8、もう一つの事件(失踪)
深夜、仕事を終えたニーナが自室に戻ると、アキが窮屈そうに椅子に座って待っていた。
「待たせたかな?」
「いや、ついさっき来たところだ。しかしお前の方から俺を呼び出すとは珍しいな」
アキが手を上げると、彼の研究室にニーナが残した書置きが握られていた。
「急いで話したいことがあって」
言いながらニーナは、持ってきた盆をテーブルに置いた。黒い物体が皿の上に乗せられている。
「ブラック・マッシュルームか」
覗き込んだアキが声を上げた。ブラック・マッシュルームは闇世界と人間界の狭間に生えるキノコで、人間界では麻酔の材料として使われている。一方、闇世界の住人にとっては非常に慣れ親しんだ食材であった。
ニーナは戸棚からワインを取り出すと、グラスに注いでアキの前に置いてやった。そして自分のために紅茶を淹れ始める。
その様子をじっと見つめるアキ。
以前ニーナの部屋に来た時は、紅茶しか置いて無かったはずだ。彼女は酒を飲まないし、このワインはやはり自分のために用意しておいたものだろう。ブラック・マッシュルームにしても、アキの口に合うものを作ろうとしたニーナの心遣いが感じられる。
ようやく使い魔として主人に仕える心構えが出来てきたらしいな。アキは満足げな微笑みを浮かべた。
彼の正面に座ったニーナは、なぜか上機嫌な様子のアキを見て首を傾げつつも、昼間シャディに会った経緯を話し始めた。
「シャディには、リードというお兄さんが居るんだって」
二人は幼い時に両親に捨てられ、互いに力を合わせて生きてきたらしい。特にシャディが仕立て屋で住み込みの仕事を見つけるまで、リードが二人分の生活費を稼ぎ、親代わりとして彼女を育ててきたと言う。
その後リードも住み込みの仕事を見つけたため、兄妹が顔を合わせるのは学園に居る間のみになった。彼らは毎日、相手が元気でやっているかどうか確認し合っていたそうだ。
それがしばらく前から、シャディはリードに会うことが出来なくなってしまった。
「学園に登校してこなくなったんだって。リードの仕事先にも行ってみたけど、ある日突然居なくなったとしか言われなくて。迷惑そうに追い返されたそうよ」
兄の身に何かあったに違いない。あの責任感の強い兄が、無断で仕事を放りだすような真似をするはずない。まして、自分に何も言わずに消えるなど。
シャディには心当たりがあった。リードが失踪する前に、二人で交わした会話。
「リードは、仕事先で出会った女性と愛し合うようになったんだって」
しかしその女は雇い主の娘で、決して許される恋では無かった。だから二人とも、周囲に悟られないよう自分たちの想いを押し殺し、相手への無関心を装って日々を過ごしていた。
そしてある日、変化が訪れた。雇い主が急死したのだ。彼は事業を営んでいたのだが、それを引き継いだ人間がリードの新しい雇い主となった。
「待て。それはつまり……」
話が見えてきたアキに、ニーナが頷いた。
「リードはランカード商会で働いていたの」
ランクル氏が新代表となって間もなく、ローリア氏の娘は屋敷から姿を消した。
彼女が自ら望んで去って行ったというランクル氏の説明を、リードは信じなかった。彼はランクル氏に詰め寄り――解雇を申し渡されると、屋敷から叩き出されたのだ。
それからのリードは、必死で恋人を探し回った。失踪する直前、久しぶりに学園にやって来た兄を見たシャディは、彼のあまりの憔悴ぶりに驚き、心配になったと言う。
リードは妹に向かって、コーク・ランカードなら何かを知っているかもしれない、これから彼に会いに行ってくると告げたそうだ。
それが、シャディがリードを見た最後になった。
「シャディは兄が死んだものと思い込み、自殺しようとしたってわけか?」
「それが……」
ニーナが目を逸らして苦い顔をした。言いにくいことを口に出そうとしている顔だ。
察しの良いアキは、すぐにピンと来た。
「兄への想いを逆手に取られ、コークに弄ばれたか」
ニーナは無言で頷いた。
コークに呼び出されたシャディは凌辱され、揚句リードの情報も何一つ得ることは出来なかった。
自暴自棄になった彼女は、兄がどこかで生きているという希望も捨て、死んでしまおうと思ったのだ。
泉のほとりで、ニーナは彼女を諭した。
まだリードが死んだと決まったわけでは無い。コーク・ランカードのような下らない男のために死ぬことを考えるのではなく、愛する兄のために生きようと考えろと。
その言葉だけでシャディの受けた心の傷が消えたわけでは無かったが、彼女は不安定な精神状態でありながらも自殺だけは思いとどまってくれた。
ニーナはシャディを仕立て屋まで送るついでに、女将に彼女の世話を頼んでおいた。幸いにも女将はとても良い人で、詳しい理由を聞くこともなく、自分に任せろと胸を張って答えてくれた。
「コーク・ランカードの居場所と、リードの居場所。この二つが問題ね」
「もしかしたらリードは、ランカード商会にとって都合の悪いことを知ってしまったかもしれないな。そうすると最悪、消されている可能性もあるが……」
アキの言葉にニーナが悲しげな顔で頷いた。それは彼女も考えていたことだ。そうであって欲しくない、と願っているのだが。
「しかし、今の話を聞くとローリア・ランカードには娘が居たんだな? なぜその娘が事業を継がなかったんだろうな」
ニーナは「分からない。でもそれは――」と言うと部屋の入り口を振り返った。
「本人に、聞いてみましょうか」
娼婦たちの間で、ざわめきが広がった。柔和な笑みを浮かべたままのミレイユが、きっぱりとした声でアキに言う。
「お客様。申し訳ございませんが、それは出来ません」
「それは困ったな」
ちっとも困った様子に見えないアキが言った。
自分が軽んじられていると思ったのか、ミレイユの表情が強張り、声の調子も先ほどより厳しくなった。
「アキ様はすでに、ディジーを馴染みとしております。エミレアを指名することは出来ません。ましてあの娘は、まだ見習い期間中です」
「だがディジーは今夜、月の障りで客が取れないのだろう? そういう場合は他の娼婦を指名することが出来たはずだ。見習いであろうと、娼婦には変わりない」
アキとミレイユのやり取りを見ていた数人の娼婦が、嫉妬の視線をエミレアに向ける。
彼女たちはいつも、美形のアキの相手を務めるディジーを羨ましく思っていた。あわよくば自分が代わりに相手をしたいと思っていたのに、あろうことか見習いの小娘が指名されたのだ。プロとしてのプライドも傷ついていることだろう。
お互いに一歩も引かない構えのアキとミレイユだったが、これはミレイユの方が分が悪かった。
確かに馴染みの娼婦が客を取れない時は、他の娼婦を指名しても良いことになっていたし、見習いと言えど客が望めば仕事をさせるのが娼館の慣わしだったからだ。
しかしミレイユは迷っていた。見習いに客を取らせることは、質の低いサービスを提供することになり、客を落胆させかねない。それはウィッチグラスの名誉にかかわる問題だった。
ちなみに都合よくディジーに月の障りが訪れたのは、アキの魔法のせいである。
「……私でよろしければ、お相手をさせていただきます」
「エミレア?!」
前に進み出たエミレアに対し、声を上げたのは部屋の片隅からアキを睨みつけていたレンだった。
「ダメだ、エミレア。君は……それにこいつは……」
「レン。貴方の出る幕ではありません」
ミレイユが強い口調でレンの言葉を遮った。
これは娼館の運営に関する問題だ。オーナーであるレイチェルを除けば、全てはミレイユの裁量に委ねられなければならない。
「ああ、実はレンにも来てもらいたいんだがな」
足音荒くアキに近寄って来ていたレンが、動きを止めた。ミレイユも驚きを隠せなかったし、エミレアでさえ呆気にとられていた。
「ふざけるな! 俺はそんな趣味に付き合う気は……」
「お前も交えて話をしたい。ニーナも同席する」
アキに小声で囁かれ、完全に虚を突かれたレンは黙り込んだ。
にこやかな微笑みを浮かべたアキが、ミレイユを振り返る。
「どうやら承諾を得られたようだ。レンが居ない間は、俺の魔法で店全体を覆うから警備には問題ないだろう」
有無を言わさぬ口調だった。
「……それがお客様の望みであれば、全身全霊で応えるのが主の務め。アキ様、どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい」
腹を決めたミレイユは、優雅に一礼すると身体をどけて道を譲る。
アキとレンは両側からエミレアの手を取ると、階上へと足を進めたのだった。




