第37話 浅井長政、降伏す
秋風が小谷城の旗を揺らしていた。
広間では挙兵を目前に控えた軍議が続いている。
その最中、一人の使者が入室を許された。
「織田上総介信長公より書状にございます。」
広間がざわめく。
浅井長政は静かに書状を受け取り、その場で封を切った。
文面は短い。
『藤宮サキなる娘は討ち取った。無益な戦を望まぬならば降伏せよ。』
読み終えるや否や、家臣たちが一斉に声を荒げた。
「笑止!」
「そのような虚報、誰が信じましょうぞ。討ち取ったというなら首を示すべきです!」
「左様! あの怪物が負けるなど考えられぬ!」
長政は書状を静かに畳み、家臣たちを見渡した。
「皆、少し落ち着け。考えるべきは首があるかどうかではない。」
広間は水を打ったように静まり返る。
「まず確認する。サキ様……いや、藤宮サキという娘は、誰の命を聞いた。」
「……誰の命も。」
「その通りだ。あれを従わせることはできぬ。あの娘は己の気の赴くままに暴れる獣であった。」
長政はゆっくりと続ける。
「そして、その獣は織田へ向かった。これは事実だ。」
「ならば答えは二つしかない。一つは書状の通り討たれた場合。もう一つは討てずとも、生け捕りなり何なりで戦えぬ状態にされた場合だ。」
一人の家臣がなおも反論する。
「されど、この書状そのものが偽りということもございましょう。」
長政は首を横に振った。
「それもない。サキが勝ったのであれば、信長にこのような使者を送る余裕などあるはずがない。」
家臣たちは息を呑む。
「あの鎖から逃げられる者がおるか。」
誰も答えない。
「横山城を見たであろう。」
長政の声は静かだった。
「石垣は砕け、櫓は薙ぎ倒され、城そのものが鎖で引き裂かれておった。決して小さな城ではない。それをサキはたった一人で、兵の話が確かならば一瞬で破壊した。」
「そのサキが岐阜へ向かった。」
「もし勝ったのであれば、信長は既に死んでいる。さもなくば我らのようにサキの命に従う僕になっている。使者を立て、降伏を勧めるなどという余裕はない。あの娘は獲物を逃がすような甘い戦いはせぬ。」
長政は家臣たち一人ひとりへ視線を向けた。
「つまり織田は、サキを討ったか、少なくとも完全に無力化した。そして、もう一つ忘れてはならぬ。」
立ち上がり、広間の中央へ進む。
「横山城を一人で壊せる怪物だ。我らの小谷城も、その気になれば同じように瓦礫へ変えられていただろう。」
「その怪物を止めた者が織田にはいる。」
「討ったのであれ、封じたのであれ、結果は同じだ。」
「サキを上回る存在が織田にはいる。おそらく例のククリなる存在だろう。」
その結論に至るまでの筋道は、誰も崩せなかった。
長い沈黙が流れる。
やがて長政は静かに息を吐いた。
「我らが戦う相手は、もはや信長だけではない。勝ち目のない戦で家臣と領民を死なせることは、浅井当主として許されぬ。」
そこで再び大きく息を吸い、言葉を吐いた。
「……織田へ降る。」
誰も異を唱えなかった。
軍議を終えた長政は一人廊下を歩く。
色づき始めた庭木を眺めながら、小さく呟いた。
「義景殿……。申し訳ござらぬ。」
立ち止まり、空を見上げる。
朝倉義景。盟約により対信長同盟を組む盟友。
信長へ刃を向けると決め、共に歩むと誓ったにもかかわらず。
この浅井長政、ここで膝を折る。
「いや……」
長政は想起する。
『おい、誰だテメェら。ここどこだ。』
『はぁ?なんだなんだ映画の撮影かァ?」
『おっと、真剣じゃあねェか。だったらオレも出すぜ?』
『ハハハ、下らねぇなサムライども!オレの鎖の錆になりてェか!?』
あのサキという娘が小谷に来た晩に、私の心は折れていたのだ。
あのような存在を目にして、ただ恐怖のままに従って、どうして自身に将器があると思えようか。
こんな自分をまだ殿と呼んで慕う家臣の為にも。
「どうか、お許し願いたい。」
そのまま歩みを進め、お市の待つ部屋の前で足を止める。
襖を開けると、お市は静かに立ち上がった。
長政は何も飾らず、深く頭を下げる。
「……すまぬ、お市。」
「そなたにも、浅井にも、このような結末を迎えさせてしまった。」
秋風が庭の紅葉を揺らし、その音だけが静かに二人の間を流れていた。
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戦いから二か月。川辺で束の間の休息を過ごす天音とエリは、歴史について語り合う。天音は、自らの知る史実と現在の違いを整理しながら、信長を取り巻く情勢がどのように変化しているのかを解説する。
次回「インターミッション:勉強会」
過去を知る者だけが、歴史の分岐点に気づいている。
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