第2話:契約書は、無いようです
契約成立から、まだ数分。
「――ほら18547番、掃除機。まずは客間からね」
ソファーに寝転がったまま、女神が気だるげに指を差した。
「かしこまりました。掃除機はどちらにありますか?」
「え、その辺にない?」
女神が指差す方向には、ごみの山しかなかった。
男は無言で女神を見つめた。
「……」
「そんなのスキルで出しなさいよ。願えばいいのよ、願えば。自動で動く掃除機よ来いって」
女神は煎餅を片手に、言い放った。
男は胡散臭いものを見るような視線を投げつつ、頭の中で唱える。
(掃除機よ、来い)
脳内で先ほどの声が響いた。
【女神の奴隷:掃除機召喚】
手元に現れた掃除機に驚きつつ、視線を上げると、ドヤ顔の女神がそこにはいた。
何か言うのも負けた気がしたので、黙って掃除機をかけ始める。
しかし、あまりにも床が汚かったため、脳内でタスクに優先順位を付け始める。床の紙くず、カップ麺の空き容器、脱ぎ散らかされた衣服――
すると脳内であの声が響く。
【女神の奴隷:行動速度2倍】
「な、なにその無駄のない動き……!? 早いわ……まるでゴミ山に潜むゴキブリのように早いわ……!?」
先ほどまでドヤ顔をしていた女神が、想像以上の高速処理に思わず引いていた。
「お褒めに与り光栄です。雑務処理と環境整備は、社畜の嗜みです」
――男は心の中で、いつかあの女神を粗大ごみに捨てようと決意をした。
わずか三十分で客間は見違えるほど片付いていた。煎餅を食べたから喉が乾いたと言い放つ女神のために、キッチンで見つけた茶葉を使って完璧な温度で淹れた紅茶をテーブルへ置く。
女神は紅茶に口を付け、
「まぁまぁね、でも、砂糖が足りないわ」
しかし、その顔はニヤけていた。
男がスキルで砂糖を出すと、女神がさらりと言った。
「スキルで出したものは、役割を終えると消えてしまうわ。というかそもそも、人から出た食べ物は生理的に無理よ」
男は黙ってキッチンから、変色した砂糖の残骸を持ってきた。
女神は目をそらしつつ、咳払いをし、取ってつけたような称賛をした。
「あんたも中々やるじゃない。掃除もできるし、紅茶も美味しいわ」
「前の会社で、残念な上司の代わりに全業務を取り仕切っていましたから。……まあ、そのせいで手柄を横取りされて潰されたわけですが」
遠い目をする男に、女神はソファーから手を伸ばし、男の肩をポンポンと叩いた。
「まあいいわ。想像以上の成果よ、18547番。あなたを執事に選んだ私の目に狂いはなかったようね」
「毛刈り羊との二択を突きつけておいて、よく言えますね」
毒を吐きつつ、男はふと真顔になった。
「そういえば女神様。契約内容について、いくつか確認させてください」
「……急に真面目な顔ね。何よ」
「まず、この執事契約に任期はあるんですか。まさか一生ここで、とは言いませんよね」
「さ、さあ? そのあたりは特に決めてないけど……」
男は嫌な予感を覚え、スキルで紙とペンを召喚した。
無言で契約内容を書き出す。衣食住の確認、任期、労働条件。
書き出したリストを女神に見せながら、
「まずは、これらの内容を教えていただければと」
女神はリストを一瞥して、明後日の方向を見ながら、口笛を吹いた。
男はそんな女神を見て、にやりと口角を上げた。
「この世界に、労基署はありますか?契約書が無いなら、ぜひ女神様とそこまでデートに行きたいなと」
女神はリストを受け取ると、唐突に破り捨てた。
「うるさいわね! 契約書なんて用意してないんだから、細かいことは追々決めるのよ!」
開き直った女神に、男は深々と溜息をついた。
「それならせめて対価は?前職では最低限、給料と有給休暇がありました」
据わった目で詰め寄る男に、女神は目を泳がせながら、紅茶を一口飲み、
「対価はわ・た・し」
と、小首をかしげてウインクしながらのたまった。しかし、男からの死んだ魚のような冷たい目線に耐えられず、速攻で目を泳がせ――
「そ、そのうち考えるわ! 休みも……気が向いたらあげる」
「気が向いたら、ですか」
――やはり、この職場もブラックだった。
「……分かりました。スキルの詳細も含めて、別途打合せをお願いします」
「わ、分かればいいのよ。ほら、次は奥の部屋の掃除!」
誤魔化すように話を逸らす女神。男は黙って頷き、再び掃除機を手に取った。
その後も、女神の無茶振りは続いた。
「洗濯物、色物と白いのちゃんと分けてよ」
「もちろんです」
「あ、あっちの洗濯物自分で洗うから、触らないでね」
「承知しました」
「終わったら、そこの本棚も整理しといて。ジャンル別、著者別、あと私の好きな順」
「好きな順、というのは今後お伺いしながら調整します」
「あら、気が利くじゃない」
一通りの家事を終え、男が汗を拭っていると、女神がふと真顔になった。
「……ねえ、18547番」
「なんでしょうか」
「近いうちに、外に出てもらうことになるかもしれないわ」
「外、というと下界に、ですか」
「ええ。ちょっと……下界というか、異界というか、まぁ、こっちの都合でね」
それ以上は語らず、女神は紅茶のカップに視線を落とした。いつもの飄々とした調子とは違う、どこか歯切れの悪い間があった。
「……何かあったんですか」
「今はまだいいわ。決まったら話す」
有無を言わさぬ声。男はそれ以上踏み込まず、黙って頷いた。
――何か、面倒事の匂いがする。
社畜の勘が、そう告げていた。
「あぁ、そういえば、あんたの部屋はあそこよ。早く掃除しないと、眠る場所がないわよ」
もっと早く言えよという言葉を呑み込み、掃除機を片手に、社畜の闘いは始まるのだった。




