第45話 信長と秀吉
長秀とククリが部屋を後にし、襖が静かに閉じられる。
しばらく沈黙が流れた。
信長は湯呑を手に取り、一口含む。
秀吉はその様子を窺っていたが、やがて静かに口を開いた。
「殿。浅井と朝倉の処遇、いかがなさるおつもりでございましょう。」
信長は少しも迷わない。
「命は取らぬ。」
「浅井長政は降伏を受け入れた以上、領地を召し上げたうえで蟄居とする。」
「朝倉も同様よ。従うならば生かす。」
秀吉は少し考えてから言葉を返した。
「それでは……些か甘うございませぬか。他国へ示しがつかぬ、と申す者もおりましょう。」
「甘い、か。」
信長は笑う。
「サル。浅井も朝倉も、誰が降した。」
「……ククリ殿、にございます。」
「そうよ。」
信長は湯呑を置く。
「ククリが命を奪わず降した者を、俺が腹を切らせてどうする。それこそ示しがつかぬ。『信長へ降っても結局死ぬ』と思わせるだけだ。」
秀吉は頷いた。
理屈は分かる。
しかし、別の懸念もあった。
「もう一つ。気掛かりがございます。」
信長は先を促すように視線を向ける。
「近頃、兵も家臣も町の者も。ククリ殿をあまりに慕い過ぎております。ある程度は、それを従える殿への敬意にも繋がりましょう。」
秀吉は慎重に言葉を選んだ。
「しかし行き過ぎれば。『ククリ様こそ天下人に相応しい』などと言い出す不届き者が現れぬとも限りませぬ。」
信長は目を閉じ、小さく笑った。
「サルよ。貴様の言いたいことは分かる。」
静かに続ける。
「比叡山の折とは違う。あの時は奇跡として秘してもよかった。」
だが今は。
岐阜であの戦いを皆が見てしまった。
最早、神話の一部としてもおかしくないような。
「これほどの働きをした者を、今さら隠そうとすれば。『何か都合の悪いことでもあるのではないか』と疑われるだけよ。」
信長は不敵に笑う。
「ならば。逆に利用する。」
秀吉は目を見開く。
「利用……。」
「そうだ。堂々と表へ出す。戦わせる。」
信長の声には確信があった。
「あやつに『手柄を取られた』などと言う輩は最早おるまい。」
「手柄とは競うもの。」
「競う相手がおらぬほど抜きん出れば、人は妬まず畏れる。」
秀吉は思わず息を呑む。
そこまで考えていたか。
信長はさらに続けた。
「それに今頃、他国の密偵も必死に情報を集めておろう。隠す必要などない。」
「『織田には怪物がおる』とな。」
信長の目が細くなる。
「戦わずして降る者も出よう。それもまた兵法よ。」
そして。
少しだけ愉快そうに笑った。
「……仮に。他国にも他の『まほうしょうじょ』がおるならば。」
秀吉はハッと息を呑んだ。
「向こうも動かざるを得まい。引き摺り出せるやもしれぬ。」
秀吉はしばし言葉を失った。
敵を威圧するだけではない。
姿を見せること自体を餌にする。
信長らしい発想だった。
やがて深く頭を下げる。
「恐れ入りました。殿のお考え、ようやく腹に落ちました。」
信長は小さく鼻で笑った。
「サル。少々、頭が鈍ったのではないか。」
信長は湯呑を手に取り、秀吉を見据えた。
「この程度の考え、貴様なら既に思い至っておると思ったがな。」
秀吉が苦笑する。
「殿、それは手厳しゅうございますな。」
信長は肩を揺らした。
「あの鎖娘から受けた恐れが、未だ忘れられぬか。」
秀吉は少しだけ目を伏せる。
「……忘れたくとも忘れられませぬ。」
静かな声だった。
「わしは鎖で簀巻きにされ。荷物のように担がれ。横山城から放り出されました。」
その時の光景が蘇る。
「更にその横山城を一撃で打ち壊され。」
目の前では。
巨大な鎖が城へ叩き付けられる。
轟音。
土煙。
石垣が崩れ落ち。
櫓が傾き。
横山城が、まるで砂の城のように潰れていく。
人の力ではない。
災害だった。
「その後は岐阜まで案内させられ。少しでも時間を稼ごうと話を振り機嫌を損ねぬよう気を配り続けました。鎖に吊るされたまま。」
秀吉は肩を竦める。
「戦でもあれほど疲れたことはございませぬ。あのような体験は、こりごりにございます。」
信長はその顔を見つめる。
やがて。
「くっ。」
喉を震わせる。
「ふ、ふふ……。」
声を押し殺して笑い始めた。
「殿……拙者には笑い事では御座いませぬ。」
「くっくくく、すまんな。許せサル。」
笑いを堪えながら信長は言う。
「横山城の再建は、お前に任せる。」
秀吉は一瞬固まった。
城の普請。大仕事である。
「……は!謹んで努めます!」
「ククリの手を借りても良いぞ。」
その一言で、秀吉も思わず苦笑した。
「はっ。ありがたく、お借りいたします。」
深々と頭を下げる。
用件は終わった。
秀吉は静かに部屋を辞した。
襖が閉じる。
廊下を歩きながら、大きく息を吐いた。
「……全く。あの時はえらい目に遭ったものじゃ。」
その時。
不意に、一つの言葉が頭をよぎる。
『なんだっけな。ああ、信長秀吉家康だ。』
藤宮サキが、自分を見ながら口にした名。
「……。」
秀吉は立ち止まった。
「なぜ。わしが、あの並びにおるのだ?」
織田信長。
徳川家康。
その間に。
なぜ木下藤吉郎の名があった。
いくら考えても答えは出ない。
秀吉は首をひねりながら、そのまま廊下の奥へと歩いていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
横山城の再建はククリの人形たちによって驚くほど順調に進んでいた。礼を尽くす秀吉との語らいの中、何気なく口を滑らせたククリの一言が、秀吉の胸へ大きな波紋を広げる。未来とは何か。そして、サキが残した「信長・秀吉・家康」という不可解な名の並びに、ついに秀吉自身が迫り始める。
次回「ノブヒデヤス」
天下人の名は、未来から静かに届く。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




