終章 院長の記録 彼女は嘘をついていなかった
セレスティア・ヴァンクリーフ嬢は、嘘をついていない。少なくとも、本人はそう信じている。
王都から修道院へ届いた荷は、革鞄が二つ、小箱が一つ、封をされた書類包みが一つだった。革鞄の中身は、修道院へ送られる令嬢にしては多くなく、しかし必要なものだけとも言いがたかった。白い夜会服、母君のものだという香水瓶、最低限の衣類、青いリボンの髪飾り、途中まで封を開けた王子殿下からの手紙、そして四頁の手記。
夜会服を見たとき、私はしばらく手を止めた。修道院では絹の夜会服を着る場などない。白い布はよく手入れされており、襟元の真珠も欠けていなかった。美しい服だった。だからこそ、ここへ持ち込まれたことが哀れに見えた。罪の証拠ではない。虚栄とも違う。彼女は、自分が美しかった日の形を、鞄に入れて持ってきたのだろう。
青い髪飾りは、さらに古かった。子ども用の小さな品である。薄紙に包まれ、紺色の箱へ収められていた。贈られたものなのか、渡されなかったものなのかは、添えられた手紙には書かれていない。ただ、箱の底に古いカードが一枚入っていた。文字は途中で消されていた。
セレスティアへ。
それだけが読めた。
私は、その箱を本人へ渡す前に、王家から届いた書類を確認した。そこには、婚約解消の経緯、ヴァンクリーフ公爵家からの申し送り、当修道院での扱いについて書かれていた。
公爵家からの申し送りは、たいへん整っていた。静養を兼ねた滞在であること。外部との文通は当面制限すること。身の回りの世話は最小限にし、自身で行う生活に慣れさせること。夜間の呼び鈴は置かないこと。火の扱いは本人単独ではさせないこと。来客は月に一度、公爵家の代理人が確認すること。
整いすぎた申し送りだった。こういう書類は、たいてい書かれていない場所に本当の用件がある。夜間の呼び鈴は置かないこと。火の扱いは本人単独ではさせないこと。外部との文通は当面制限すること。そこに、屋敷で何が起きていたかの影があった。だが、影は影である。私はそれを罪名にはしない。
セレスティア嬢が修道院へ着いたのは、夕刻だった。馬車を降りた彼女は、疲れていたが、礼の角度を崩さなかった。長旅の後に、あれほど正確な礼をする娘は珍しい。背筋は伸び、指先は揃い、目は伏せすぎず、上げすぎない。ただ、礼を終えたあと、彼女は私の後ろを見た。誰かを探す目だった。
『呼び鈴は、ありますか』
最初に彼女が尋ねたのは、それだった。私は『ありません』と答えた。
彼女は一度だけまばたきをした。怒ったのではない。困ったのでもない。自分の知っている部屋の形から、何か大切な部品が外されたような顔だった。
『では、夜に人を呼ぶときは』
『扉を開けて、廊下の当番へ声をかけます。病や急な痛みがあるなら、見回りが気づきます』
『声を、出すのですか』
『必要なら』
彼女は、その答えをすぐには受け取らなかった。自分で声を出す。誰かが来るかどうか分からないまま、廊下へ向かって声を出す。それが、彼女には想像しにくかったのだろう。私は、その場ではそれ以上言わなかった。
修道院で最初に教えるのは、罪ではない。生活である。服を自分で畳むこと。水差しを自分で持つこと。夜に眠れなければ、自分で燭台を遠ざけること。誰かに来てほしければ、命じるのではなく頼むこと。相手が来られない場合もあると知ること。
この程度のことが、貴族の令嬢には難しい場合がある。セレスティア嬢には、それが難しいようだった。
翌朝、彼女は洗面の水がぬるすぎると言った。修道女見習いのリーナが謝ると、彼女は首をかしげた。
『責めていません。ただ、次から気をつければよいのです』
リーナはもう一度謝った。セレスティア嬢は、困ったように微笑んだ。
『泣きそうな顔をする必要はありません。私は怒っていないのですから』
その瞬間、リーナの指が水差しの取っ手を握り直した。
私はそれを見た。セレスティア嬢も、見た。だが、彼女は意味を違う場所へ置いた。
『重いのなら、置きなさい』
私はそこで初めて、王家の書類にあった言葉を思い出した。本人に悪意の自覚は薄い。だが、周囲の者が強い緊張を示す場合がある、と。
実に礼儀正しい書き方である。強い緊張。恐怖、と書かずに済ませるための、礼儀正しい言葉だった。
私はセレスティア嬢の手記を読んだ。読み始めたのは、彼女の到着から三日目である。彼女自身が、これを院長様がお読みになるなら、と差し出した。差し出しながら、こう言った。
『あまりに一方的な話ばかりが残るのは、不公平だと思うのです』
不公平。その言葉は、四頁のどこにも何度も形を変えて現れた。
彼女は、自分が見ていたものを書いている。王宮の白薔薇の間、ミレーユ嬢の淡い水色のドレス、アンナという侍女の手首、父君の背中、屋敷の大階段、青い髪飾り、王子殿下の手紙。細部はよく覚えている。
葡萄酒が染みた布の色を、花が腐ったような色と書く。階段の金具の細い傷を、爪痕のようだと書く。アンナの手首の布がほどけかけていたことを、書くべきか迷う。父君の机にあったカードの、消された文字を覚えている。
彼女は、見ていないのではない。むしろ、よく見ている。ただ、見たものの置き場所が、いつも自分の痛みの後ろにある。
アンナの震えは、自分が信じてもらえなかった痛みの後ろに置かれる。ミレーユ嬢の沈黙は、自分が誤解された痛みの後ろに置かれる。父君の背中は、自分が裏切られた痛みの後ろに置かれる。王子殿下の手紙は、自分がこれ以上責められる恐怖の後ろに置かれる。
嘘ではない。順番が違う。
順番が違うと、人は同じ出来事で別の物語を作る。
私は、そのことを本人へそのまま伝えなかった。伝えれば、彼女はきっと丁寧にうなずき、分かった形を作るだろう。分かった形を作ることに、彼女は慣れすぎている。
代わりに、手記の最後の一行を指で押さえた。
信じないでください、私の話を。
『ここだけ、一人称が違いますね』
彼女は、私の指先を見た。
『そうでしょうか』
『それまで、あなたはずっと、わたくし、と書いています』
彼女は手記を受け取り、頁を戻した。最初の行を見て、二頁目を見て、三頁目を見て、最後の行に戻る。頬の血の気が少し引いた。
『気づきませんでした』
『そうでしょうね』
『直した方がよろしいでしょうか』
その問いを聞いて、私は少しだけ彼女を気の毒に思った。直す。この娘は、自分の中からこぼれたものまで、正しい形へ直そうとする。
『直さなくて結構です』
『ですが、揃っていないのは』
『揃っていないから、残しておくのです』
彼女は黙った。その沈黙は、反省ではなかった。納得でもなかった。ただ、手にした頁のどこへ目を置けばよいのか、分からなくなった沈黙だった。
数日後、王子殿下の手紙について尋ねた。彼女はまだ最後まで読んでいなかった。
『読むよう命じますか』
私は首を横に振った。
『命じません』
『では、読まなくてもよいのですね』
『よい、とは言いません。けれど、読めないものを、読んだ形にする必要はありません』
セレスティア嬢は、その言葉を気にしたようだった。読んだ形。
彼女はその日の夕食を半分残した。食堂で食器を戻すとき、修道女見習いが『お口に合いませんでしたか』と尋ねた。セレスティア嬢は『いいえ、十分です』と答えた。
そのあと、小さく言い直した。
『まだ、食べられません』
それは、この修道院に来てから初めて、彼女が自分を飾らずに言った不調だった。
私は記録に残した。
セレスティア・ヴァンクリーフ。滞在四日目。夕食を半分残す。理由を「まだ、食べられません」と述べる。虚飾ではなく、拒絶でもなく、状態の申告と見られる。
記録というものは、冷たい。けれど、冷たいからこそ、人を断罪せずに済むことがある。
私は、彼女の手記の余白に書き込みをしなかった。代わりに、院長室の記録帳へ、この件を分けて記した。王家への提出用ではない。修道院の内部記録である。
そこには、こう書いた。
セレスティア嬢は、自分を守るために語る傾向が強い。これは虚偽癖とは異なる。彼女は事実を作り替えるより、事実の順番と意味を自分の痛みへ沿わせる。周囲の恐怖や沈黙を、未熟、寒さ、感謝の不足、誤解として受け取る傾向がある。
同時に、他者の反応をまったく見ていないわけではない。むしろ詳細に記憶している。アンナの手首、ミレーユ嬢の指先、父君の背中、殿下の手紙。彼女は見ている。見ているが、受け取らない。受け取れば、これまでの自分が崩れるからである。
ここまで書いて、私は筆を止めた。これでは、彼女だけを観察対象として閉じ込めてしまう。
王子殿下の手紙も読んだ。殿下は、自分の遅さを書いていた。白薔薇の間を選んだ理由の中に、王家の体面があったことも書いていた。それは誠実に見える。だが、誠実さもまた、自分を守る形を取ることがある。
殿下は遅れ、公爵は見ず、侍女は黙った。ミレーユ嬢は弱さで身を守り、セレスティア嬢は優しさの形を間違えた。
誰か一人が怪物だったのではない。怪物という言葉は便利すぎる。怪物にしてしまえば、他の者は人間でいられる。私は、その言葉を記録には使わない。
セレスティア嬢は、到着から七日目に、自分で水を取りに来た。夜だった。廊下の灯は半分落としてあり、見回りの修道女が台所の前で彼女を見つけた。セレスティア嬢は燭台を持っていた。火は小さかった。手は震えていなかったが、緊張していた。
『水をいただけますか』
彼女はそう言った。命令ではなかった。
見回りの修道女は、水差しを渡した。セレスティア嬢は礼を言い、自分で杯へ注いだ。少しこぼした。袖口が濡れた。彼女は、しばらくその袖を見ていた。
『拭く布はありますか』
修道女が布を渡すと、彼女は自分で拭いた。
それだけのことだ。それだけのことを、私は記録に残した。
翌朝、彼女は院長室へ来た。王子殿下の手紙を持っていた。封は開いている。紙の折り目が増えていた。最後まで読んだかどうかは、すぐには分からなかった。
『読みましたか』
『全部ではありません』
『どこまで』
『最後の少し手前まで』
『なぜ止めたのです』
彼女は手紙を胸元に寄せた。
『最後まで読んでしまうと、私は返事を書かなければならない気がしました』
『書けばよいのではありませんか』
『何を書けばよいか、分かりません』
『それも書けばよい』
彼女は、また黙った。その沈黙は、到着の日とは違っていた。言葉を整えるための沈黙ではなく、整わないものをそのまま持っている沈黙だった。
『院長様』
『はい』
『私は、嘘をついていましたか』
私は、すぐには答えなかった。早く答えれば、この娘はその答えを新しい柱にしてしまう。嘘をついていたと言えば、すべてが罪になる。嘘をついていないと言えば、すべてが許しになる。どちらも違う。
『あなたは、嘘をつこうとして手記を書いたのではないでしょう』
彼女は息を止めた。
『では』
『けれど、あなたの話だけでは足りません』
彼女は視線を落とした。怒りもしない。泣きもしない。反論もしない。そういう沈黙は、初めてだった。
『足りないものは、どこにありますか』
『あなたが怖かった人たちの側に』
彼女は、ゆっくりと手元を見た。
『アンナは、私が怖かったのでしょうか』
その一人称に、彼女自身は気づいていないようだった。
私は、答えなかった。代わりに、机の上へ白い布を置いた。修道院の清潔な包帯である。アンナという侍女のものではない。火傷の痕を示すものでもない。ただの布だ。
『それは、あなたが本人へ尋ねることです。今すぐではなくても』
『答えてくれるでしょうか』
『分かりません』
『答えてくれなかったら』
『答えないことも、その人の答えです』
彼女は、長くその布を見ていた。
その日の記録に、私はこう書いた。
セレスティア嬢、自ら「私は」と発言。自覚なし。問いの内容は、アンナの恐怖について。初めて、他者の感情を自分の痛みの補足ではなく、独立したものとして尋ねた可能性あり。ただし、これをもって改心とは判断しない。
改心とは便利な言葉である。彼女は改心した。彼女は罪を知った。彼女は本当の自分を取り戻した。そう書けば、記録はずいぶん扱いやすくなる。だが、人はそのようには変わらない。
翌日、彼女はまたリーナに水の温度を指摘した。言い方は以前より穏やかだったが、リーナの指がこわばったことには気づかなかった。さらに翌日、廊下で別の見習いの礼を直そうとして、途中で手を止めた。何も言わずに立ち去ったが、そのあと院長室の前まで来て、入らずに戻った。
進んでいるのか、同じ場所を回っているのか。おそらく、その両方だ。
私は最後に、王家へ提出する報告書へ短く書いた。
セレスティア・ヴァンクリーフ嬢は、現在、当修道院にて静養中。生活面では大きな問題なし。ただし、他者への指摘と自身の正当化が結びつきやすく、対人距離について継続観察を要する。火の扱い、夜間呼び出し、外部文通については、当面制限を継続することが望ましい。
それで十分だ。
王家には、必要なことだけ伝えればよい。余白に残るものは、王家の書類より、本人の生活の中で扱うべきである。
ただし、この内部記録には、もう少し書いておく。
彼女は嘘をついていなかった。ミレーユ嬢も、嘘をついていなかったのだろう。アンナも、殿下も、公爵も、おそらく自分の中では嘘をついていない。
それでも、人は誰かを傷つける。
嘘ではない言葉で、人は閉じ込められることがある。優しさとして伸ばされた手を、相手が逃げ道のない壁として覚えることもある。沈黙は身を守るが、その沈黙の間に、別の誰かが長く息を止めることもある。正しい断罪が、遅れた者の体面を救ってしまうこともある。
私は、セレスティア嬢の手記の最後の一行を、もう一度読んだ。
信じないでください、私の話を。
それまでの頁で、彼女はずっと自分を「わたくし」と書いていた。最後の一字だけが、頁の上で少し裸に見えた。
私は、その一行を直さない。直してはならない。
この記録の最後に、私も一行だけ書き添えておく。
セレスティア・ヴァンクリーフは、嘘をついていない。
ただし、彼女の話だけを信じてはならない。
これで完結です。最後までお読みいただきありがとうございました。




