第10話:名刺交換は、不要です
なんとか、シュリの誤解を解いていると、豚車がゆっくりと止まり、前方から野太い声が聞こえてきた。
「奴隷の旦那!そろそろ村が見えてくるぜ!」
親分豚が、こちらを振り返りながら鼻を鳴らす。
「見えてくるでやんす!このまま進むでやんすか?」
隣に座る子分豚も、興奮気味に耳をぴくぴくと動かした。
シュリはこちらに視線を投げてきた。その目には、まだ拭いきれない不安の色が残っている。男は小さく頷き返すと、努めて落ち着いた声で答えた。
「ありがとうございます。あまり近づきすぎると、皆さんにも危害が及ぶかもしれないので、ここまでで大丈夫です」
「な、なんてお優しい。偽物のあのイノシシとは大違いです」
シュリは胸の前で両手を組み、瞳を潤ませながら男を見上げた。男は苦笑いをしながら、シュリとともに豚車を降りる。冷たい風が頬を撫で、遠くに見える村の輪郭が、心なしか歪んで見えた。
「あちらに見えるのが、占領されてしまった村になります」
彼女が指差した先を、男は目を細めて見つめた。
「承知しました。皆さんは、安全な場所に隠れていてください。子分の方々は洗脳を解いたら、こちらに誘導しますので、彼らのフォローをお願いします」
「分かりました。私たちは、ここで祈ることしかできず、申し訳ありません……」
シュリは俯き、豚車の縁をぎゅっと握りしめた。
「そんなことありません。皆さんが協力してくれたからこそ、体力も温存できました。後は任せてください」
男は、意識して明るくそう言うと、軽く拳を握ってみせた。
親分豚は、前脚をばたつかせながら叫ぶ。
「奴隷の旦那!どうか、仲間たちをよろしく頼む!」
「お願いしますでやんす!皆を正気に戻してあげてくれでやんす!」
子分豚も、鼻先を地面すれすれまで下げて頭を垂れた。
「もちろんです。そのために来たのですから」
「かたじけねぇ!」
「ありがとうでやんす!」
シュリは両手を組んだまま、深々と頭を下げた。
「ご武運をお祈りしております」
「あぁ、旦那!それと移動中に聞こえてきたんだが……俺も叩かれるのは好きだぜ!」
親分豚が、照れくさそうに鼻を鳴らしながら付け加える。
「おいらもでやんす!恥じることはないでやんす!」
子分豚も、力強く頷いた。
――男は、後ろから刺されたような気分になった。
肩を落とし、天を仰ぐ。振り返れば、シュリは顔を赤らめながら、「やっぱりそうなのですね」と呟いていた。
「……そうですね。もうそれで大丈夫です。では、行ってきます」
そう言い残し、男は、スキルを発動する。
【女神の奴隷:抜き打ち監査:効果:本人が解除するまで、隠密状態になる。:メモ:事前連絡なしに来るけど、慌てずに】
男は、村の入り口まで容易に侵入し、物陰から中の様子を観察する。
シュリに聞いていたように、数十匹の豚たちが堕落したように寝転がっている。ぬかるんだ地面に汚れた身体を横たえ、時折思い出したように弱々しく鳴くだけで、まるで生気が抜け落ちたようだった。イノシシの姿は見えないが、村の奥にそびえる大きな建屋――あそこにいるのだろうと、男は目を細めて推測する。
【女神の奴隷:抜き打ち監査】、解除。
視界がわずかに揺らぎ、隠密状態が解ける感覚が背筋を伝う。男は小さく息を吐くと、範囲を絞り、新たなスキルを発動した。
【女神の奴隷:緊急会議:効果:どんな状態でも、指定した場所に強制的に集められる。:メモ:急な会議は困ります】
次の瞬間、地面に転がっていた数十頭の豚たちが、弾かれたように飛び起きた。土煙を上げながら列を成し、あっという間に男の前に整列する。あまりの速さに、男は思わず一歩後ずさった。
しかし――何かがおかしい。
豚たちの目は、一様に濁っていた。理性の色などどこにもなく、涎を垂らしながら、今にでもこちらに襲い掛からんばかりの気配を漂わせている。低い唸り声が、地面を伝って男の足元まで響いてきた。
男は、背筋に冷たいものが走るのを感じ、すぐに新たなスキルを発動する。
【女神の奴隷:産業医面談:効果:状態異常解除。:メモ:本当にやばくなる前に、産業医に相談しよう】
淡い光が、豚たちの身体を包み込んだ。濁っていた瞳に、ゆっくりと光が戻っていく。豚たちは、あっという間に理性を取り戻したが、状況が分からず、烏合の衆もとい豚合の衆のように「ブヒィ……ブヒィ」と不安げに周囲をきょろきょろと見渡している。
ざわめきが、次第に大きくなっていく。このままではイノシシに気づかれる――男はそう判断し、すぐにスキルを行使した。
【女神の奴隷:理不尽な要求】
「こんにちは、皆さん。私は、女神様の指示のもと、イノシシを討伐しに来ました。イノシシの居場所を共有するとともに、すぐに、あちらに移動してください。シュリさんたちが待機してくれています」
「ブヒィ!イノシシは、あそこに見える、村の奥の大きな家にいます!私たちは、ただちにあちらに移動します!」
先頭の一頭が、弾かれたように答えると、豚たちは一斉に、男が指さした方向へと駆け出していった。土煙が舞い上がり、その後ろ姿を見送りながら、男はようやく肩の力を抜いた。
轟音とともに、木材と土壁が四方に弾け飛んだ。
男は咄嗟に腕で顔を庇う。土埃が晴れると、そこには――
ヴィーナスちゃんねるの画面越しに見た、あの巨体があった。
体高は優に三メートルを超え、肩の筋肉は鎧のように隆起している。牙は人の腕ほどの太さで、黄ばんだ先端が夕日を鈍く反射していた。全身を覆う剛毛の隙間からは、脈打つ赤い筋が幾重にも走っている。
画面越しに見たときは正直、ゲームのCGか何かだと思っていた。だが、目の前にあるそれは、確かな質量と、肌を刺すような圧を伴っていた。
――【拡大解釈】か。
トト氏の解説が、男の脳裏に蘇る。仲間の思いが一つになることで発動するはずのそのスキルが、負の感情の伝播によって暴走した結果が、これだ。
イノシシは、血走った小さな目を男に向けると、地面を蹄で二度、三度と掻いた。それだけで、大地が震え、周囲の砂利がぱらぱらと跳ねる。配信で見た時と、同じ仕草だった。
「ブ、ブモォォォオオオオオ!!」
咆哮が空気を裂き、男は思わず耳を塞いだ。画面越しでは分からなかった、肌にまとわりつくような重低音。単なる獣の叫びではない。そこには、怒りとも、悲鳴とも取れる歪んだ感情が滲んでいた。
男は、乾いた唇を舐めた。
――配信で見るのと、目の前にいるのとでは、こんなにも違うのか。




