第1話:再就職先、決まりました
男はこれまでで一番深く頭を下げていた。
床に額を擦り付け、恥も外聞も捨てた美しい土下座。それは、目の前の自称・女神に向けられていた。
「本当にすいませんでした!我儘ばかりいって……!」
「謝るくらいならサクッと転生してください!」
事の発端は、数分前に遡る。
怒涛の7連勤を終え、最後の力を振り絞りながら、帰路についている途中。赤信号なのに、ボールを追いかけて道路に飛び出した子供を助けようとして――
「――勇敢な中年よ。残念ながら、あなたはトラックにはねられて死亡しました。しかし、あなたのおかげで子供は無傷で助かりました」
純白の空間。
そこに佇む一人の美しい女性――黄緑色の髪色の自称・女神は、まるで事務連絡でもするかのように淡々と告げた。
「その勇気ある行動を称え、これよりあなたを異世界へ転生させます。こちらのカタログから好きな能力を一つ授けますので、セカンドライフを楽しんでくださいね。希望の設定があれば、可能なかぎり善処しますよ」
テンプレ通りの展開。
だが、四十年の人生を大手メーカーの社畜として捧げてきた男は、深々と溜息をついた。
「結構です」
「……え?」
初めて女神と目があった。彼女は少しだけ目を大きくしながら、首を傾げる。
――なぜだろう。この覇気のない目、どこかで見たような。
ずきり、と胸の奥が小さく疼いたが、女神はその疼きをすぐに振り払う。数えきれないほどの魂と対面してきたのだ……気のせいに決まっている。
「それはどういう意味ですか」
「そのままの意味です。転生も、チートも、異世界も不要です。もう疲れました」
男は仕事ができた。能力は高く要領も良い、加えて面倒見も良かった。
だからこそ、上司からは面倒な案件を押し付けられ、部下の失敗の後始末をさせられた。
終いには、同僚には手柄を横取りされて、出世競争から脱落した。
「転生?本当勘弁してください。顔良し、家柄良し、能力最強。その代価は頼られて、利用されて、全ての責任を押し付けられる。最終的には、復讐物語の開幕ですか?結局ブラックな環境になるだけです。ハードワークもスローライフもお断りです」
――男は無駄にラノベに詳しかった。
悟りきった目でそう語る男に、女神の眉間にしわが寄った。
「まあまあ、そんなこと言わずに。ほら、可愛い女の子とかどうです? 金髪ネコ耳、青髪メイド、選り取り見取り、選び放題ですよ」
男の脳裏に、人生で愛した唯一の女性が浮かぶ。無機質な病院のベッドの上、痩せた手を伸ばしながら、「一緒に生きられなくて、ごめんね」と泣き笑いを浮かべていた顔――男は深呼吸をし、再度記憶に蓋をする。
「大丈夫です。僕のエクスカリバーは、選ばれし者にしか抜けません。その者は早くに病で亡くなってしまったので、この剣は一生抜けません」
説得を試みていた女神だったが、男の固い意志と煮え切らない態度、そしてしょうもない下ネタに、ついに表情を無くした。
「……はあ」
深く、重い溜息。
「18547番さん。いい加減にしてください」
その声には先ほどまでの神聖さなど微塵もなく、氷のように冷たかった。
「18…番?」
男は首を傾げて確認をした。
女神は舌打ちをしながら、
「そうですよ。受付番号18547さん。こっちも忙しいんだから、サクサク決めてくれませんか」
「囚人番号みたいに呼ぶのはやめてくれませんか。何様ですか?」
「女神様ですよ! でも、こっちだって仕事でやってるんです!」
女神は、髪をかきむしりながら急に声を荒らげた。
「さっきから、こっちが下手に出てればごちゃごちゃと…本来死ぬ予定のなかった魂は、可能な限り願いを叶えて、しかるべき世界へ転生させなきゃいけないルールなんです! ノルマがあるんです! なのにチートはいらないだの、働きたくないだの……! 前の18546番も相当でしたが、もう同じようにしましょうか!?」
怒涛の愚痴。完全にブラック企業のサービス残業で精神を削られた社員のそれだった。
「ちなみに、18546番さんはどうなったんですか……?」
恐る恐る尋ねる男に、女神は静かに、凶悪な笑みを浮かべた。
「あぁ、あれですか。親のすねをかじりながら、引きこもり生活を送り、最後には、ティッシュまみれで死亡したくせに、あまりにも注文が多かったので、記憶を消して豚として放牧しました」
男は焦る。これはヤバいと、社畜時代の本能が警鐘を鳴らしている。
「申し訳ございませんでした!!!」
選択肢はただ一つ。床に頭を擦り付けることであった。完全なる土下座である。
――そうして、冒頭の土下座へと至るのだった。
「本当にすいませんでした!我儘ばかりいって……!」
「謝るくらいならサクッと転生してください!」
「どうか、それだけは! 転生してまた人に利用されるくらいなら、ここで消滅させてください!」
恥も外聞も捨てて女神の足に縋り付く40代。
「ルール上、消滅はダメだって言ってるでしょう!」
頭を抱える女神。意地でも拒否する中年。
しばらくの言い合いののち、女神はこれみよがしなため息とともに、冷ややかな目で男を見下ろした。
「……はぁ。わかりました。それなら、妥協案を提示します」
女神は細い指を二本立てた。
「選択肢は二つ。一つ、記憶を残したまま、異世界で延々と毛を刈られ続ける羊になること」
「えっ」
「二つ、転生とは少し違いますが、これから私の身の回りの世話をする専属執事になること。さあ、どっちにします?」
男は脳をフル回転させる。おそらくこれ以上粘ると、問答無用で決まってしまう。
(羊……は毛刈られ放題の余生。執事……女神のパシリ生活。……あれ、これどっちも詰んでないか?)
一瞬、社畜時代に染みついた損得勘定が鎌首をもたげるが、結論はすでに出ていた。
「執事で! 執事でお願いします!」
羊として搾取され続ける恐怖に比べれば、執事など楽園に見えた。
男が答えると、女神は不敵に微笑んだ。
「契約成立ですね。……パチン」
女神が指を鳴らした瞬間。
周りの「純白の空間」が、砂のように崩れ去った。
そして、視界の先には――
足の踏み場もないほど散乱した書類、積み上げられたカップ麺の空き容器、脱ぎ捨てられた衣服。完璧なまでの超絶汚部屋だった。
「……こ、これは?」
男が言葉を失っていると、
「私の家の客間ですが? あなた達の流行に合わせて、幻覚を見せていたんですよ」
女神は一瞬でだらしない部屋着姿になり、ソファにドカッと横たわると、男を指さした。
「さあ18547番。まずはこの部屋の掃除と、美味しい紅茶の準備から始めてもらいましょうか。あ、それとこれ、一応1人一つ、チート能力を与えるのは義務だから」
スキル【女神の奴隷:女神の所有物として神威の代行・全ステータス極大補正:メモ:女神の命令には絶対服従】を獲得しました。
脳内に流れるシステム音声を聞きながら、男は頭を抱えた。
目の前の女神は再びだらしなくソファに寝転がり、掃除機をかけろと指図している。今はそれどころではない。
(……前職よりブラックな気がするんだが!?)
こうして、中年社畜の「第二の異世界(?)生活」が幕を開けるのだった。




