11、ビルフレッドとレナス
朝靄の向こうから大聖堂の鐘の音が鳴り響く。数は七つ。
ビルフレッドは汗を拭うと、身体に張りついたシャツを脱ぎ始めた。
「おはようございます、ビル坊ちゃん」
作業小屋から出てきた園丁はそんな彼を見て、皺の刻まれた顔に微笑みを浮かべて挨拶した。
貴族でありながらレイ家の現当主と奥方は、格式ばったことを嫌う型破りな性格だった。おかげでビルフレッドたち一家と使用人たちとの関係は、一般的な貴族の邸に比べると非常に気さくだと言える。
しかしそんな中においてもビルフレッドのことを「坊ちゃん」と呼べるのはこの園丁ぐらいなものだろう。
「ああ、おはよう。スレイヴ」
父親がまだ次期当主であった頃から、この老人は庭師として仕えてきた。彼のレイ家に対する忠誠心と愛情は並々ならぬほど強く、白髪も混じり腰も曲がった今になってもそれは変わらない。幼い兄弟たちを愛し、時には厳しく接してきたこの園丁にとって、ビルフレッドはいつまで経っても「坊ちゃん」であった。
「相変わらず鍛錬に精が出ますな」
「いざと言う時に身体が鈍っていたのでは話にならんからな」
ビルフレッドの上下する裸の胸に、汗が光る。彼は日課となっているトレーニングを終えたばかりだった。
ビルフレッドはスレイヴの肩に担がれた鋤を見て、何かを思い出したように声を上げた。
「ああそうだ。これから水やりに行くんだろう? ついでに花を何本か用意してくれないか」
「花ですか? いつもお屋敷に飾る分は用意してありますが……」
訝しげに眉を寄せたスレイヴの顔を見て、どこか照れたような笑みを浮かべたビルフレッドが答えた。
「いや。今日は我が姫に会いに行くのだ。手土産にと思ってな」
「さようでございましたか。では客間用の花と一緒に多めにご用意いたしましょう。しかしビル坊ちゃん。坊ちゃんご自身が選ばれた花の方が、女性は喜ばれると思いますよ」
「そういうものか? ……分かった。俺も一緒に行くから、選ぶのを手伝ってくれ」
この素直さがビルフレッドの長所であろう。しかも彼は自分が女心に詳しくないことを承知しており、他人に教えを請うのを――たとえ相手が使用人であろうと、躊躇しない。
スレイヴはそんなビルフレッドの性質を誇りに思いながらも、密かに不安を感じていた。
どうやら彼は婚約者に対し、一途な想いを抱いている。だが貴族の女たちと言えば……レイ家の奥方はともかく……夫に対する貞操などは形だけのものが多く、愛人を作って遊び歩いているのが普通である。そんな女と大事な坊ちゃんが結婚するなど、許し難いことであった。
あの旦那様と奥様がそんな相手を選ぶわけない、とは思うのだが、上流階級の婚姻というのは自由にならないのが普通だと言われている。
もしビルフレッドの相手が典型的な貴族女性と同じタイプの女であれば……スレイヴは自分の命に替えても、結婚を阻止するつもりだった。
黙り込んだままゆっくりと歩く園丁の険しい表情を伺いながら、何か気にかかっていることがあるのだろうかとビルフレッドは考えを巡らせていた。そして突然、あることに気がつきハッとしたのである。
自分が婚約したことを彼に伝えはしたが、未だレナスに会わせていなかった、と。
本来であれば婚約者を使用人に紹介するような貴族は居ないし、紹介する必要も無い。しかしビルフレッドにとってそんなことは、あり得ない話だった。幼い頃から世話をしてくれた恩人に対し、あまりにも失礼な話では無いか!
「あー……スレイヴ」
声をかけられたスレイヴの足が止まり、彼はゆっくりとビルフレッドを振り返った。
「その、な。つまり……」
大切なことを忘れていた己が恥ずかしく、歯切れの悪い言葉しか出てこない。スレイヴはジッと自分の顔を見つめて次の言葉を待っている。
思い切って口を開こうとしたビルフレッドだったが、次の瞬間、彼は考えるよりも先に魔法式を構築していた。
間一髪、庭に咲いていた草花が絡み合い、ビルフレッドとスレイヴの周囲を隙間なくビッシリと取り囲んだ。
直後、大量の水が空から降ってくる。その量たるや池の水がひっくり返されたかのようだ。それでいて衝撃が強すぎないよう、水の落下スピードが加減されている。
やがて水の勢いが落ち、ポタリポタリという滴に変わり、草花越しに朝日が透けて見えるようになるとビルフレッドは魔法を解いた。
「…………」
スレイヴと二人、無言で庭を見渡す。辺り一面がびっしょりと濡れ、地面はぬかるみと化していた。
「……水やりの手間が省けましたな」
落ち着き払った調子でスレイヴが口にした言葉は、ビルフレッドの耳には届かなかった。
「姫!」
彼は庭の入口に人影を見つけると、大急ぎでそちらに走り寄ったのである。
庭に降り立った妖精。それが少女を見てスレイヴの頭に最初に浮かんだ言葉だった。
豊かに波打つ水色の髪。透き通るような白い肌。淡い緑色のワンピースは、夏向けの薄い素材で出来ており、フワフワと少女の身体の周りを漂っている。それが妖精のような印象を更に強めていた。
少女は胸の前で腕を組み、ビルフレッドを睨みつけている。怒りの表情を浮かべてなお、冴えわたる美貌というものがあるのだと、スレイヴは感心した。
「どうしたのだ、姫。こんな早くから」
ビルフレッドの問いかけに答えるレナスの声は低く、震えていた。
「……貴方が娼婦を身受けしたと聞きましたわ」
その言葉に驚いたのはスレイヴだった。ビル坊ちゃんが娼婦を?
だが当のビルフレッドは、笑みを浮かべて「何だ、そのことか」と頷いている。
「ああ確かに。姫にも今日、その話をしようと……」
「なぜですの!」
レナスが叫び声を上げた瞬間、またしてもビルフレッドの頭上から水が降ってきた。今度は防ぎきれなかったらしく、ビルフレッドはずぶ濡れになる。
「姫、俺は別にやましい気持ちで身受けしたわけでは……」
「そんなことではありません!」
目に涙を浮かべ、きっと睨みつけるレナス。その迫力にビルフレッドが怯む。
「なぜいつも事後報告なんですの。なぜ事前に私に話してくれませんの! おかげで私はいつも、何も知らないまま貴方が他の女と一緒に居るところを目撃したり、おせっかいな誰かから話を聞かされなければならないんですのよ……」
次第に弱々しくなっていったレナスの言葉は、最後は涙にかき消された。視線を落とし、じっと地面を見つめるレナスの頬を、涙が幾筋も流れて行く。
「姫……」
困惑、驚愕、そして後悔へとビルフレッドの表情が変わり、彼は思わずレナスへ手を差し伸べた。
けれどレナスはその手を叩き落とす。彼女の目には新たな怒りの炎が燃えていた。
「私、『姫』じゃありませんわ!」
そう言ってパッと踵を返すと、レナスは走り去った。
後には、レナスに向かって手を伸ばした姿勢のまま、どうしたら良いのか分からないと言うように呆然と佇むビルフレッドが残される。
「ビル坊ちゃん」
いつの間にかビルフレッドの隣にやって来たスレイヴが、そっと声をかけた。
「あ、ああ……すまない」
「謝られる相手が違うようですな」
力なく呟いたビルフレッドを、やんわりと嗜めるスレイヴ。
「あの方が婚約者殿ですか」
「……そうだ。ヨーフ侯爵家のレナス姫だ」
殴られた子供のような顔をしていながらも、レナスのことを語るビルフレッドの口調には、隠しきれない彼女への恋慕が溢れている。
スレイヴは頷きながら、愛しの「ビル坊ちゃん」の目を覗き込んだ。
「それで坊ちゃん。レナス様をどのように思われているのですか」
「どう、とは……?」
「夫婦になりたいと思っておられるのですか」
「もちろんだ」
ビルフレッドが背筋を正して即答した。
「この身を挺して、生涯、姫を守る覚悟だ」
「それは騎士の役目であって、夫の役目ではありませんよ」
スレイヴはあっさりと言い放つと、驚きの表情を浮かべているビルフレッドに背を向けて、生垣の枝を整え始めた。
「坊ちゃん。レナス様は見たところ、非常に美しいお方ですな。そして活発な方だ。あの方を奥方にされて、坊ちゃん、貴方はどうされるのですか? 誰の目にも触れない屋敷の奥深くに、大切に、大切に、お囲いになりますか? 美しいことだけ見聞きするような環境に、あの方を置かれますか?」
スレイヴの話を聞いていたビルフレッドの目が、大きく見開かれていく。
「違う! 俺はそんな……」
「あの方が侯爵家の姫君だから守りたいと思うですか? 民を守るのはビル坊ちゃんのお仕事です。だからなのですか?」
「違う! 俺は……俺は……レナスを愛している!」
畳みかけるように浴びせられたスレイヴの容赦ない質問に、たまらずビルフレッドが叫んだ。
それを聞いて満足そうに頷くスレイヴ。
「まだ、伝えていないのでしょう? 貴方の気持ちを。いつも『姫』と呼んでいて、名前で呼んで差し上げたこともないのでしょう?」
言われたビルフレッドが、はっと息を呑んだ。
「追いかけなさい、ビル坊ちゃん。愛しているのなら。……少なくとも今は、レナス様の方がよっぽど、婚約者に真正面から向き合おうとしていらっしゃいますよ」
スレイヴの言葉に一瞬黙り込んだビルフレッドが、大きく頷くと駆け出した。その顔には先ほどまでとは違い、強い決意が浮かんでいる。
ビルフレッドの背中を見送ったスレイヴが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
どうやら近い将来、この屋敷に「型破りな奥方」がもう一人増えることになりそうだ、と。




