7、泉で出会った人
澄みきった空を見上げながら、ニーナは幸せそうなため息をついた。
森の奥にあるせいか滅多に人の来ない泉は、学園の校庭に存在する水場の中でも、特にお気に入りの場所だ。
ニーナは一糸まとわぬ姿で、顔だけを水面に出して漂いながら、鮮やかな緑の木々と真っ青な空と木漏れ日の美しさを、うっとりと見つめていた。こうしていると身体中の毒素が抜けていくように思える。
ダンスの練習で火照った身体に、ひんやりとした泉の水が心地良い。踊って汗をかいた後に、海水だったり温泉だったりする他の水場には行きたくない。淡水で、深く、静謐なこの泉は、正に水浴びにぴったりな場所だった。
「学園内で裸体をさらすとは、大胆だな」
岸に上がり木にかけてあったタオルをとったニーナは、背後から聞こえた声にびっくりして振り返った。
(……アキ?)
なぜそう思ったのかは分からない。もしかしたら、その男がアキにそっくりの銀髪だったからかもしれない。
人が近づいて来る気配など無かったはずなのに、忽然と現れた謎の男。
色こそアキに似ていたが、その髪は腰に届くまで長く、ゆるやかに波打っていた。肌は褐色でアキよりも背は低く、歳も若そうに見える。女性とも男性ともとれる中性的な顔立ち。ただその目つきは……良く似ている。初めて会った時に見せた、アキのあの探るような目に。
かろうじて小さなタオルで身体の前面だけを隠しているニーナの姿を前に、全く動じた様子が無い。
羞恥に頬を染めるニーナを見ながら、「水浴びする時は視界を遮断させる魔法ぐらい使ったらどうだ」と男が言った。
「……そんな魔法、使えません」
「使えない?」
驚いた声を上げる男の前で、ニーナは気まずげに下を向いた。
視界を遮断させる魔法は初歩的な光魔法であり、十五歳にもなる魔法使いが使えないなどと言うことはあり得ないのだ。普通であれば。
水浴びをする姿を、他の誰にも見られないようにする――そのための魔法はいくつもある。だがニーナは、どれも使うことが出来なかった。
「魔力が低くて……」
消え入るような声で呟くニーナ。
その後に続いた長い沈黙は、彼女の胸に不安を呼び起こした。恐る恐る顔を上げてみると、驚くほど鋭い視線に射竦められて息を呑む。
なぜ自分が、この男から怒りを向けられなければいけないのか。敵意ある視線に直面したニーナは、混乱した頭で思った。
「魔力が低い?」
何の感情も込められていない低い呟き。それがかえって言い知れない恐怖をニーナに与える。肌が粟立っているのは寒さのせいではないだろう。
彼女の顔から目を離さぬまま、男が一歩前に出る。
ニーナは胸元できつくタオルを押さえながら、思わず後ずさりをした。それに合わせて男もゆっくりと前進する。
「……ぅっ!」
身体に走った激痛に、ニーナが呻いた。どうやら背後にあった木の、とがった部分にぶつかってしまったらしい。
追い詰められた――思わず身震いしたニーナの身体から落ちた水滴が、地面に黒い染みを作った。なす術もなく、男が自分に近づいて来るのを恐怖の面持ちで見つめる。
「怪我をしたのか」
ニーナの目と鼻の先まで近づいた男が、片手を彼女の肩に置くと、その冷たい手をゆっくりと負傷した部分に滑らせた。
指先が傷口に触れ、痛みでニーナの身体が弓なりに反り返る。すかさず男は反対側の手を彼女の腰に回し、ぐいと自分の方へ引き寄せた。
「……ひっ」
驚きの声を上げるよりも、傷口から広がる痛みに悲鳴が上がる。
「木の破片が刺さってるな……抜くから噛んでろ」
何を、とは聞けなかった。突然襲ってきた激しい痛みに我を忘れ、とっさに目の前にあった男の肩に歯を立てる。瞳をきつく閉じ、必死で激痛に耐えながら、ひたすら時が過ぎるのを待った。
「終わりだ。だが……」
涙の滲む目を開けてみれば、無表情な男の顔がそこにあった。
「治癒の魔法をかけている。まだ待て。このままだと傷跡が残る」
ニーナが顔を赤らめながら目を伏せる。その時、男の白い服にポツンと小さな赤い染みがあるのに気がついた。先ほど彼女が歯を立てた場所だ。
「あ、あのっ……」
自分がとんでもないことをしたことに気づいたニーナは、半ばパニックに陥りながら男の顔を仰ぎ見た。
「ごめんなさい、私、噛んだせいで、あの」
「動くな」
必死になって謝るニーナの顔も見ずに、男は目を半分閉じて魔法に集中する。
ニーナは困った表情で彼を見上げていたが、やがてため息とともに顔を伏せた。
そっと指先で染みの部分に触れ、治癒の魔法をかける。男は拒絶しなかった。
傷が小さかったのでニーナの魔法はすぐに終わった。しかし男の魔法は終わらない。
思っていたより傷が大きかったのと……自分の身体に魔法が効きにくいせいだろうとニーナは思った。
幼い頃から自分が魔法にかかりにくいことは知っていた。けれど、それが普通なのだと思っていた。世の中の何人かは自分と同じように魔法が効きにくいのだろうと。
それが違うと分かったのは、この学園に入学してからだ。だがそこで「なぜ自分だけ?」と思うようなニーナでは無い。理由を追及しようとも思わない。ただ、それを事実として受け入れただけだった。
ダンサーや娼婦として生きていくには傷跡が無い方が良い。男に対して申し訳なく思いながらも、ニーナは大人しくその身を預けていた。
傷口からじんわりとした熱が広がる。乾いた肌をそよ風が柔らかく撫で、心地良い。
ようやく聞こえた「終わったぞ」と言う声に、うとうとしていたニーナはハッと気がついた。
顔を上げてみれば、すでに男は少し離れた所に立って彼女を見つめている。先ほど感じた敵意は勘違いだったのかと思うほど、その顔からは何の感情も読み取れなかった。
「あ……ありがとうございます」
「あまり無防備に水浴びしない方が良い」
「でも、ここは滅多に人が来ないんです」
言い訳めいた口調でニーナが言うと、彼は周囲を見渡して「確かにな」と認めた。けれどその眉が、一瞬だけ潜められる。
「…………いや、誰かここに向かっているようだぞ」
「え?」
「早く着替えた方が良いだろう」
驚くニーナに忠告すると、男は背を向けてその場を立ち去ろうとした。
「待って! ……あの、貴方の名前は?」
「――ジェイレンティスキ」
振り返ることも無く、男の姿は木立の中に消えた。
ニーナが着替えていると、茂みの揺れる音が聞こえてきた。先ほどジェイレンティスキが言っていた通り、誰かがこちらに向かって歩いて来ているのだろう。
着替えが中途半端になっており、まだ肌の大部分が露出している状態のニーナは木立の中に入って隠れることにした。
しばらくして森の中から現れたのは、一人の少女だった。
彼女は重い足取りでゆっくりと泉の縁まで近づくと、その場に立ちすくんだ。青ざめた顔で、じっと水面を見つめている。
悲壮な表情を浮かべた、思いつめた顔。
着替えをしながら様子を伺っていたニーナは、もしや少女が自殺するつもりではないかと思い、慌てて彼女の近くに駆け寄った。
「ちょっと待った!」
少女は弾かれたように振り返ると、目を丸くした。
「ニーナさん?」
ぴた、とニーナの足が止まる。
「……どこかで会ったっけ?」
ニーナが聞くと、少女は一瞬だけ愕然とした表情を浮かべてから、憂鬱そうな声で答えた。
「……隣のクラスのシャディです」
少女――シャディの制服に目をやれば、確かに庶民クラスのエンブレムが刺繍されていた。
そう言えば何となく顔に見覚えはあるが、同じクラスの学友たちであっても、名前ぐらいしか覚えていないニーナである。隣のクラスの生徒の名前まで覚えてはいなかった。
「ごめん」
素直に謝ると、シャディは「……別に良いです」とため息をついて目を逸らした。
「なんで自殺しようとしたの?」
ニーナは聞いてみた。途端に、貝のように固く口を閉ざしてしまうシャディ。
この反応は、やはり入水自殺するつもりだったのだとニーナは確信した。しかし本人が言いたがらないのに、深く理由を追及するのもためらわれる。悩みを打ち明けてもらったとしても、ニーナに解決できないような内容だったら、どうしようもできないのだ。
「えーと、水死体って見た目がかなり悪くなるよ。ガスが溜まって、ぶよぶよに膨らんで……」
詳しい描写を始めたニーナを、シャディがぎょっとした顔で振り返る。
「身元の判別すら出来ないようになるんだよね。家族が見てもシャディさんか分からないって、悲しいじゃない?」
家族という単語を聞いた瞬間、シャディの身体はビクッと揺れた。大きく見開かれた目から、ボロボロと涙が零れ落ちる。
彼女はその場にしゃがみこむと、激しく嗚咽を上げながら泣き始めた。
予期せぬ反応に戸惑うニーナだったが、無言で彼女の隣にしゃがみこむとシャディの背中をさすってやる。あえて視線は泉の方へと逸らしていた。
「……ありがとう」
しばらくして少し落ち着いたシャディが、下を向いたままくぐもった声で呟いた。
ニーナはさすっていた手の動きは止めたものの、彼女の背中から手を離そうとはしない。
だが次の瞬間、シャディの口から飛び出した人物の名に、驚いて彼女を振り返った。
「ニーナさん……コーク・ランカードって知ってる?」




