第47話 秀虐
岐阜城下から少し離れた林の中に、小さな庵が建てられていた。
粗末な造りではあるが、内には四畳半ほどの茶室が設けられ、竹を渡る風の音だけが静かに響いている。
庵の周囲には、織田の兵が一定の距離を置いて警護に当たっていた。
秀吉は柄杓で湯を汲み、静かに茶碗へと湯を注ぐ。
湯気が立ち上り、茶筅が規則正しく音を立てる。
目の前では桐原天音が少しだけ背筋を伸ばして座っていた。
「何か粗相がありましたら申し訳ありません。」
そう言って頭を下げる。
「茶の作法については、あまり詳しくありませんので。」
秀吉は穏やかに微笑んだ。
「いえ、とんでもございませぬ。初めてと仰る割には落ち着いておられる。十分に結構なお手前にございます。」
「それなら安心しました。」
天音は茶碗を受け取り、教わった通り静かに回して口を付ける。
しばらく二人は何も話さなかった。
庵の外で風に揺れる竹の葉擦れだけが耳に届く。
やがて天音が茶碗を置き、小さく笑う。
「それで本日は、どういったご用件でしょう。まさか茶の湯をご指導くださるためだけに、このような場を設けていただいた訳ではありませんよね。」
図星だった。
秀吉も苦笑し、茶碗を置く。
「隠しても仕方ありませぬな。一つ、お聞きしたいことがございます。」
「何なりと。」
秀吉は言葉を慎重に選んだ。
未来。
その一語を口にするべきか、一瞬迷う。
だが結局、それには触れず話し始めた。
「以前、あのサキという娘が。『信長、秀吉、家康』と申しました。」
天音の眉が僅かに動く。
「その後、ククリ殿にも尋ねたのですが……何か、ご存じではありませぬか。」
天音はすぐには答えなかった。
少し視線を落とし、何かを考えるように指先で茶碗の縁をなぞる。
「……ちなみに。ククリさんは何と?」
「いや。何も知らぬ、と。」
秀吉が答えると、天音は思わず吹き出した。
「ふふっ。嘘ですね。」
「え?」
「いかにも、私たちは未来から来ました。」
秀吉の手が止まる。
「……。」
茶室の空気が、一瞬で変わった。
「み、未来……で、御座いますか……」
天音は困ったように笑う。
「ククリさんのことですから。どうせ『未来では有名だよ』くらいは口走ったのでしょう。その後、『天音なら詳しいよ』とも言いませんでしたか。」
秀吉はしばらく口を開けたまま固まっていた。
やがて力なく頷く。
「……おっしゃる通り。」
「やっぱり。あの子、本当に考えなしなんですよね。」
天音は額に手を当て、小さくため息をついた。
「一応。未来についての話は他言無用、と信長様、長秀様、それに勝家様がお決めになっています。ですから、本来ならあまり話さない方がいいのでしょう。」
そこで肩をすくめる。
「まあ私たちには特に口止めはされていませんので。話しても構わないのですが。」
秀吉は思わず身を乗り出した。
「ほ、本当ですかな!?」
天音は茶碗を静かに置き、秀吉の目を真っ直ぐ見つめる。
「では。取り敢えず一つ。未来の事をお教えしましょう。」
天音は一度茶を口に含み、静かに息を吐いた。
「まず前提のお話から。」
先ほどまでの柔らかな笑みは残っている。
だが、その奥にある空気が少しずつ変わっていく。
秀吉は自然と居住まいを正した。
「まぁ、お分かりかと思いますが。未来においての価値観と、この時代においての価値観は異なります。」
秀吉は少し首を傾げる。
「は、はぁ。」
話の向きが、先ほどまでとは違う。
未来の出来事を聞けるものと思っていたが、天音はまず価値観の話を始めた。
「未来では。『男性と女性は立場として対等である。』少なくとも、そのような社会を目指しています。」
「もちろん実際には様々な障壁がありますし、気質の違いも、身体能力の違いもあります。本当に同等かと問われれば、私も疑問はあります。」
天音は肩をすくめた。
「ですが。少なくとも、そういう教育を受けます。いえ、教育というより……そういう空気の中で育ちます。」
秀吉は黙って耳を傾ける。
「ですから私としても、この時代との価値観の擦り合わせというのは、なかなか難しい。未来と過去。どちらが正しいという話ではありません。」
茶室には静寂だけが満ちていた。
「その上で、一つだけ。」
天音は秀吉を見据える。
「女性というものは。特に親しくもない男性から、一対一の空間へ誘われた場合、
まず確実に警戒します。」
秀吉は僅かに眉を動かした。
そこで初めて。
何かがおかしいと気付く。
天音は穏やかに話している。
しかし、その穏やかさが逆に冷たい。
「この時代における女性は。まぁ、言ってしまえば道具というか。」
「身分が高ければ外交の道具。低ければ、機嫌一つで命を落とすことも珍しくありません。」
天音の口調は変わらない。
「それについて是非を論じるつもりはありません。それが時代。それが文化です。『未来と比べて過去は劣っている』などと言う気はありません。」
一拍置く。
「ありませんが。」
その声色だけが、静かに変わった。
「こうも思ってしまうのですよね。」
秀吉は無意識に背筋を伸ばす。
「茶室の周囲に配置された警護の兵。……いささか多いのではないか。」
秀吉の表情が僅かに強張る。
「いざとなれば。無理矢理にでも口を割らせるつもりなのではないか。」
口の中が急速に渇いていく。
「どうせ女なのだから。どんな異能を持っていようが、恫喝すれば従うと思っているのではないか。」
秀吉は何かを言おうとした。
だが、言葉が出ない。
「そして。」
天音は静かに続ける。
「そんなことに気が回るほど女という生き物は賢くない。」
その目に、秀吉の汗まみれの顔が映っていた。
「……そう思っているのではないか。」
茶碗を置く音だけが、小さく響いた。
次の瞬間。
天音の袖口から黒い鉄塊が滑るように現れる。
短く切り詰められた二連の銃身。
それは迷いなく秀吉の胸元へ向けられた。
天音の表情は、先ほどまでと何一つ変わらない。
静かな笑みを浮かべたまま。
◆
桐原天音は、決して善人ではない。
十六歳とは思えぬ話術で人心を掌握し。
ネットや情報網を巧みに利用して教義を広め。
三万を超える一般市民へ異能を授けテロを起こした。
『自殺は悪』はともかく。
『殺意は己ではなく相手へ向けよ』
『自分のために相手を殺せ』
そんな思想を説く者が、善人であるはずもない。
撃鉄教教祖、桐原天音。
彼女は決して善人ではない。
◆
「二連銃身散弾銃、というものです。」
天音は秀吉へ銃口を向けたまま、穏やかな口調を崩さない。
「こちらの銃は、火縄銃とは少々異なります。目的は『至近距離における破壊』です。」
秀吉は視線を逸らせない。
黒い鉄の塊。
短く切り詰められた二つの銃身。
その異様さだけで、これが火縄銃とは別物であることだけは理解できた。
「撃ち出されるのは、一つの弾ではありません。細かな弾丸を幾つも詰め込み、それが一気に散らばります。」
「広く散らばり、面で破壊する。そういう武器です。」
天音は少しだけ銃身を傾ける。
「もっとも。この距離では本来の使い方とは言えませんね。」
そして、まるで天気の話でもするように微笑んだ。
銃口を秀吉の顔に向けて。
「あなたの頭を粉々にするくらいでしたら、簡単ですが。」
秀吉の背を冷たい汗が伝う。
恐ろしい。
だが、それだけではない。
この少女は。
人を脅すことに慣れている。
相手が最も恐怖を覚える言葉を、迷いなく選んでいる。
その話術に。
その胆力に。
秀吉は畏怖すら覚え始めていた。
実際のところ。
秀吉に天音の口を割らせようという考えはなかった。
未来の知識は欲しい。
しかし、それを力ずくで奪う発想までは至っていない。
そんな秀吉の心中を見透かしたように、天音は小さく肩をすくめた。
「ええ。私の被害妄想かもしれません。ですが。多分、深層心理では当たっています。」
秀吉は息を呑む。
「確かに私は、あなたの未来を知っています。」
秀吉の鼓動が一つ、大きく鳴った。
「あなたが、本来ならこの先、何をするのか、何をしでかすのかも知っています。」
だが天音は、それ以上は語らない。
未来の秀吉。
天下人となった男。
その栄光も。
その非道も。
今ここで口にするつもりはなかった。
やがて天音は、ふっと表情を和らげる。
「取り敢えず何が言いたかったのかと言いますと。」
「あの時はククリさんの活躍がとんでもなかったせいで、私の印象は薄れていると思うんですよ。」
そのまま銃口は下げない。
「ですが。私も、少々強いので。」
その銃口は、秀吉の顔を見つめていた。
「”甘く見るな”。言いたかったのは、それだけです。」
秀吉は何も返せなかった。
言葉が出ない。
ただ、天音を見つめることしかできない。
天音はようやく銃を袖へしまい込み、静かに立ち上がる。
まるで最初から何事もなかったかのように衣を整え、一礼した。
「お茶、ありがとうございました。いつか私もお誘いしますので、その時はよろしくお願いしますね。」
そう言い残し、障子を開ける。
外で控えていた兵たちは何事もなかったように道を開けた。
当然だ。特に大きな音が立ったわけでもない。
ただ穏やかに談笑していた、そうとしか思わない。
足音が遠ざかる。
一歩。
また一歩。
やがて林の風音だけが残った。
秀吉は、その足音が完全に聞こえなくなるまで。微動だにできなかった。
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秀吉へ釘を刺した天音は、最後の天下人・徳川家康の動向へと思考を巡らせる。その頃、家康もまた織田で続く不可解な出来事に違和感を抱き始めていた。そして徳川家には、急速な成長を遂げる謎の少女、綾。互いに切り札を秘めた両者が、ついに動き出す。
次回「徳川綾」
異常は異常を引き寄せ、歴史は新たな局面へ。
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