第38話 インターミッション:勉強会
秋も深まり、川の水は澄み切っていた。
川辺には二人の少女。
桐原天音は草の上へ腰を下ろし、右手を軽く握ったり開いたりしていた。二か月前、藤宮サキとの戦いで潰された右手は、魔法少女特有の回復力によって今では元通りである。
一方、エリは靴を脱いで浅瀬へ入り、腰に差した刀を一本抜くと、何の躊躇もなく 川へ放り投げた。
刀は水面を滑るように進み、やがて水中へ沈む。
そのまま川底を泳ぐように動き始めた。
「……エリさん。」
「ん?」
「少し、お話に付き合っていただけますか。」
「いいよ。」
返事は短い。
視線は刀の動きを追ったままだ。
天音は苦笑した。
「私が把握している歴史と、今がどの程度乖離したか整理したいのです。」
エリは首を傾げる。
「いや、私、歴史なんて何も知らないけど。」
「構いません。軽く相槌でも打ってください。誰かに話すことで、自身の考えも整理できますから。」
「ふーん。」
エリは興味なさそうに頷いた。
「じゃあ適当に聞いとく。」
その瞬間、水中で刀が鋭く翻る。
銀色の魚が一匹、水面から跳ね上がった。
エリは空中で魚を掴み、岸へ放り投げる。
魚には目立った傷は無い。器用に刀の腹で打ち上げたのだ。
「一匹目。」
「お見事。」
「まぁ次は普通に取る。ネクストフィッシーング」
得意げに呟きながら、二本目の刀も川へ投げ入れた。
「普通、では無いですが。」
二振りの刀が水中を泳ぎ始める。
天音は川の流れを眺めながら、小さく息を吐いた。
「最初の転換点は、比叡山です。」
指先で小石を拾い、水面へ投げる。
石は二度、三度と跳ねて沈んだ。
エリは川から刀を引き上げる。
切っ先には魚が二匹串刺しになっていた。
「そんなに重要だったの?」
「重要どころではありません。」
天音は即答した。
「私の知る歴史では、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしています。」
「焼き討ち。」
「ええ。山そのものを焼き、僧だけでなく、女や子どもまで多数が犠牲になった、と伝えられています。」
エリは少し眉をひそめた。
「そんなことしたら、めちゃくちゃ嫌われそう。」
「実際、その通りです。」
天音は頷く。
「もちろん、当時の延暦寺にも武装した僧兵がおり、浅井・朝倉と結んで信長へ敵対していました。ですから戦略的な理由は理解できます。ですが。」
「ですが?」
「一般には『寺を焼いた』『女子供まで殺した』という印象だけが強く残る。」
天音は川面を見つめる。
「その結果、信長は"仏敵"あるいは"魔王"として語られるようになります。」
「へぇ。」
エリは魚を籠へ放り込みながら首を傾げた。
「じゃあ実際の信長って悪い人だったの?」
「そこが歴史の難しいところです。」
天音は苦笑した。
「勝者にも敗者にも都合があります。史料も書いた人間によって見方が変わる。だから私は善悪ではなく、『どう見られたか』を重視しています。」
「ふーん。」
エリは魚を捕まえながら相槌を打つ。
「で、今は?」
「今は全く違います。」
天音の声色が少し変わる。
「ククリさんが土人形軍を率いて比叡山を数時間で制圧しました。死者はゼロ。僧兵は拘束。女子供は保護。延暦寺が自ら火を放った時も、即座に消火。」
「めでたしめでたし?」
「歴史的には、とんでもない事件ですよ。」
天音は肩をすくめる。
「信長が背負うはずだった最大級の悪名が消えました。」
「つまり?」
「反織田勢力が掲げる大義名分の一つが失われた、ということです。」
エリはようやく少し興味を示した。
「それって戦争にそんな影響ある?」
「あります。」
天音は迷いなく答える。
「『信長は仏敵だ』『信長は女子供まで殺す暴君だ』という言葉は、人を動かす力があります。しかし現実には、比叡山は無血で制圧され、人々は保護された。」
少し間を置く。
「人は理屈だけでは戦いません。大義名分があって初めて、多くの者が命を懸けるんです。」
エリは「なるほどね」と呟き、再び刀を川へ放った。
天音は秋空を見上げ、小さく息をつく。
「つまり、この時点で私の知る歴史は、既に大きく別の道へ進み始めていました。」
エリは魚を籠へ放り込みながら、ふと思い出したように口を開いた。
「でもさ。なんか信長が天狗を従えてたとか、地獄の軍勢を率いてたとか、そんな噂流れてるんでしょ?」
天音は思わず小さく笑う。
「ええ、ククリさんの土人形軍団は、戦国の人々から見れば妖術そのものですから。実際、比叡山では山肌から何百、何千という土人形が現れたわけですし。地獄の軍勢というのも間違いでは無いですね。」
エリは肩をすくめる。
「まあ、普通の人にとっては意味わかんない。」
「でしょうね。」
天音は苦笑を浮かべたまま続ける。
「ですが、あまりにも突拍子もなさすぎる話ですから。」
「……?」
「人間というのは、不思議なもので。現実味がある恐怖は長く恨みますが、現実離れしすぎると畏怖へ変わります。」
「……どういうこと?」
「『信長が女子供を焼き殺した』なら憎悪になります。」
「ですが、『信長が地獄の軍勢を率いて比叡山を制圧した』となれば、人は『そういう存在なのだ』と受け入れてしまう。」
エリは少し考え、
「怖いは怖いけど、神様とか妖怪みたいな感じ?」
「ええ。」
天音は頷いた。
「そして何より重要なのは、実際に流れた血がほとんど無いことです。」
「僧も。女子供も。町人も。結果だけ見れば、多くの命が救われています。」
川のせせらぎだけがしばらく耳に残る。
天音は一度話を区切ると、小石を拾い上げた。
「比叡山の件が終わった時点で、反信長勢力には既に綻びが生まれていました。」
石を水面へ放る。
小石は三度跳ねて沈んだ。
「当時の信長包囲網は、浅井、朝倉、将軍足利義昭、そして宗教勢力。それぞれが『織田を止める』という一点だけで繋がっていた連合です。」
「仲良しだったわけじゃないんだ。」
「ええ。利害が一致していただけです。」
「だから、一つでも柱が揺らげば全体が不安定になる。」
「ふーん。」
天音は静かに頷いた。
「その包囲網に決定的な穴が開いたのが――」
一度言葉を切る。
「二か月前。」
「藤宮サキの襲来です。」
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焚き火を囲み、天音とエリの歴史勉強会は続く。藤宮サキの襲来が浅井家にもたらした決断、そしてその一手が戦国の勢力図をどう揺るがしたのか。反信長包囲網の実情や武将たちの思惑を、エリの率直な疑問を交えながら紐解いていく。
次回「インターミッション:勉強会そのに」
戦国の常識は、静かにその形を変えていく。
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