10、男と女から兄と妹へ
ぎこちない沈黙がその場を支配する。
アキとエミレアが消えた後、何となくお互いに顔を合わすことが出来なくて、ニーナもレンも黙り込んだまま身動きが取れずにいた。
「あー……ニーナ」
先に沈黙を破ったのは、レンだった。
「レイチェルに聞いたんだが……俺はどうやら……その、お前を傷つけていたらしい。悪かった」
その言葉にニーナの顔が、ふっと笑み崩れた。泣き笑いのような顔を上げて、困惑しているレンの顔を見つめる。
多分レンは、気づいていない。ニーナが彼を好きだったことに。なぜレンが彼女を傷つけていたのか、その理由を。
でも謝ってくれた。理由も聞かずに、謝ってくれた。
いかにもレンらしい。そして、そんなレンが大好きだったのだ。
「レン。私、レンのことが好きだったんだよ」
まだ胸は痛む。だけど口に出してしまった今は、どこか清々しくも感じていた。
「……そうか」
それだけ言うとレンは、口を噤んで黙り込んだ。
彼が躊躇っている様子が辛そうで、ニーナは慌てて自分から声をかけた。
「いいの。レンが私のこと、そういう対象に見れないこと知ってるから」
「…………すまない」
長い沈黙と、短い謝罪の言葉。
ニーナは目を閉じてその言葉を噛みしめる。彼女は自分の心の中で、レンへの想いに終止符を打った。
「レン、リディアって誰?」
顔を上げたレンと、静かに見つめ合う。
言いたくなければ聞かない、とニーナが言うと、彼は「いや」と首を振った。
「俺の恋人だった。俺は彼女を幸せにすることも、守りきることも出来なかった。……リディアは俺の目の前で、死んだ」
「エミレアに似てるの?」
「ああ。髪と目の色は違うが、そっくりだ」
だからレンはエミレアを守ろうとしたのだろう。自分が守れなかった恋人の姿を重ね合わせて。
「エミレアのことを愛しているとか、そういうわけじゃないんだ」
「知ってる」
レンがエミレアに執着する理由は分からなくとも、ずっと彼のことを見つめてきたニーナは、それが恋慕の情では無いことを見抜いていた。
彼の想いはもうずっと前から――レイチェルに捧げられているのだから。
今なら分かる。リディアへの贖罪。それがエミレアにこだわったレンの理由だったのだ。
でも、と思う。レイチェルは、彼がエミレアに惹かれていると思っている。
レイチェルもレンも、互いに相手を想っているのに気づいていない。二人とも自分の気持ちを胸に秘め、口に出すことすら諦めている様子だった。
もしかしたら想いを打ち明けることを躊躇う理由が、それぞれにあるのかもしれない。
「大人でも不器用な恋愛をするんだね……」
ニーナの呟きを拾えなかったレンが「ん?」と聞き返して来たが、彼女は曖昧に笑って誤魔化した。
「それよりもニーナ。お前、あの悪魔と……」
レンが口ごもる。聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちのせめぎ合いが、直接的な表現を使うことを躊躇わせるのだろう。
「そういう関係じゃ、ないよ」
はっと顔を上げたアキが、安堵の表情を浮かべた。
嘘では無い。彼が心配するような関係は無いのだから。まして恋人同士でも無い。
ただ――使い魔と主人の関係、と言ったらレンは激昂しそうな気がした。
「でもね。アキは……独断的で専横的で強引だけど……私のことは守ってくれると思う」
使い魔に対し主人は、その身を保護する義務があるとアキは言っていた。彼は自分が口にした約束を破るような男じゃない。短い付き合いの中で、ニーナのアキに対する予感は確信に変わっていた。
「……そうか」
レンはじっとニーナを見つめた。
子供が一人立ちする時の親の気持ちとは、こういうものなのだろうか。自分の腕の中で泣いていた赤ん坊が、自分が守ってやらねばと思っていた少女が、いつの間にか芯の強さを感じさせる女性に成長していた。
嬉しさと寂しさを感じながら、レンは立ち上がるとニーナと自分のために紅茶を淹れた。
今夜は久しぶりに、じっくり二人で話し合おう。昔、一緒になって夜更かしをしていた頃のように……。
「ひっ…………あぁああ…………っ!」
腰を抜かして座り込んだ男が、恐怖に目を見開いたまま後ずさろうとした。力の入らない手と足は、何度も床を掴み損ねて空しく滑る。逃れようとする気持ちばかりが空回りしていた。
室内には濃厚な異臭が漂い、天井から床に至るまで血と体液にまみれた肉片が付着している。よく見るとそれらは放射線状に飛び散っており、その中心部では、寒気すら覚える美貌の持ち主が、銀色の髪の一筋をも乱すことなく静かに佇んでいた。
「ひっ!」
アキが足を踏み出すと、床の上の男は息を飲み込んだ。男の股間にじわじわと黒い染みが広がって行く。
しかしアキは、まるでそこに誰も存在していないかのように男の脇を通り過ぎると、テーブルへと近づいた。
荒削りな木のテーブルは、かなりの大きさがあった。その上に散乱する、秤、薬匙、薬瓶、色とりどりの薄紙の上に乗せられた粉末……。
アキはペロリと指先を舐めると、それぞれの粉末に触れて口に運んだ。吟味するように金色の瞳が細められる。
やがて全ての粉末の味見を終えると、アキは「ふん」と鼻を鳴らした。
「人間相手にしては濃度が高すぎるな。末端価格をいくらにして売ってたんだ?」
床の上の男――コーク・ランカードは唾を飲み込み、アキの顔を見上げるばかりだったが、「命が惜しければさっさと答えろ」と言われ身体をビクリと震わせた。
「は……八万ソブニー」
震える声で告げられた金額に、アキは忌々しそうに舌打ちをした。
「物の価値を知らん馬鹿が。十五万ソブニーでもまだ安いぐらいだ」
それを聞いたコークの瞳に、驚きと怒りの表情が浮かぶ。実際はもっと稼げたはずと知って悔しがっているのが手に取るように分かった。
アキはゆっくりと辺りを見回した。室内には彼の魔法によって破壊された肉体の破片が冗談のように転がっていたが、よくよく見てみればその中には、異形の形をしたものが少なくなかった。
「下級悪魔だな。……全員殺さずにおいた方が良かったか?」
独り言のように呟いたアキの言葉に、コークの顔が再び恐怖に引きつった。それに気づいたアキがチラリと彼を一瞥する。
「ああ。お前は殺さない。生かしたまま正剣隊に引き渡さなけりゃならんからな」
正剣隊と聞いたコークは僅かに身じろぎしたが、殺されないことに対する安堵の方が大きかったようだ。
ホッと表情を緩めたコークに対し、アキは冷たく言い放った。
「だがな。骨の一、二本は諦めろ」
その言葉の意味を理解するよりも早く、肩を蹴られたコークは関節の上から全体重をかけて踏みつけられ、悲鳴を上げた。
眉一つ動かさずに圧力をかけ続けるアキ。やがて彼の足の下で鈍い音が響き、悲痛さを増したコークの悲鳴が、一際大きく響き渡った。
「運が良いな。骨折じゃなくて脱臼で済んだようだ」
「な……なんで……」
脂汗を浮かべたコークが、苦痛に顔を歪めながら疑問を口にした。
「お前のやったことのせいで、俺の使い魔が心を痛めた。その詫びを入れてもらっただけだ」
理不尽な理由であった。だがコークは目の前の男に対する恐怖が大きすぎて、痛みに涙を浮かべながら床に転がることしかできなかった。
「それで、闇世界の誰からターマの粉末をもらってたんだ?」
「……魔王ヴォルトス」
「聞いたことが無い。どうせ偽名だろうな。調合の仕方はそいつに教わったのか?」
コークは黙って頷いた。そして苦しそうな息の下から、濃度を下げるための混ぜ物の割合も、末端価格も全て教わった通りにしていたと告げた。魔王ヴォルトスは無料でターマをくれて、調合のための人員も、自分の部下だという下級悪魔を使わせてくれたという。
「おかしいと思わなかったのか? 無償で高価な麻薬をもらうなんて」
「……親父との契約でそうなってるって言われて……親父からもヴォルトスの言う通りにしろって指示があったから……」
コークの言葉にしばらく考え込んでいたアキだったが、やがて姿勢を正して窓の外を見つめた。
「とにかく、お前をここから連れて行く。……あと地下室に監禁されている男もな」
驚いたコークが瞬きをする間もなく、小屋の中に突風が吹き荒れる。
そして風が治まった時には、男たちの姿も、争いの痕跡も綺麗に消え去っていた。




