服部の値段
服部卓四郎は、辻が東京に戻った翌日の朝に現れた。
待っていたかのようなタイミングだった。
辻の執務室のドアをノックして、断りもなく入ってきた。
椅子に座って、お茶を一口飲んで、静かに言った。
「舞鶴に行ったそうだな」
「ああ」
「石原閣下に会いに」
「そうだ」
「それから京都」
「そうだ」
服部が茶碗を置いた。
「一人で」
「そうだ」
短い沈黙が落ちた。
頭の奥の声が言った。
*全部知っとる。こいつ全部知っとる*
わかっている。
服部が静かに言った。
「何をしに行った」
「個人的な用事だ」
「石原閣下への個人的な用事」
「そうだ」
「それから京都帝大の荒勝教授への個人的な用事」
辻は答えなかった。
服部が辻を見た。
表情がない。
怒っているのか、呆れているのか、感心しているのか——読めない。
頭の奥の声が言った。
*このキャラほんまに読めへん*
服部が静かに言った。
「辻」
「なんだ」
「お前は私を信用していないな」
辻は少し間を置いた。
「信用している」
「嘘をつくな」
「嘘ではない」
服部が少し首を傾けた。
「どちらだ」
辻が静かに言った。
「信用している。だが全部は話さない」
服部が黙っていた。
しばらくして、小さく笑った。
目が笑っていない笑いだった。
「正直だな」
「お互い様だろう」
服部の目が少し動いた。
頭の奥の声が言った。
*おっ、刺さったな*
* * *
服部が立ち上がって、窓の外を見た。
東京の街が広がっている。
「ノモンハンから帰ってきたお前は変わった」
「そうか」
「変わったというより——別人だ」
辻は答えなかった。
「最初は病気かと思った。頭でも打ったかと思った」
「失礼な」
「だが違う」
服部が振り返った。
「お前は何かを知っている」
辻は服部を見た。
服部が続けた。
「ノモンハンでの戦術。補給限界の計算。イギリスの理論。石原閣下への接触。荒勝教授への接触」
一つ一つ、静かに並べた。
「全部繋がっている。お前の頭の中に設計図がある」
辻は黙っていた。
頭の奥の声が言った。
*全部見えとる*
*どうするんや*
服部が静かに言った。
「見せろ」
辻が聞いた。
「なぜ」
「使えるかどうか判断したい」
「俺をか、設計図をか」
「両方だ」
短い沈黙が落ちた。
辻が服部を見た。
服部が辻を見た。
頭の奥の声が
珍しく黙っていた。
辻が静かに言った。
「一つだけ聞く」
「なんだ」
「お前はこの国が戦争に負けると思うか」
服部が動かなかった。
表情が消えた。
長い沈黙が落ちた。
窓の外で車の音がした。
誰かが廊下を歩いた。
服部が静かに言った。
「アメリカと戦えばな」
辻が聞いた。
「それだけか」
「それだけで十分だろう」
「答えになっていない」
服部が少し間を置いた。
「負ける」
初めて、直接的に言った。
「アメリカと正面からぶつかれば、必ず負ける」
辻が続けた。
「それを知っていて、今まで黙っていたのか」
服部が静かに答えた。
「言える場所がなかった」
頭の奥の声が言った。
*……あ*
*この人も抱えとったんや*
* * *
服部が椅子に戻った。
今度は少し、体の力が抜けていた。
「お前の設計図とやらを聞こうか」
辻は少し考えた。
全部は話さない。
でも——
頭の奥の声が言った。
*どこまで話す*
*核の話はまだだ。*
*それ以外は——*
辻が口を開いた。
「アメリカとの戦争を避ける。避けられなければ、有利な条件で講和できる場所まで持っていく」
服部が黙って聞いている。
「そのために三つのことをやる」
「言ってみろ」
「一つ。陸軍の暴走を止める。特に中国での無用な拡大を止める。アメリカの世論を敵に回す行動を止める」
服部が頷いた。
「二つ。アメリカの孤立主義世論を維持する。日本に好意的なアメリカ人を増やす。名取洋之助の雑誌を使う。岩畔を動かす」
服部が少し目を細めた。
「岩畔まで動かしているのか」
「これから動かす」
「三つ目は」
辻が少し間を置いた。
「三国同盟を止める」
服部が静かに言った。
「それは——難しいぞ」
「わかっている」
「陸軍の親独派は根が深い。松岡洋右がいる。上層部を全部敵に回すことになる」
「わかっている」
服部が辻を見た。
「それでもやるのか」
「それをやらなければ全部無駄になる」
沈黙。
服部が窓の外を見た。
しばらくして言った。
「一つだけ聞く」
「なんだ」
「お前は何者だ」
辻は少し間を置いた。
「辻政信だ」
「そうじゃない」
「では何だと思う」
服部が辻を見た。
「ノモンハンの前のお前と今のお前は別人だ。別人がなぜ辻政信の顔をしているのか」
頭の奥の声が言った。
*詰めてきた*
*どうする*
辻が静かに言った。
「ノモンハンで死にかけた」
「それだけで人間はここまで変わらない」
「変わる人間もいる」
「お前はそういう人間じゃなかった」
辻が答えない。
服部が続けた。
「まあいい」
あっさりと言った。
「知る必要はない」
辻が少し驚いた。
「なぜだ」
服部が静かに言った。
「設計図が正しければ、お前が何者かは関係ない」
頭の奥の声が言った。
*こいつ、怖いな*
*結果だけで判断するんか*
服部が続けた。
「ただし条件がある」
「言ってみろ」
「全部じゃないにしても——方向だけは共有しろ」
「なぜだ」
「俺が動くために必要だからだ」
辻が少し間を置いた。
「お前は乗るのか」
服部が静かに言った。
「乗れるかどうか、まだわからない」
「正直だな」
「お互い様だろう」
辻が言った言葉を
服部がそのまま返した。
頭の奥の声が
小さく笑った。
*やるやん服部*
* * *
服部が帰り際に、一度だけ振り返った。
「辻」
「なんだ」
「大本営が三国同盟の検討を始めている」
辻は動かなかった。
「時間がない」
それだけ言って、服部は出ていった。
ドアが閉まった。
頭の奥の声が言った。
*情報をくれた*
*これ、助けてくれてるんか*
辻が静かに言った。
「そうとも取れる」
*そうじゃないとも取れる*
「そうだ」
*どっちやと思う*
辻が窓の外を見た。
「わからない」
*わからんのか*
「それでいい」
*なんで*
辻が静かに言った。
「服部がわかる人間なら——怖くない」
*わからんから怖い*
「わからんから使える」
頭の奥の声が少し黙った。
*……お前、服部のこと怖いと思っとるんやな*
辻は答えなかった。
答えないことが答えだった。
*なあ辻*
「なんだ」
*俺はお前のこと怖いと思ったことないで*
辻が少し間を置いた。
「なぜだ」
*頭の中に住んどるから*
*怖い人間の頭の中がどんなもんか*
*全部見えとるから*
辻が静かに言った。
「それは——」
少し間があった。
「光栄なのか、不名誉なのかわからないな」
*さあな*
*でも悪い気はせえへんやろ*
辻は答えなかった。
でも
窓の外を見たまま
口の端が
少しだけ動いた。




