第11話:残業は、なしです
イノシシの姿に、一瞬呆気にとられたものの、男は、即座に頭を切り替える。目の前の光景を頭の中で整理し、冷静さを取り戻していく感覚があった。
(確か、【拡大解釈】の暴走により、理性を失っているんだったな。)
女神との鍛錬を思い出し、イノシシの前に移動し、次々とスキルを繰り出す。
【女神の奴隷:新人クラッシュ】
イノシシは出鼻を挫かれたかのように、後方に吹き飛ばされる。土煙を巻き上げながら地面をえぐり、それでも太い前脚を突っ張り、起き上がろうともがいた。
【女神の奴隷:圧迫面接:効果:対象を、一時緊張状態にする。:メモ:どうしてわざわざ、圧をかけるのか、謎】
イノシシの巨体が、びくりと硬直する。血走った目に、一瞬だけ怯えの色が走った。
【女神の奴隷:行動速度2倍】+【女神の奴隷:エンタークラッシュ】
動きを止めたイノシシを追撃しようとした、その瞬間――ほんの一瞬、男の動きが鈍くなる。
(――やはり、女神の予想通りだったか。他にも『何か』がいるな)
その隙に、イノシシは【巨大化】による皮膚の膨張で傷をふさいだ。裂けていたはずの肉が、ぶくりと盛り上がり、みるみるうちに塞がっていく。
――これは、少々面倒だな。
男は、乾いた息を吐いた。そう思い、再度スキルを発動しようとすると、イノシシが、突然、叫びだした。
「痛ぇよ!!てか、ここどこだよ!俺様はこの世界の主人公だぞ!!」
男の手が、思わず止まる。
「え? ……理性を失っていたのでは……?」
眉根を寄せ、警戒を解かないまま、男は一歩後ずさった。
「ああ!?なんだお前は?俺様を崇めていた豚どもは、どこだよ。おかしいな、豚小屋でくせぇ飯食ってたところから、記憶がねぇな」
「てか、お前のそのシャツ!!あぁ、思い出してきた!俺をこの世界に送り込んだクソ女神じゃねえか!なんだ、お前も落とされたのか。マジウケるぜ」
下品な笑い声が、洞穴のように響いた。
男は、警戒を緩めないまま、静かにスキルを発動する。
【女神の奴隷:人間観察:効果:敵の状態を瞬時に理解:上司・部下の機嫌は気にしてあげましょう】
視界の端に、淡い文字列が浮かび上がる。
『イノシシ(18546番):周囲の豚が消えたことで、【拡大解釈】の効果が減少。それに伴い、理性を取り戻した。他者による【精神操作】を検知。本来失われていたはずの記憶は、この【精神操作】によって人為的に呼び覚まされたものと推測される』
男は、その文面を読み、小さく息を呑んだ。
(これはさすがに想定外だな。討伐の予定だったが、これなら話し合いで解決できそうだ)
強張っていた肩から、少しだけ力が抜ける。男は、意識して穏やかな声色を選びながら、イノシシに言葉を掛けようとした。
「あぁ、そうだ!『あいつ』が言ってたな。いつか、女神の手下が俺の世界を乗っ取りに来ると。ちっ、めんどくせぇが、返り討ちにすれば、報酬はハーレムだし、これを使うか」
イノシシの目つきが、一変した。品定めするような、下卑た笑みが口元に浮かぶ。そう言って、イノシシは、毛皮から取り出した赤い飴を、躊躇なく口に放り込んだ。
「うぉぉぉぉ!きたぜ、きたぜ!これで俺は最強TUEEEEEEだ!!いつか、世界を渡り、俺を馬鹿にしていた奴らも見返してやるぜ!!!」
咆哮とともに、メリメリと骨が軋む不快な音が響き、筋肉が不自然なほど膨張していく。毛皮の隙間から溢れ出す黒赤色のオーラが、周囲の草木を瞬時に枯らしていった。再び理性を失ったかのように、血走った瞳から光が消え、イノシシの姿は禍々しい魔獣へと変化していった。
男は、掛けようとした言葉を飲み込んだ。
――話し合いは、なしか。
男が冷静に現状を把握しようとしていると、イノシシは理性を失ったかのように叫びだした。
「どいつもこいつも、俺様を馬鹿にしやがって!!おれは大企業の社長の息子なんだぞ!!何が俺のせいで会社に損失が生じただ!!知らねぇよ!こちとら生まれてきた時から、勝ち組なんだよ!!そんな中小企業なんか知らねぇよ!!勝手に潰れとけ!!そもそも、こういう風に育てたのは、お前らだろ!!あぁ、早くハーレムで可愛い女の子たちとピーしたいぜ」
あまりにも身勝手で、我がままな戯言に対し……
男は、今日の夕飯の作り置きを忘れてたけど、さすがに帰ってから作るのは勘弁してほしいなぁと考えていた。
――悲しいことに、上司からの理不尽な説教で、男は耐性がついていた。
「あ、終わりました?残業は嫌なので、早く済ませましょう」
「あぁ!?そうだ、まずはお前から潰してやるぜ!!そのあとは、あのクソ女神もだ。よくもこんな世界に落としやがって!!女神だか何だか知らねぇが、ボロボロにして土下座させてやるぜ」
――男は、その言葉を聞いて……とても久々にイラッとした。
たとえ、重要な打合わせに合わせたかのように、年休を取得する上司がいても。部下が退職代行で急に飛んでも、困った笑顔で尻拭いをした彼は――
――無駄一つ無く、定時直帰のために戦うことを決めた。




