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十二月七日の朝が来た。


辻は眠っていなかった。


机の前に座ったまま夜を明かした。

書いた手紙は全部出した。

返事が来たものもある。

来なかったものもある。


頭の奥の声が言った。


*どうなったんや*


辻は答えなかった。


まだわからない。


服部からの連絡はまだ来ていない。


窓の外が白んでいく。


東京の朝が始まろうとしていた。





 * * *





服部が来たのは午前八時だった。


顔色を見ればわかった。


服部が椅子に座って言った。


「真珠湾は止まらなかった」


辻は答えなかった。


服部が続けた。


「ただし——」


少し間があった。


「海軍の男が一つだけ変えた」


「何を」


「攻撃目標から、病院船を外した」


辻が服部を見た。


服部が静かに言った。


「それだけだ。真珠湾は起きる。開戦は止められなかった」


長い沈黙が落ちた。


頭の奥の声が言った。


*止められへんかった*


辻は窓の外を見た。


青い空が広がっていた。


*全部、無駄やったか*


辻が静かに言った。


「違う」


*でも開戦は*


「開戦は起きる。でも——」


辻は服部を見た。


「全部終わったわけじゃない」


服部が少し目を細めた。


「何を考えている」


辻が言った。


「汪兆銘の糸は切れていない」





 * * *





開戦から三日後。


辻は上海にいた。


汪兆銘と向かい合っていた。


汪兆銘の顔に疲労が深く刻まれていた。


「日本は撃ちました」


静かな声だった。


「そうです」


「蒋との糸は——」


「切れましたか」


汪兆銘が少し間を置いた。


「切れていません」


辻が黙って待った。


「蒋は言っています。日本が撃ったことは許せない。でも——話し合いの窓は閉めない、と」


頭の奥の声が言った。


*閉めへんかった*


「なぜですか」


汪兆銘が静かに答えた。


「蒋も知っているからです。アメリカが本気で動いた後の世界が、どうなるかを」


辻が聞いた。


「ソ連のことですか」


汪兆銘が頷いた。


「ソ連が強くなりすぎれば、中国も飲まれる。蒋はそれを恐れている」


頭の奥の声が言った。


*蒋介石も同じ計算をしとったんや*


*敵の敵は味方やない*


*でも共通の恐怖はある*


辻が静かに言った。


「閣下、一つお願いがあります」


「なんでしょう」


「蒋閣下に伝えてください」


辻は言葉を選んだ。


「日本は長くは戦えない。でもアメリカと講和する条件を探している。その交渉の中に——中国の席を作れるかもしれない」


汪兆銘が辻を見た。


「あなたはそれを一人でやろうとしているのですか」


「一人ではありません」


「でも組織の命令でもない」


「そうです」


汪兆銘が静かに笑った。


苦い笑いではなかった。


少しだけ、温かい笑いだった。


「あなたは二十年前の私に似ている」


辻が聞いた。


「それは褒め言葉ですか」


「わかりません」


少し間があった。


「でも——私はその時、正しいことをしようとしていた」


辻は答えなかった。


汪兆銘が続けた。


「伝えます。蒋に」


「ありがとうございます」


「結果は保証できない」


「それでいい」


汪兆銘が辻を見た。


「あなたはいつもそう言いますね」


「それでいい、と」


「そうです」


汪兆銘が静かに言った。


「それが——羨ましい」





 * * *





東京に戻ると、石原から電報が届いていた。


『真珠湾、残念だ。だが貴様が動いたことは無駄ではない。ドイツは二年以内に崩れる。その後を考えろ。石原』


頭の奥の声が言った。


*石原さん、もう次を見とる*


辻が静かに言った。


「この人は最初から最終戦を見ている」


*ドイツが崩れた後*


*ソ連が東欧を飲む*


*アメリカが気づく*


「そうだ」


*そしたら日本の立場が変わる*


「変えなければならない」


辻は石原への返電を書いた。


『承知しました。次を考えています。辻』


短い文だった。


それで十分だった。





 * * *





その夜、服部が来た。


珍しく酒を持ってきた。


二つの杯に酌をして、一つを辻に渡した。


「飲むか」


「飲む」


二人で静かに飲んだ。


しばらく誰も喋らなかった。


服部が言った。


「真珠湾は止められなかった」


「そうだ」


「三国同盟も止められなかった」


「そうだ」


「でも——」


服部が杯を見た。


「ノモンハンで死ななかった兵士がいる」


辻は答えなかった。


「汪兆銘の糸がある」


「そうだ」


「荒勝教授が計算を続けている」


「そうだ」


「名取の写真がアメリカに届いている」


「そうだ」


服部が静かに言った。


「ゼロではない」


辻が少し間を置いた。


「そうだ」


頭の奥の声が言った。


*ゼロではない*


*それだけでいいんか*


辻が静かに言った。


「それだけでいい」


*なんで*


「ゼロと一は違う。一と百も違う。でも——」


*でも*


「ゼロと一の差が一番大きい」


服部が辻を見た。


少し間があった。


「どこで覚えた」


辻が答えた。


「独学だ」


服部が小さく笑った。


また目で笑う笑いだった。


「お前の独学は本当に広い」


二人で静かに飲んだ。


頭の奥の声が言った。


*なあ辻*


「なんだ」


*俺、ここに来てよかったと思うわ*


辻が少し間を置いた。


「Jアラートで死んだのに、か」


*そやねん*


*不思議やろ*


「不思議だ」


*でもほんまにそう思う*


*ノモンハンで鉄線張ったのも*


*石原さんに会ったのも*


*荒勝先生の計算式見たのも*


*服部がゼロではないって言ってるのも*


*全部、ゲームじゃ味わえへんやつやから*


辻は杯を持ったまま


少し考えた。


「お前がいなければ——俺はノモンハンで突撃していた」


*そやろな*


「そして死んでいたかもしれない」


*死んでたと思う*


「だからお互い様だ」


頭の奥の声が


しばらく黙った。


*……そうか*


「そうだ」


*ほな*


*もうちょっとだけ頑張るわ*


辻が静かに言った。


「頼む」


服部が二杯目を注いだ。


東京の夜が静かに更けていく。


戦争は始まった。


でも——


ゼロではない。


全部の糸が


まだ切れていない。


それだけで


今夜は十分だった。





 * * *





それから四年。


ドイツは崩れた。


石原の予言通り、二年と少しで。


ソ連は東欧を飲んだ。


派手に、露骨に。


アメリカが気づくのに


少し時間がかかった。


でも気づいた。


朝鮮半島でソ連の動きが見えた時


アメリカは日本を見た。


消耗していない日本を。


工業力が残っている日本を。


汪兆銘の糸を通じて


蒋介石との交渉ルートを持っている日本を。


頭の奥の声が言った。


*来たな*


辻が静かに言った。


「来た」


*グランドデザイン通りや*


「おおよそ、な」


*おおよそ、か*


「完璧にはいかない。でも——」


辻は窓の外を見た。


東京の街が広がっていた。


焼けていない街が。


*焼けてへんな*


「そうだ」


*服部が言ってた*


*焼けてほしくない、って*


「覚えているか」


*忘れるわけないやろ*


辻が静かに言った。


「叶った」


頭の奥の声が


しばらく何も言わなかった。


それからぽつりと言った。


*辻*


「なんだ」


*ありがとう*


辻は答えなかった。


答える必要がなかった。


窓の外で


東京の街が


朝の光の中に


静かに広がっていた。


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