第48話 徳川綾
天音は庵を後にし、山道を一人歩く。
背後に気配はない。
兵たちも一定の距離までは見送ったが、それ以上は追ってこなかった。
「少し、やり過ぎましたかね。」
秀吉の顔を思い出す。
あれは完全に固まっていた。
流石に少し脅かし過ぎたかもしれない。
「……まあ、いいでしょう。」
あのくらいでちょうどいい。
人は一度恐怖を知ると、二度目は慎重になる。
こちらとしても、その方が都合が良い。
話術。
交渉。
人を追い詰める方法。
そういったものを教えてくれた人がいる。
少年院時代の担当カウンセラー。
撃鉄教、第一の信者。
あの人が今の私を見たら、何と言うか。
協会との初回戦闘において死んだ、彼。
『いいえ、まだ責め足りませんね。』
『相手が自分から全部話したくなるくらい、ぎりぎりまで追い込みましょう。』
思わず笑ってしまう。
「言いそうですね。」
苦笑が漏れる。
死人になってまで説教してきそうだ。
山道を歩きながら空を見上げる。
信長。
概ね予想通り。
未来を知ったところで、それに振り回される男ではない。
利用できるものは利用する。
あの姿勢は、きっと最後まで変わらない。
秀吉。
こちらも概ね想定通り。
頭の回転は速い。
人を見る目もある。
そして人並みに恐れ、人並みに愚か。
邪悪とは言わないが、放っておけば何かしらの陰謀に巻き込まれかねない。
だからこそ、こちらも一度釘を刺しておく必要があった。
さて。
問題は。
「徳川家康……。」
独り言が漏れる。
この時代の彼はまだ三河の一大名。
信長の同盟者。
それだけだ。
しかし最後に全てを手にしたのは彼だった。
その男は今何をしているのか。
未来は既に変わり始めている。
今の徳川家康はどんな一手を打つのだろうか。
その答えだけは分からなかった。
「……魔法少女、いたらどうしましょう。まぁ考えても無駄ですねこれは。」
◆
浜松城。
三河・遠江を治める徳川家の本拠にて、徳川家康は縁側へ腰を下ろし、家臣からの報告へ静かに耳を傾けていた。
「織田勢は浅井・朝倉の両家を降し、中部一帯をほぼ掌握したとのこと。」
家臣が深く頭を下げる。
家康はしばらく黙ったまま庭を眺めていた。
やがて静かに口を開く。
「……早い。浅井が降るだけでも予想外であったが。朝倉までこれほど早くとは。」
膝の上で指を組み、ゆっくり思考を巡らせる。
織田信長。
尾張一国の大名であった男は、今や美濃を押さえ、近江を平定し、さらに越前へ手 を伸ばした。
反織田の旗印は急速に失われつつある。
徳川と織田は同盟を結ぶ間柄。
本来ならば喜ぶべき報せである。
同盟相手が強くなれば、その恩恵は三河にも及ぶ。
武田への大きな牽制にもなる。
だが。
あまりにも早すぎた。
比叡山は戦わずして開山し。
浅井は降伏し。
朝倉もまた降るという。
反織田の旗印は、まるで初めから存在しなかったかのように消え去ろうとしている。
「何かが。」
家康は小さく呟く。
「信長殿のもとで起きておる。」
家臣も重々しく頷いた。
「まことに。加えて近頃は、奇妙な噂も絶えませぬ。」
「噂、か。」
曰く。比叡山を落としたのは、人ならぬ土人形の軍勢であったと。
土より生まれ、一人の僧も殺さず山門を制圧したと。
その土人形は朝倉領にも現れ、朝倉義景はそれを恐れて降伏したと。
曰く。浅井領近くの城、横山城が突如何の前触れもなく倒壊したと。
曰く。岐阜城下に黒き巨人が出現し大地を砕き森を抉ったと。
そして、それを討ったのは白銀の大剣を構えた英雄であると。
家臣は苦笑した。
「いずれも真偽は定かではございませぬ。戦場の噂は尾ひれが付きますれば。」
「うむ。」
家康も頷く。
人は理解できぬものを見ると、大袈裟に語る。戦場ならなおさらだ。
しかし。
比叡山。
岐阜。
朝倉。
別々の場所で、それぞれ似たような噂が立つ。
全てを笑い飛ばすには、あまりにも出来過ぎていた。
「何かが織田に起きておる。」
家康は独り言のように呟く。
その正体までは分からない。
だが、警戒だけは怠れぬ。
同盟は永世のものではない。
家康はそこで話を切り、庭へ視線を移した。
縁側のすぐ先。
庭の一角では、徳川四天王が一人である本多忠勝が木の薙刀を構えている。
その向かいには、一人の少女。
橙色の鱗が首筋や腕に淡く煌めく、不思議な娘だった。
◆
二か月前。
突如現れた巨大な卵。
その中から生まれた赤子。
家康は、その鱗が綾織の絹のように美しく光ることから、『綾』と名付けた。
徳川綾。
それが今では、見た目だけなら十ほどの少女へと成長している。
生まれてからたったの二月であるにも関わらず。
しかも、その成長はなお止まらない。
ふと先日の女中の困り顔を思い出し、家康は苦笑した。
『殿……。綾様のお着物、仕立て直しても仕立て直しても、すぐに小さくなってしまいます……。』
今朝もまた、新しい着物が出来上がったばかりである。
◆
庭では忠勝が踏み込んだ。
鋭い一歩。
木の薙刀が風を切る。
綾も即座に応じるが、忠勝は一瞬速い。
打ち込みをいなし、返す柄で綾の肩を軽く叩いた。
「一本。」
忠勝が静かに告げる。
綾は悔しそうに眉を寄せたが、すぐ姿勢を正した。
木の薙刀を納める。
「ありがとうございました。」
深く礼をする。
忠勝も礼を返した。
「見違えるほど上達されました。されど、まだ力みに頼る癖がございます。」
「はい。次は気を付けます。」
忠勝の額には汗が滲んでいた。
相手はまだ幼い少女。
それでもこれほど汗を流していること自体、この稽古が決して遊びではないことを物語っていた。
家康は縁側から穏やかに声を掛ける。
「綾。」
その一言だけで。
綾の表情がぱっと花開いた。
「父上!」
木の薙刀を抱えたまま、嬉しそうに家康のもとへ駆け出した。
その声に、家康の表情が自然と緩む。
「励んでおるようだな。」
「はい!」
そう言って忠勝を見る。
「本多殿は厳しゅうございますが、とても分かりやすく教えてくださいます。」
忠勝は腕を組み、静かに頷いた。
「覚えが早うございます。教えたことを二度と違えませぬ。」
綾は照れたように笑う。
「父上のお役に立ちとうございますゆえ。」
家康はその頭へそっと手を置いた。
「そう急ぐこともあるまい。まだ子なのだからな。」
「ですが。」
綾は少し唇を尖らせる。
「早う強くなれば、父上をお守りできます。」
その言葉に、家康は苦笑した。
この娘は。
二月前まで赤子だった。
それが今では十ほどの童女ほどに育ち、槍や薙刀を振るっている。
生まれも育ちも分からぬ。
人ならざる鱗を持つ娘。
それでも。
父と呼ばれることに、いつしか違和感はなくなっていた。
家には妻がおり、信康がおる。幼い亀姫も健やかに育っている。
その家族へ、不思議な娘が一人増えた。
本来なら受け入れ難い出来事であったはずだ。
しかし誰も綾を疎まず、我が子のように接している。
彼女の天真爛漫さをもってすれば。
体の鱗や成長の早さなどは大した問題では無かった。
その時、廊下の向こうから足音が近付いてくる。
「殿。」
正室・瀬名が穏やかな笑みを浮かべていた。
「お食事の支度が整いました。綾も一緒に参りましょう。」
綾は嬉しそうに振り返る。
「はい!」
だが、すぐ家康の袖を掴んだ。
「父上もご一緒に。」
家康は優しく首を横に振る。
「儂は忠勝と話がある。先に行っておれ。」
綾は少しだけ名残惜しそうに家康を見上げた。
「……はい。」
それでも、それ以上は駄々をこねない。
一礼すると瀬名のもとへ駆け寄り、そのまま二人で屋敷の奥へ歩いていった。
その姿を見届けてから、家康は忠勝へ向き直る。
「忠勝。綾の腕前、どう見る。」
忠勝は即答しなかった。
「正直に申し上げます。もう一年、ともすればそれよりも早いうちに。」
庭を見つめ、しばらく考えてから静かに答える。
「もう某では勝てませぬ。」
家康は眉を動かした。
「そこまでか。」
「技を覚える早さ。身体の使い方。そして何より膂力が日に日に増しております。」
忠勝は自らの手を見る。
「先日までは受け止められた打ち込みが。今では腕に痺れが残ります。
このまま育てば。武芸だけで申せば、誰も敵いませぬ。」
家康は静かに息を吐いた。
「……やはり。龍の子、であるか。」
忠勝は答えなかった。
家康も、それ以上は問わない。
近頃、織田から聞こえてくる噂が脳裏をよぎる。
比叡山を歩いたという土人形の軍勢。
戦場を蹂躙したという黒の巨人。
白銀の剣士。
かつての己ならば一笑に付したであろう。
だが。
己の目の前には、卵から生まれ、二月でここまで育った少女がいる。
ならば。世に人知の及ばぬものが他にもあったとしても。
あながち、荒唐無稽とは言い切れなかった。
◆
家康はしばらく庭を眺めたまま考え込んでいた。
やがて、小さく笑う。
「……いや。そうか。」
忠勝が顔を上げる。
「殿?」
「考えてみれば、回りくどいことをする必要もない。信長殿に聞けばよいのだ。」
家康は静かに立ち上がった。
「我らは同盟の間柄。少なくとも、邪険には扱われまい。」
もし正直に話すなら、それでよし。
仮にとぼけられるのであれば、それもまた答えである。
何か隠す理由がある。そう見て策を練ればよい。
忠勝も納得したように頷く。
「確かに。」
「それに。」
家康は庭の向こう、綾が去っていった方角へ目を向けた。
「こちらにも切れる札はある。」
「札……にございますか。」
「綾よ。」
あの少女を見せれば。
信長は。
あるいは、噂の根幹を知る者は。
誰かしらが何らかの反応を示すはずだ。
卵から生まれ。
二月で十ほどまで育ち。
なお成長を続ける龍のような娘。
これほどの異常を目の当たりにしてなお、平然としていられる者がいるならば。
それは既に、同じような異常を知る者だけである。
家康は静かに頷いた。
「忠勝。」
「はっ。」
「尾張へ向かう仕度を。名目は、中部平定の祝賀とでもしよう。」
忠勝は一瞬だけ目を細める。
「信長殿に、お会いになりますか。」
「織田が何を知り、何を隠しているのか。この目で見極める。」
家康は迷いなく答えた。
「綾も連れてゆく。信長殿がどう出るか。それを見れば、おのずと答えも見えてこよう。」
忠勝は深く一礼した。
「御意。」
初冬の冷えた風が庭木を揺らし、縁側へ枯れ葉を一枚運んできた。
中部を平定した織田。
龍の娘を抱く徳川。
同盟を結ぶ二家は、互いにまだ知らぬ異質を胸に秘めたまま、ほどなく再び相まみえようとしていた。
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徳川家康来訪を前に、岐阜城下は祝賀の支度で賑わいを見せる。町を歩く勝家とエリ、城内で供え物のように贈り物を受け取るククリ。穏やかな空気の裏で、信長は同盟相手へ何を見せようとしているのか。一方、徳川の一行もまた、異形の少女・綾を連れて岐阜へ向かっていた。
次回「家康が来る!」
出会うべき者たちが、同じ場所へ集い始める。
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