、さもなくば裏社会を牛耳る高位の暗黒魔導士だ。

 

「ひっ……」

 

 シェリーが短い悲鳴を上げて硬直する。男の冷酷な視線が彼女を射抜いた。

 男は音もなくカウンターへと近づくと、その長い指先で、持っていた四角い機械を叩きつけるように置いた。

 それは、我がエレマギ社が総力を挙げて開発した最新型『魔導通信機』だった。現代日本でいうスマートフォンに近い、離れた相手と音声で会話ができる画期的な新製品だ。

 シェリーは完全に恐怖で蛇に睨まれた蛙状態になり、涙目でぶるぶると震えている。これ以上彼女を立たせておくのは酷だし、何より接客業としてこれ以上のタイムロスは業務的にも、定時退社的にも命取りだ。

 私はドアハンドルからそっと手を下ろし、軽く俯いた。静かに深呼吸をして営業スマイルを顔面に貼り付ける。

 そして、顔を上げると流れるような足取りでシェリーの前へと滑り込み、男との間に割って入る。

 

「いかがなさいましたか、お客様。本日対応させていただきます、お客様相談室チーフのユキミ・サトウと申します」

 

 私の登場に、男はわずかに眉をひそめた。その真紅の瞳が、値踏みするように私を凝視する。しかし、伊達にクレーマー相手に頭を下げてきたわけではない。この程度の視線では、私の鉄壁の微笑みは崩せない。

 

「……お前が責任者か」

 

 男の口から漏れ出たのは、地平線の底から響くような、低く冷徹な声だった。室内の温度がさらに一段階下がる。

 

「この通信機から、夜な夜な死者の呪いの声が聞こえる」

「……は?」

 

 一瞬、営業スマイルの裏側で、素の私の声が出そうになった。呪い?

 

「昨日など、丑三つ時に私の名を呼ぶ声がした。……我が一族を呪う呪詛の魔導具を売るとは、エレマギ社もいい度胸だな。今すぐ、このふざけた機械の開発者をここに呼べ。さもなくば——」

 

 男がそっと右手を持ち上げる。

 その白く細い指先から、パチパチ、と不気味な音を立てて、漆黒の電撃が漏れ出し始めた。浴びれば一瞬で跡形もなくなるであろう、雷の攻撃魔法だ。

 

「この街ごと、灰にしてくれる」

 

 うわあ! 定時直前にガチのヤバい奴きた!!!

 私の脳内アラートが最大音量で鳴り響く。

 男の指先で暴れる黒い火花を見て、私の背中に一気に冷たい汗が吹き出した。

 この世界の魔法は、何よりも明確なイメージを必要とする具現化系だ。だから、普段から目にする火や水、風の魔法は比較的誰でも扱える。

 だが、雷は違う。年に数回の嵐の日にしか現れない、一瞬の閃光と轟音。その本質を脳内に完璧に再現し、魔法として固定化できる人間なんて、この世界には一握りしかいない。

 

 要するに常軌を逸した思い込みの強さと、異常なまでの執念を併せ持つ、ガチのマジで脳のネジが外れたヤバいやつ、もとい天才の証なのだ。

 よりによってそんなサイコパス一歩手前の超大物がクレーマーとか、何の冗談よ!?

 しかも、言っている内容もおかしい。死者の呪いの声? 持ち主の名前を呼ぶ? ヤバいでしょ!

 

 仕様書にもマニュアルにも、そんなホラーな機能は一文字も書いていない。新製品特有の、魔力回路の混線によるバグか何かだろうか。

 男の指先で暴れる黒い雷撃が、カウンターの木目をじりじりと焦がし始める。

 

 ここで開発者はもう帰りました、なんて言おうものなら、次の瞬間にはこの店舗はおろか、私が今夜楽しみにしていたアヒージョの材料ごと、この街が地図から消える。

 しかし、ピンチはチャンス。ここで引き下がってはお客様相談室チーフの名が廃る。

 

「——かしこまりました、お客様」

 

 私はパチパチと火花を散らす漆黒の電撃を、まるでただの不良品を見るかのような涼しい目で見つめ、一切の恐怖を感じていないような微笑みを崩さずに一礼した。

 

「ただちに、その『呪い』の事実関係を調査、および確認いたします。大切なお客様の安眠を妨げましたこと、我が社の製品を代表いたしまして、深くお詫び申し上げます」

 

 私のあまりにも動じない態度に、男はわずかに電撃の手を止め、怪訝そうに目を細めた。

 絶対に原因を突き止めて、バグを修正して、17時半には退勤してやるわ……!

 こうして、定時直前の「命がけのクレーム対応」の火蓋が、切って落とされたのだった。


 

「少々お待ちくださいませ」

 

 特別応接室の重厚なソファーに腰掛ける黒マントの男へ、私は完璧な所作でお茶を差し出した。

 男は相変わらず不気味なほどの無言を貫き、真紅の瞳で私を睨みつけている。その指先からは、まだ時折パチ……と黒い火花が爆ぜていた。応接室の空気は冷え切っているが、ここなら万が一暴発しても他のお客様に被害は出ない。

 

「では、一度確認してまいります」

 

 一礼して応接室のドアを閉めた瞬間、私は音を立てずに全力疾走でバックヤードへと向かった。

 目指すは、奥にあるお客様相談部・部長室だ。

 

「部長! 大変です、緊急案件です!」

 

 ノックもそこそこにドアを開けると、そこにいたのは、丸々と太ったドワーフのバルド部長だった。彼はすでに机の上を綺麗に片付け、定時退社に向けてマイ定規で自慢の髭を整えている最中だった。

 

「んあ? なんだねユキミくん。騒々しい。時計を見たまえ、もう16時45分だよ? 私の髭のお手入れタイムを邪魔しないでくれんかね」

 「髭を梳いている場合じゃありません! 最新型の魔導通信機から『死者の呪いの声がする』と、ヤバいクレーマーが応接室に怒鳴り込んできているんです!」

「なんだって?」

 

 バルド部長は面倒くさそうに顔をしかめ、フンと鼻を鳴らした。

 

「そんなの、適当に『お預かりして調査します』とでも言って、代替品を渡して追い返せばいいじゃないか。定時を過ぎたら、私の愛する大麦酒がぬるくなってしまう。現場の裁量でうまくやりたまえ」

 

 この事なかれ主義のタヌキオヤジ……!

 私はすっと目を細め、声音を一段階落として告げた。

 

「……相手の指先から、雷魔法が出ています。間違いなく、高位レベルの暗黒魔導士です。適当にあしらえば、次の瞬間にはこの店舗はおろか、部長が今夜行く予定の酒場ごと、この街が消し炭になりますよ。本人もそう言っています」

「か、雷魔法!?」

 

 バルド部長の顔から、一気に血の気が引いた。自慢の髭を整えていた手がガタガタと震え、定規を床に落とす。

 

「お、おいおいおい、なんでそんな文字通りのモンスターがうちの相談室に来るんだかね!? ひ、引き受けたのかね、ユキミくん!」

「私がここで突っぱねていたら、今頃私たちが消し炭でしたよ! とにかく原因を究明しないと話になりません。技術部に連絡を回します!」

 

 私は腰を抜かしかけている部長を放置し、すぐさま壁に設置された社内専用の魔導通信機に飛びついた。

 通話の魔導石に魔力を込め、開発部門の直通ラインを呼び出す。

 

『——はい、こちら技術開発部。定時前の新規の問い合わせは明日一にしてください。今、データ集計で忙しいので』

 

 スピーカーから聞こえてきたのは、冷徹で、どこか他人を見下したような細い声だった。

 技術部チーフ、エルフの魔導技師アルヴェイン。我が社の最先端技術を一身に担う天才だが、致命的に現場へのリスペクトが欠けている男だ。

 

「アルヴェインさん、お客様相談室のユキミです。緊急事態です。現在、最新型の魔導通信機の購入者から、『夜な夜な死者の呪いの声が聞こえる、昨日など自分の名前を呼ばれた』という深刻なクレームが入っています。魔力回路の混線か、オカルト的なバグの可能性はありませんか?」

 

 私の緊迫した問いかけに対し、通信機の向こうでアルヴェインは、はあ? と、心底くだらなそうにため息をついた。

 

『呪いの声? ふざけないでほしいな。我が開発チームの英知の結晶たる魔導通信機に、そんな間抜けな怪奇現象が存在するわけないだろう』

「ですが、現に……」

『それはそのユーザーの脳の病気か、あるいはそいつの家自体が本当に呪われているだけじゃないのか? 大方、幽霊が耳にでも詰まっているんだろ。オカルトの苦情なら、聖堂の神官のところにでも案内してくれ』

「アルヴェインさん! 相手は指先から黒い電撃を出す高位魔導士なんです! 一歩間違えれば、我が社ごと街が滅びます!」

 

 声を大にして訴えたが、アルヴェインの声はどこまでも冷淡だった。

 

『へえ、それは怖いね。でも、開発の仕様書通りに作られた機械に不具合はない。仮に何かあったとしても、それはユーザーの使い方の問題だ。現場の無知な文句を、いちいちこっちに上げないでもらえるかな。私たちは明日の新プロジェクトの会議に向けて忙しいんだ。じゃあ、お疲れ様』

 

 ブツッ、と冷たく通信が切れた。

 

「あ……あの野郎……!!」

 

 私は思わず、握りしめていた魔導石を叩きつけそうになった。

 あいつら、現場がどれだけ頭を下げて、理不尽な怒号の盾になっていると思っているんだ。仕様書通りならバグがない? ユーザーの使い方が悪い? 典型的なサポート軽視の開発ファースト思想に、激しい怒りと共にギリギリと胃が痛む。

 

「ち、チーフ……どうしますか……? 技術部が協力してくれないとなると、原因が……」

 

 後ろで様子を見ていたシェリーが、泣きそうな顔で私の服の袖を引いた。

 バルド部長はすでに机の下に隠れて震えている。技術部は完全にシャッターを閉めた。頼れる仲間はどこにもいない。

 私は大きくため息をつき、頭をガシガシと掻いた。

 だが、怒りが一周回って、お客様相談室チーフとしてのプロのプライドがふつふつと燃え上がってくるのを感じた。

 

「……いいわ。あいつらが動かないなら、自分で動くしかない。あの傲慢エルフの鼻を明かしてやるんだから」

 

 私はバサリと書類をまとめ、営業スマイルを限界までチャージし直した。残業上等!

 

「シェリー、応接室に戻るわよ。あの通信機の現物を、私たちが直接検分するわ!」

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