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三つの賭け


服部から連絡が来たのは十月の初めだった。


短い電報だった。


『松岡、動く。急げ。服部』


頭の奥の声が言った。


*松岡洋右か*


*三国同盟の推進者やな*


*史実では1940年9月に締結や*


*まだ間に合うか*


辻は電報を握りしめた。


間に合わせるしかない。





 * * *





服部の執務室に入ると、地図と書類が山積みになっていた。


服部が椅子に座ったまま言った。


「松岡が上層部を動かし始めた。ドイツとの同盟を今年中に締結したいらしい」


「根拠は」


「ドイツがフランスを落とした。イギリスも時間の問題だと見ている。勝ち馬に乗る論理だ」


辻が静かに言った。


「ドイツはイギリスを落とせない」


服部が少し目を細めた。


「根拠は」


「海軍力の差だ。ドイツに英本土上陸の能力はない。制空戦で消耗するだけだ」


服部がしばらく辻を見た。


「……またその手の話か」


「そうだ」


「どこで仕入れる」


「独学だ」


服部が小さく息を吐いた。


「お前の独学は信用することにした。で、どうする」


辻は書類の山を見た。


「三つ同時に動く」


「聞かせろ」


辻が指を立てた。


「一つ。松岡を止める材料を作る。上層部に数字を見せる」


「二つ目は」


「汪兆銘に会う」


服部が眉を上げた。


「汪兆銘。なぜ今」


「中国戦線を早く終わらせれば、三国同盟の必要性が消える。ドイツと組む理由の半分は中国問題だ」


服部がしばらく考えた。


「……筋は通っている。三つ目は」


辻が少し間を置いた。


「岩畔に動いてもらう」


「アメリカ向けか」


「三国同盟が締結されれば、アメリカ世論が一気に反日になる。その前に手を打つ」


服部が地図を見たまま言った。


「三つ同時は無理だ」


「わかっている」


「どれを優先する」


辻が答えた。


「全部だ」


服部が辻を見た。


長い沈黙が落ちた。


服部が静かに言った。


「……お前は本当に変わったな」


「そうか」


「昔のお前なら『突撃あるのみ』と言った」


辻が少し口の端を上げた。


「今も突撃している。方向が変わっただけだ」


頭の奥の声が言った。


*ええこと言うやん*





 * * *





汪兆銘は上海の租界にいた。


重慶を脱出してから数ヶ月。

南京政府の準備が進んでいるが、まだ正式な政権ではない時期だった。


辻は一人で会いに行った。

またしても服部には「個人的な用事」とだけ言った。


服部は今度も何も聞かなかった。

ただ出がけに一言言った。


「汪兆銘の側近に気をつけろ。日本の憲兵と繋がっている者がいる」


頭の奥の声が言った。


*助けてくれてるんか牽制してるんか*


*ほんまにわからんな服部*


どちらにしても使える情報だった。





 * * *





汪兆銘は想像より老けて見えた。


五十代の半ばだが、疲労が顔に刻まれていた。

孫文の側近として革命を生き、蒋介石と二十年戦い、そして今——


日本に来た男の顔をしていた。


辻が名刺を出すと、汪兆銘は日本語で言った。


「辻参謀。陸軍の方がなぜ私に」


「直接お話ししたいことがあって参りました」


「南京政府の件なら、担当の者が——」


「違います」


辻は静かに遮った。


「閣下に一つだけ聞かせてください」


汪兆銘が黙った。


辻が言った。


「閣下は何がしたいのですか」


汪兆銘がしばらく辻を見た。


値踏みするような目だった。


それから静かに言った。


「中国人が死ぬのを止めたい」


「それだけですか」


「……それだけでは足りませんか」


辻が少し間を置いた。


「十分です」


頭の奥の声が言った。


*この人も同じや*


*死なせたくない*


*ただそれだけ*


汪兆銘が続けた。


「あなたは変わった軍人ですね」


「よく言われます」


「普通の日本軍人なら、私に南京政府の話をしに来る」


「私は南京政府の話をしに来たのではありません」


汪兆銘が少し前のめりになった。


「では」


辻が静かに言った。


「蒋介石閣下との、話し合いの糸口を探りに来ました」


沈黙が落ちた。


汪兆銘の顔から表情が消えた。


しばらくして、静かに言った。


「……それは、誰の命令で」


「私の判断です」


「陸軍の意向ではない」


「ありません」


また沈黙。


汪兆銘が立ち上がって窓の外を見た。


上海の租界の街が広がっている。


しばらくして言った。


「蒋は私を許さないでしょう」


「今は、そうかもしれません」


「では——」


「でも、戦争が終われば話は別です」


汪兆銘が振り返った。


「戦争が終わる、とはどういう意味ですか」


辻が静かに言った。


「日本が中国から手を引く、という意味です」


長い沈黙が落ちた。


汪兆銘が辻を見た。

その目に、初めて別の光が入った気がした。


「あなたは本気で言っていますか」


「本気です」


「陸軍が中国から手を引くことを——あなた一人が言っている」


「今はそうです」


「今は、とは」


辻が答えた。


「私が動かします」


頭の奥の声が言った。


*大きく出たな*


*できるんか*


*わからない。*


*でも言わなければ始まらない。*


汪兆銘がしばらく辻を見ていた。


それから静かに笑った。


苦い笑いだった。


「私も二十年前、同じようなことを言いました」


「どんなことを」


「私が動かします、と」


辻は答えなかった。


汪兆銘が続けた。


「結果はご覧の通りです」


「それでも——」


辻が言った。


「閣下は今日、私と話している」


汪兆銘が少し動きを止めた。


「諦めなかった人間だけが、次の一手を打てます」


沈黙。


汪兆銘が窓の外を見た。


それから静かに言った。


「……連絡の方法を考えましょう」


頭の奥の声が


小さく言った。


*一手、打てたな*





 * * *





東京に戻った翌日、辻は陸軍の会議室にいた。


上層部の将官が並んでいる。

松岡洋右の名前が何度も出ていた。


三国同盟の話が具体化しつつある。


辻は資料を広げた。


頭の奥の声が言った。


*数字で止めるんやろ*


*いつもの戦術や*


辻が口を開いた。


「一つ確認させてください」


将官たちが辻を見た。


「ドイツと同盟を結んだ場合、アメリカの対応はどうなりますか」


古参の将官が言った。


「アメリカは孤立主義だ。介入はしない」


辻が静かに言った。


「現時点ではそうです」


「では問題ない」


「ただし——」


辻は資料を開いた。


「昨年のアメリカの世論調査があります。参戦反対が八十パーセント。これは事実です」


将官たちが頷く。


「しかしこの数字には条件があります」


「なんだ」


「日本がドイツと組んだ場合、この数字がどう動くか——」


辻は別の紙を出した。


「第一次世界大戦の時、アメリカが参戦したのはなぜか。ドイツのUボートがアメリカ船を沈めたからです。世論が一夜にして変わった」


沈黙。


「三国同盟を結んだ瞬間、日本はアメリカ世論の中で『ドイツの仲間』になります。その後、何か一つ事件が起きれば——」


辻は言葉を止めた。


将官たちが顔を見合わせた。


古参の将官が言った。


「しかし、ドイツが勝てばアメリカも動けまい」


辻が静かに言った。


「ドイツはイギリスを落とせません」


「なぜ言い切れる」


「海軍力の差です。英本土上陸に必要な輸送船と護衛戦力を、ドイツは持っていない」


別の将官が言った。


「それは辻参謀の見立てに過ぎない」


「そうです」


辻が頷いた。


「ただし——もし私の見立てが正しければ、ドイツは長期戦に入ります。そしてソ連と戦い始める」


将官たちが静かになった。


「その時、日本はドイツの同盟国として、ソ連に宣戦布告を求められます」


沈黙が深くなった。


辻が続けた。


「北進です。ノモンハンの二の舞いを、今度は国家規模でやることになります」


頭の奥の声が言った。


*刺さったな*


*ノモンハンの話は効く*


*みんな知ってるから*


古参の将官が低い声で言った。


「……続けろ」


辻が静かに言った。


「私は三国同盟に反対です。理由は一つ。日本が戦う相手を、日本が選べなくなるからです」


誰も喋らなかった。


「同盟とは、相手の戦争に付き合うことです。ドイツが始めた戦争の結末に、日本が引きずられる」


辻は資料を閉じた。


「日本が戦うなら、日本が選んだ場所で、日本が選んだ時に戦うべきです」


長い沈黙が落ちた。


それから将官の一人が


静かに言った。


「……その話、もう少し聞かせろ」


頭の奥の声が言った。


*ひびが入ったな*


*全部は止められへんかもしれへん*


*でも、ひびは入った*





 * * *





その夜、岩畔から報告が届いた。


アメリカの新聞に、日本の農村の写真が掲載されたという。

名取洋之助のNIPPONから提供した写真だった。


子供たちが田んぼで遊んでいる写真。

老人が縁側で茶を飲んでいる写真。


記事のタイトルは


『日本人の顔』


だった。


頭の奥の声が言った。


*名取さんの写真、届いたんや*


辻は報告書を読みながら


静かに言った。


「まだ足りない」


*十分やと思うけど*


「一枚の写真で世論は変わらない」


*でも積み重なれば*


「そうだ」


辻は窓の外を見た。


東京の夜が広がっている。


三つの賭けを同時に進めた一日だった。


松岡を完全には止められなかった。


でも、将官たちにひびを入れた。


汪兆銘との糸口を作った。


名取の写真がアメリカに届いた。


頭の奥の声が言った。


*十分か*


辻が静かに言った。


「十分ではない」


*でも*


「でも——今日できることはやった」


少し間があった。


*ゲームやったら*


*セーブするとこやな*


辻が口の端を上げた。


「できないのは知っている」


*知ってる*


*でも言いたかっただけや*


辻は電灯を消した。


暗闇の中で


明日の手を考えた。


三国同盟までの時間は


まだある。


まだ、間に合う。


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