ハルノートの夜
一九四一年十一月二十六日。
その日が来た。
服部から電報が届いたのは夜だった。
『ハル提案、届いた。内容は予想通り。最悪だ。服部』
辻は電報を読んで、机に置いた。
頭の奥の声が言った。
*来たな*
「来た」
*史実通りか*
「おそらく」
*内容は*
辻が静かに言った。
「中国からの全面撤退。満州国の否認。三国同盟の実質的破棄」
*デスノートやな*
「そうだ」
*止められへんかったか*
辻は少し間を置いた。
「まだ終わっていない」
* * *
翌朝、服部が来た。
いつもより早い時間だった。
顔色が悪かった。
「上層部は最後通牒と見ている」
服部が椅子に座りながら言った。
「開戦論が一気に強まった。真珠湾の作戦が動き始めている」
辻が聞いた。
「山本は」
「止められない。あの人も開戦やむなしと見ている」
辻が窓の外を見た。
頭の奥の声が言った。
*史実と同じ流れや*
*変えられへんかったか*
辻が静かに言った。
「これは交渉文書だ」
服部が顔を上げた。
「なに」
「ハルノートは最後通牒ではない。叩き台だ。ここから交渉する余地がある」
服部が静かに言った。
「根拠は」
「アメリカがこの時点で本気で戦争をしたいなら、もっと早く動いている。ルーズベルトは議会と世論を動かす口実を探している。本当に望んでいるのは日本が先に撃つことだ」
服部が少し間を置いた。
「……つまり」
「撃たなければいい」
長い沈黙が落ちた。
服部が言った。
「撃たないために何をする」
辻が立ち上がった。
「近衛に会う。それと——」
辻は服部を見た。
「もう一つやることがある」
* * *
辻が岩畔を呼んだのはその夜だった。
岩畔が来ると、辻は単刀直入に言った。
「ハワイ沖で連合艦隊の演習がある。それをアメリカ側に非公式に伝えろ」
岩畔が少し驚いた顔をした。
「演習、とは」
「名目は演習でいい。伝える相手は公式の外交ルートではなく——お前が持っているジャーナリストのルートだ」
岩畔が黙って考えた。
辻が続けた。
「それから大使館経由でアメリカ国務省に抗議文を出す」
「抗議?」
「日本の潜水艦がハワイ周辺で攻撃を受けている。これは明確な敵対行為だ——という内容で」
岩畔がしばらく辻を見た。
「……実際に攻撃されているのですか」
辻が静かに言った。
「されている。ハワイ周辺海域で甲標的が哨戒艦に追われている報告が来ている」
頭の奥の声が言った。
*ワード号や*
*史実でも攻撃の直前に甲標的が撃沈されとる*
*嘘やない*
*事実を使う*
岩畔が静かに言った。
「抗議文の目的は」
辻が答えた。
「記録を作ることだ」
「記録」
「アメリカが先に撃ったという記録。そしてジャーナリストに渡った時点で——記事になる可能性がある」
岩畔が少し前のめりになった。
「ルーズベルトの『だまし討ち』という構図を崩す」
「そうだ」
岩畔が考えた。
「完全には崩せないかもしれない」
「わかっている」
「アメリカの世論が一夜にして動くほどの効果はないかもしれない」
「わかっている」
辻が静かに言った。
「でも——記録は残る」
頭の奥の声が言った。
*現代で言うたら*
*エビデンスを残す、ってやつや*
*後から使える記録を今作る*
岩畔がしばらく黙った。
それから頷いた。
「わかりました。動きます」
「ジャーナリストには同じ内容を同時に渡せ。大使館の抗議文と同じ日に」
「同時に、ですね」
「どちらか一方では握り潰される。両方同時なら——少なくとも一方は残る」
岩畔が立ち上がりながら言った。
「辻さん」
「なんだ」
「これは開戦を止めるためですか」
辻が少し間を置いた。
「止められないかもしれない」
「では」
「開戦した後のためだ」
岩畔が辻を見た。
辻が続けた。
「戦争は始まるかもしれない。でも始まり方が変われば——終わり方も変わる」
頭の奥の声が言った。
*着地のための布石や*
*今やってることは全部そうやな*
岩畔が頷いた。
「わかりました」
出ていく岩畔の背中に、辻は言った。
「ジャーナリストへの文書には——潜水艦が攻撃された日時と場所を具体的に入れろ。数字は嘘をつかない」
岩畔が振り返らずに答えた。
「承知しました」
* * *
近衛文麿は疲れ切っていた。
首相を辞してから日が浅い。
後任の東條との確執も抱えている。
辻が訪ねると、意外なほどあっさりと会ってくれた。
話を聞くと、近衛が静かに言った。
「ルーズベルトとの首脳会談を、私はずっと望んでいた」
「知っています」
「潰れた」
「知っています」
近衛が辻を見た。
「なぜ軍人のあなたがここに」
辻が答えた。
「会談を復活させたいからです」
近衛が苦く笑った。
「今更。東條内閣が許すわけがない」
「閣下が動く必要はありません」
近衛が眉を上げた。
「では誰が」
辻が静かに言った。
「裏から動きます」
近衛がしばらく辻を見た。
それから言った。
「あなたは変わった軍人だ」
「よく言われます」
「ノモンハンの辻政信とは別人のようだ」
辻は答えなかった。
近衛が続けた。
「私にできることは何かありますか」
辻が言った。
「野村大使に一本、電話していただけますか」
「野村に。何を」
「交渉を続けろ、と」
「それだけか」
「それだけで十分です」
頭の奥の声が言った。
*細い糸や*
*でも糸は糸や*
「そうだ」
* * *
その夜、辻は一人で銀座を歩いた。
ゾルゲが使うバーの前を、通りかかる用事を作った。
頭の奥の声が言った。
*接触するんか*
「しない」
*じゃあなんで*
「情報を置いてくる」
辻は歩きながら、すれ違った知人の新聞記者に声をかけた。
世間話をした。
その中で、さりげなく言った。
「陸軍の北進論は完全に死んだ。南も慎重論が強い。このまま講和になるかもしれん」
記者が驚いた顔をした。
「本当ですか」
「私見だ。記事にするな」
記者が頷いた。
辻は歩き続けた。
頭の奥の声が言った。
*今の、尾崎に届くか*
「届くかもしれない。届かないかもしれない」
*できることを全部やる*
「そうだ。それだけだ」
* * *
三日後、汪兆銘から電報が来た。
『重慶の反応、予想より悪くない。蒋は話を聞く気がある。ただし条件がある。日本が先に撃たないこと。それだけを確認したいと言っている。汪』
辻は電報を三回読んだ。
頭の奥の声が言った。
*蒋介石が条件を出した*
*日本が先に撃たなければ*
*蒋は話し合いのテーブルに着く*
「そういうことだ」
*つまり*
*真珠湾を止めれば*
辻が静かに言った。
「全部が変わる」
長い沈黙が落ちた。
頭の奥の声が言った。
*真珠湾を止められるか*
辻は答えなかった。
しばらくして言った。
「服部に会う」
* * *
服部は辻の話を黙って聞いた。
汪兆銘の電報。
蒋介石の条件。
近衛への電話。
岩畔への指示——潜水艦攻撃の抗議文とジャーナリストへの同時通達。
銀座での情報工作。
全部話した。
初めて、全部話した。
服部が長い間、黙っていた。
窓の外を見ていた。
それから静かに言った。
「真珠湾まで、あと何日だ」
辻が答えた。
「十日ない」
服部が立ち上がった。
窓の外を見たまま言った。
「山本に話を通せる人間が一人いる」
辻が聞いた。
「誰だ」
「海軍の人間だ。名前は言えない」
辻が服部を見た。
服部が振り返った。
その目に、初めて迷いのようなものが見えた。
頭の奥の声が言った。
*服部が迷っとる*
*初めて見た*
辻が静かに言った。
「服部」
「なんだ」
「お前は何がしたい」
服部が少し動きを止めた。
辻が続けた。
「ずっと聞けなかった。今聞く」
服部が窓の外に目を戻した。
長い沈黙が落ちた。
外で風が鳴った。
服部が静かに言った。
「この国が、焼けてほしくない」
辻は答えなかった。
服部が続けた。
「それだけだ。出世でも名誉でもない。ただ——焼けてほしくない」
頭の奥の声が
静かに言った。
*同じや*
*結局、同じこと考えてたんや*
辻が服部を見た。
「わかった」
「何が」
「お前のことが」
服部が少し間を置いた。
「遅いな」
辻が静かに言った。
「そうだ」
少し間があった。
服部が言った。
「海軍の男に話を通す。保証はできない」
「それでいい」
「失敗するかもしれない」
「それでもいい」
「真珠湾が止まらないかもしれない」
辻が答えた。
「それでも——今日できることをやる」
服部がしばらく辻を見た。
それから小さく頷いた。
「わかった」
立ち上がりながら言った。
「一つだけ聞いていいか」
「なんだ」
「お前は本当に辻政信か」
辻が少し間を置いた。
「半分は」
服部が少し目を細めた。
「残りの半分は」
辻が静かに言った。
「お前には関係ない」
服部が小さく笑った。
今度は目も笑っていた。
初めて見る笑い方だった。
「そうか」
それだけ言って、服部は出ていった。
ドアが閉まった。
頭の奥の声が言った。
*服部、笑ったな*
*初めて見た*
辻も思った。
初めて見た。
辻は机に向かった。
紙を取り出した。
今夜中に書かなければならない手紙がある。
野村大使への手紙。
汪兆銘への返電。
岩畔への最終確認。
そして——
頭の奥の声が言った。
*抗議文の内容は*
辻が静かに言った。
「数字を入れる。日時、場所、艦番号。全部実在する数字だ」
*嘘やない*
「そうだ」
*でも、それだけで世論は動くか*
辻が少し間を置いた。
「動かないかもしれない」
*なんでやるんや*
「記録が残るからだ」
辻は書き始めた。
*リロードなしのワンチャンスや*
*頼むで辻*
辻は鉛筆を止めなかった。




