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信じないでください、私の話を  作者: あゆと


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8/8

終章 院長の記録 彼女は嘘をついていなかった

 セレスティア・ヴァンクリーフ嬢は、嘘をついていない。少なくとも、本人はそう信じている。


 王都から修道院へ届いた荷は、革鞄が二つ、小箱が一つ、封をされた書類包みが一つだった。革鞄の中身は、修道院へ送られる令嬢にしては多くなく、しかし必要なものだけとも言いがたかった。白い夜会服、母君のものだという香水瓶、最低限の衣類、青いリボンの髪飾り、途中まで封を開けた王子殿下からの手紙、そして四頁の手記。

 夜会服を見たとき、私はしばらく手を止めた。修道院では絹の夜会服を着る場などない。白い布はよく手入れされており、襟元の真珠も欠けていなかった。美しい服だった。だからこそ、ここへ持ち込まれたことが哀れに見えた。罪の証拠ではない。虚栄とも違う。彼女は、自分が美しかった日の形を、鞄に入れて持ってきたのだろう。

 青い髪飾りは、さらに古かった。子ども用の小さな品である。薄紙に包まれ、紺色の箱へ収められていた。贈られたものなのか、渡されなかったものなのかは、添えられた手紙には書かれていない。ただ、箱の底に古いカードが一枚入っていた。文字は途中で消されていた。


 セレスティアへ。


 それだけが読めた。


 私は、その箱を本人へ渡す前に、王家から届いた書類を確認した。そこには、婚約解消の経緯、ヴァンクリーフ公爵家からの申し送り、当修道院での扱いについて書かれていた。

 公爵家からの申し送りは、たいへん整っていた。静養を兼ねた滞在であること。外部との文通は当面制限すること。身の回りの世話は最小限にし、自身で行う生活に慣れさせること。夜間の呼び鈴は置かないこと。火の扱いは本人単独ではさせないこと。来客は月に一度、公爵家の代理人が確認すること。

 整いすぎた申し送りだった。こういう書類は、たいてい書かれていない場所に本当の用件がある。夜間の呼び鈴は置かないこと。火の扱いは本人単独ではさせないこと。外部との文通は当面制限すること。そこに、屋敷で何が起きていたかの影があった。だが、影は影である。私はそれを罪名にはしない。


 セレスティア嬢が修道院へ着いたのは、夕刻だった。馬車を降りた彼女は、疲れていたが、礼の角度を崩さなかった。長旅の後に、あれほど正確な礼をする娘は珍しい。背筋は伸び、指先は揃い、目は伏せすぎず、上げすぎない。ただ、礼を終えたあと、彼女は私の後ろを見た。誰かを探す目だった。

『呼び鈴は、ありますか』

 最初に彼女が尋ねたのは、それだった。私は『ありません』と答えた。

 彼女は一度だけまばたきをした。怒ったのではない。困ったのでもない。自分の知っている部屋の形から、何か大切な部品が外されたような顔だった。

『では、夜に人を呼ぶときは』

『扉を開けて、廊下の当番へ声をかけます。病や急な痛みがあるなら、見回りが気づきます』

『声を、出すのですか』

『必要なら』

 彼女は、その答えをすぐには受け取らなかった。自分で声を出す。誰かが来るかどうか分からないまま、廊下へ向かって声を出す。それが、彼女には想像しにくかったのだろう。私は、その場ではそれ以上言わなかった。


 修道院で最初に教えるのは、罪ではない。生活である。服を自分で畳むこと。水差しを自分で持つこと。夜に眠れなければ、自分で燭台を遠ざけること。誰かに来てほしければ、命じるのではなく頼むこと。相手が来られない場合もあると知ること。

 この程度のことが、貴族の令嬢には難しい場合がある。セレスティア嬢には、それが難しいようだった。

 翌朝、彼女は洗面の水がぬるすぎると言った。修道女見習いのリーナが謝ると、彼女は首をかしげた。

『責めていません。ただ、次から気をつければよいのです』

 リーナはもう一度謝った。セレスティア嬢は、困ったように微笑んだ。

『泣きそうな顔をする必要はありません。私は怒っていないのですから』

 その瞬間、リーナの指が水差しの取っ手を握り直した。

 私はそれを見た。セレスティア嬢も、見た。だが、彼女は意味を違う場所へ置いた。

『重いのなら、置きなさい』

 私はそこで初めて、王家の書類にあった言葉を思い出した。本人に悪意の自覚は薄い。だが、周囲の者が強い緊張を示す場合がある、と。

 実に礼儀正しい書き方である。強い緊張。恐怖、と書かずに済ませるための、礼儀正しい言葉だった。


 私はセレスティア嬢の手記を読んだ。読み始めたのは、彼女の到着から三日目である。彼女自身が、これを院長様がお読みになるなら、と差し出した。差し出しながら、こう言った。

『あまりに一方的な話ばかりが残るのは、不公平だと思うのです』

 不公平。その言葉は、四頁のどこにも何度も形を変えて現れた。

 彼女は、自分が見ていたものを書いている。王宮の白薔薇の間、ミレーユ嬢の淡い水色のドレス、アンナという侍女の手首、父君の背中、屋敷の大階段、青い髪飾り、王子殿下の手紙。細部はよく覚えている。

 葡萄酒が染みた布の色を、花が腐ったような色と書く。階段の金具の細い傷を、爪痕のようだと書く。アンナの手首の布がほどけかけていたことを、書くべきか迷う。父君の机にあったカードの、消された文字を覚えている。

 彼女は、見ていないのではない。むしろ、よく見ている。ただ、見たものの置き場所が、いつも自分の痛みの後ろにある。

 アンナの震えは、自分が信じてもらえなかった痛みの後ろに置かれる。ミレーユ嬢の沈黙は、自分が誤解された痛みの後ろに置かれる。父君の背中は、自分が裏切られた痛みの後ろに置かれる。王子殿下の手紙は、自分がこれ以上責められる恐怖の後ろに置かれる。

 嘘ではない。順番が違う。

 順番が違うと、人は同じ出来事で別の物語を作る。

 私は、そのことを本人へそのまま伝えなかった。伝えれば、彼女はきっと丁寧にうなずき、分かった形を作るだろう。分かった形を作ることに、彼女は慣れすぎている。


 代わりに、手記の最後の一行を指で押さえた。


 信じないでください、私の話を。


『ここだけ、一人称が違いますね』

 彼女は、私の指先を見た。

『そうでしょうか』

『それまで、あなたはずっと、わたくし、と書いています』

 彼女は手記を受け取り、頁を戻した。最初の行を見て、二頁目を見て、三頁目を見て、最後の行に戻る。頬の血の気が少し引いた。

『気づきませんでした』

『そうでしょうね』

『直した方がよろしいでしょうか』

 その問いを聞いて、私は少しだけ彼女を気の毒に思った。直す。この娘は、自分の中からこぼれたものまで、正しい形へ直そうとする。

『直さなくて結構です』

『ですが、揃っていないのは』

『揃っていないから、残しておくのです』

 彼女は黙った。その沈黙は、反省ではなかった。納得でもなかった。ただ、手にした頁のどこへ目を置けばよいのか、分からなくなった沈黙だった。


 数日後、王子殿下の手紙について尋ねた。彼女はまだ最後まで読んでいなかった。

『読むよう命じますか』

 私は首を横に振った。

『命じません』

『では、読まなくてもよいのですね』

『よい、とは言いません。けれど、読めないものを、読んだ形にする必要はありません』

 セレスティア嬢は、その言葉を気にしたようだった。読んだ形。

 彼女はその日の夕食を半分残した。食堂で食器を戻すとき、修道女見習いが『お口に合いませんでしたか』と尋ねた。セレスティア嬢は『いいえ、十分です』と答えた。

 そのあと、小さく言い直した。

『まだ、食べられません』

 それは、この修道院に来てから初めて、彼女が自分を飾らずに言った不調だった。

 私は記録に残した。

 セレスティア・ヴァンクリーフ。滞在四日目。夕食を半分残す。理由を「まだ、食べられません」と述べる。虚飾ではなく、拒絶でもなく、状態の申告と見られる。

 記録というものは、冷たい。けれど、冷たいからこそ、人を断罪せずに済むことがある。


 私は、彼女の手記の余白に書き込みをしなかった。代わりに、院長室の記録帳へ、この件を分けて記した。王家への提出用ではない。修道院の内部記録である。

 そこには、こう書いた。

 セレスティア嬢は、自分を守るために語る傾向が強い。これは虚偽癖とは異なる。彼女は事実を作り替えるより、事実の順番と意味を自分の痛みへ沿わせる。周囲の恐怖や沈黙を、未熟、寒さ、感謝の不足、誤解として受け取る傾向がある。

 同時に、他者の反応をまったく見ていないわけではない。むしろ詳細に記憶している。アンナの手首、ミレーユ嬢の指先、父君の背中、殿下の手紙。彼女は見ている。見ているが、受け取らない。受け取れば、これまでの自分が崩れるからである。

 ここまで書いて、私は筆を止めた。これでは、彼女だけを観察対象として閉じ込めてしまう。

 王子殿下の手紙も読んだ。殿下は、自分の遅さを書いていた。白薔薇の間を選んだ理由の中に、王家の体面があったことも書いていた。それは誠実に見える。だが、誠実さもまた、自分を守る形を取ることがある。

 殿下は遅れ、公爵は見ず、侍女は黙った。ミレーユ嬢は弱さで身を守り、セレスティア嬢は優しさの形を間違えた。

 誰か一人が怪物だったのではない。怪物という言葉は便利すぎる。怪物にしてしまえば、他の者は人間でいられる。私は、その言葉を記録には使わない。


 セレスティア嬢は、到着から七日目に、自分で水を取りに来た。夜だった。廊下の灯は半分落としてあり、見回りの修道女が台所の前で彼女を見つけた。セレスティア嬢は燭台を持っていた。火は小さかった。手は震えていなかったが、緊張していた。

『水をいただけますか』

 彼女はそう言った。命令ではなかった。

 見回りの修道女は、水差しを渡した。セレスティア嬢は礼を言い、自分で杯へ注いだ。少しこぼした。袖口が濡れた。彼女は、しばらくその袖を見ていた。

『拭く布はありますか』

 修道女が布を渡すと、彼女は自分で拭いた。

 それだけのことだ。それだけのことを、私は記録に残した。


 翌朝、彼女は院長室へ来た。王子殿下の手紙を持っていた。封は開いている。紙の折り目が増えていた。最後まで読んだかどうかは、すぐには分からなかった。

『読みましたか』

『全部ではありません』

『どこまで』

『最後の少し手前まで』

『なぜ止めたのです』

 彼女は手紙を胸元に寄せた。

『最後まで読んでしまうと、私は返事を書かなければならない気がしました』

『書けばよいのではありませんか』

『何を書けばよいか、分かりません』

『それも書けばよい』

 彼女は、また黙った。その沈黙は、到着の日とは違っていた。言葉を整えるための沈黙ではなく、整わないものをそのまま持っている沈黙だった。

『院長様』

『はい』

『私は、嘘をついていましたか』

 私は、すぐには答えなかった。早く答えれば、この娘はその答えを新しい柱にしてしまう。嘘をついていたと言えば、すべてが罪になる。嘘をついていないと言えば、すべてが許しになる。どちらも違う。

『あなたは、嘘をつこうとして手記を書いたのではないでしょう』

 彼女は息を止めた。

『では』

『けれど、あなたの話だけでは足りません』

 彼女は視線を落とした。怒りもしない。泣きもしない。反論もしない。そういう沈黙は、初めてだった。

『足りないものは、どこにありますか』

『あなたが怖かった人たちの側に』

 彼女は、ゆっくりと手元を見た。

『アンナは、私が怖かったのでしょうか』

 その一人称に、彼女自身は気づいていないようだった。

 私は、答えなかった。代わりに、机の上へ白い布を置いた。修道院の清潔な包帯である。アンナという侍女のものではない。火傷の痕を示すものでもない。ただの布だ。

『それは、あなたが本人へ尋ねることです。今すぐではなくても』

『答えてくれるでしょうか』

『分かりません』

『答えてくれなかったら』

『答えないことも、その人の答えです』

 彼女は、長くその布を見ていた。


 その日の記録に、私はこう書いた。

 セレスティア嬢、自ら「私は」と発言。自覚なし。問いの内容は、アンナの恐怖について。初めて、他者の感情を自分の痛みの補足ではなく、独立したものとして尋ねた可能性あり。ただし、これをもって改心とは判断しない。

 改心とは便利な言葉である。彼女は改心した。彼女は罪を知った。彼女は本当の自分を取り戻した。そう書けば、記録はずいぶん扱いやすくなる。だが、人はそのようには変わらない。

 翌日、彼女はまたリーナに水の温度を指摘した。言い方は以前より穏やかだったが、リーナの指がこわばったことには気づかなかった。さらに翌日、廊下で別の見習いの礼を直そうとして、途中で手を止めた。何も言わずに立ち去ったが、そのあと院長室の前まで来て、入らずに戻った。

 進んでいるのか、同じ場所を回っているのか。おそらく、その両方だ。

 私は最後に、王家へ提出する報告書へ短く書いた。

 セレスティア・ヴァンクリーフ嬢は、現在、当修道院にて静養中。生活面では大きな問題なし。ただし、他者への指摘と自身の正当化が結びつきやすく、対人距離について継続観察を要する。火の扱い、夜間呼び出し、外部文通については、当面制限を継続することが望ましい。

 それで十分だ。

 王家には、必要なことだけ伝えればよい。余白に残るものは、王家の書類より、本人の生活の中で扱うべきである。


 ただし、この内部記録には、もう少し書いておく。

 彼女は嘘をついていなかった。ミレーユ嬢も、嘘をついていなかったのだろう。アンナも、殿下も、公爵も、おそらく自分の中では嘘をついていない。

 それでも、人は誰かを傷つける。

 嘘ではない言葉で、人は閉じ込められることがある。優しさとして伸ばされた手を、相手が逃げ道のない壁として覚えることもある。沈黙は身を守るが、その沈黙の間に、別の誰かが長く息を止めることもある。正しい断罪が、遅れた者の体面を救ってしまうこともある。

 私は、セレスティア嬢の手記の最後の一行を、もう一度読んだ。


 信じないでください、私の話を。


 それまでの頁で、彼女はずっと自分を「わたくし」と書いていた。最後の一字だけが、頁の上で少し裸に見えた。

 私は、その一行を直さない。直してはならない。

 この記録の最後に、私も一行だけ書き添えておく。


 セレスティア・ヴァンクリーフは、嘘をついていない。


 ただし、彼女の話だけを信じてはならない。

これで完結です。最後までお読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
読み進める毎に心臓を掴まれ呼吸が上手く出来なくなる作品でした。全編に渡り怯えと緊張感に満ちているのにそれぞれの語り手が令嬢を確かに愛していた欠片が散りばめられているように感じました。どのような着地点を…
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