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松岡という男

松岡洋右は、想像通りの男だった。


饒舌で、自信家で、部屋に入った瞬間から空気を支配しようとする。

外務省の廊下で偶然を装って声をかけてきた時も、すでに計算された動きだった。


「辻参謀。噂は聞いていますよ」


笑顔だった。

目が笑っていない笑顔だった。


頭の奥の声が言った。


*服部と同じ目や*


*でも服部より分かりやすい*


*こいつは自分が賢いと思っとる*


辻は静かに答えた。


「どんな噂ですか」


「三国同盟に反対しているとか」


「反対とは言っていません」


松岡が少し目を細めた。


「ほう」


「条件が整っていないと言っています」


「条件とは」


辻が静かに言った。


「中国問題が片付いていない。アメリカの出方が読めていない。その状態でドイツと組んでも、日本が動ける方向が狭まるだけです」


松岡が笑った。


「慎重な参謀もいたものだ」


「用心深いのではありません」


「では」


「勝てる賭けしかしない、ということです」


松岡が少し間を置いた。


頭の奥の声が言った。


*この言い方、松岡には刺さる*


*こいつは賭けが好きな男やから*


松岡が言った。


「ドイツは勝ちます」


「イギリスに上陸できますか」


「時間の問題だ」


「海軍力の差はどう見ていますか」


松岡が少し黙った。


「ドイツの工業力は——」


「海軍は工業力だけでは動きません。練度と経験が要る。ドイツ海軍にイギリス海峡を突破する経験はない」


松岡が辻を見た。


「辻参謀、あなたは陸軍参謀でしょう」


「そうです」


「海軍の話をするのですか」


「戦争の話をしています」


短い沈黙。


松岡が言った。


「仮にドイツがイギリスを落とせなくても——アメリカは動かない」


「今は」


「孤立主義が強い。ルーズベルトも世論には逆らえない」


辻が静かに言った。


「では聞きます。日本がドイツと組んだ後、アメリカ国内で何か一つ事件が起きたとします」


「どんな事件だ」


「たとえば——日本軍の船がアメリカ船と接触する。あるいは南進の過程でアメリカの権益を刺激する。些細なことでいい」


松岡が黙っている。


「その瞬間、アメリカ世論の中で日本は何になりますか」


沈黙。


「ドイツの仲間です。第一次大戦の再現です。そしてルーズベルトは世論を動かす口実を手に入れる」


松岡が静かに言った。


「それはお前の見立てだ」


「そうです」


辻が松岡を見た。


「ただし外れる自信もありません」


頭の奥の声が言った。


*ここや*


*断言せえへんのが正解や*


*断言したら反論できる*


*でも「外れる自信がない」は反論しにくい*


松岡がしばらく辻を見ていた。


それから言った。


「あなたは面白い参謀だ」


「光栄です」


「だが三国同盟は進める」


辻は答えなかった。


松岡が続けた。


「ただし——」


少し間があった。


「アメリカを刺激しない条項を入れることは、検討できる」


頭の奥の声が言った。


*来た*


辻が静かに言った。


「それだけで十分です」


松岡が少し驚いた顔をした。


「止めるつもりではなかったのか」


「止められるとは思っていません」


「では何をしに来た」


辻が答えた。


「条件を変えに来ました」





 * * *





三国同盟は一九四〇年九月二十七日に締結された。


史実通りだった。


でも一つだけ違うことがあった。


内部の交渉過程で


「アメリカとの関係を不必要に刺激しない」


という非公式の確認事項が


関係者の間で共有されていた。


文書ではない。

条約の条文でもない。

ただの「確認」だ。


紙に残らない約束など

簡単に破られる。


辻はそれを知っていた。


でも——


頭の奥の声が言った。


*完全には止められへんかった*


「そうだ」


*悔しくないか*


辻は少し間を置いた。


「悔しい」


*正直やな*


「でも——」


辻は服部から届いた短い電報を見た。


『確認事項、上層部に共有済み。使えるかもしれない。服部』


「一つだけ変えた」


*それで十分か*


「十分ではない」


*でも*


「でも、ゼロではない」


頭の奥の声が


少し黙った。


*……ゼロではない、か*


「そうだ」


*それがお前のやり方やな*


辻は窓の外を見た。


東京の秋の空が広がっていた。


次はハルノートだ。


時間は——まだある。





 * * *





その夜、石原から手紙が届いた。


短い手紙だった。


『三国同盟、残念だ。だが貴様が動いたことは知っている。次を考えろ。最終戦はまだ始まっていない。石原』


頭の奥の声が言った。


*石原さん、見とったんや*


辻は手紙を折りたたんで懐に入れた。


*嬉しいか*


辻は少し考えた。


「……少しだけ」


*正直やな*


「お前に言っても仕方がないだろう」


*俺にしか言われへんやろ*


辻は答えなかった。


でも電灯を消す前に


もう一度だけ


手紙の折りたたんだ形を


確認した。





 * * *





翌週、汪兆銘から連絡が来た。


暗号化された短い文だった。


『重慶との糸口、一本だけ見つけた。細い。でも切れていない。汪』


頭の奥の声が言った。


*つながっとる*


「そうだ」


*細くても*


「細くても糸は糸だ」


*引っ張ったら切れるんちゃうか*


辻が静かに言った。


「だから引っ張らない」


*どうするんや*


「糸の向こうに、人がいることを確認するだけでいい」


「今は」


頭の奥の声が少し黙った。


*……蒋介石か*


「そうだ」


*あの人、首を縦に振るかな*


辻が窓の外を見た。


「わからない」


*わからんのか*


「でも汪兆銘は二十年、蒋介石を知っている」


*それが武器になるか*


「なるかもしれない。ならないかもしれない」


*賭けやな*


辻が静かに言った。


「全部賭けだ。最初から」


頭の奥の声が言った。


*ノモンハンから全部か*


「そうだ」


*よう続けてるな*


辻が少し間を置いた。


「お前がいるからだ」


頭の奥が静かになった。


しばらく何も言わなかった。


それからぽつりと言った。


*……そういうこと急に言うなや*


*照れるやろ*


辻は答えなかった。


ただ、次の手を考え始めた。


ハルノートまで——


あと一年と少し。


まだ間に合う。


まだ、間に合う。

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