京都の物理学者
京都帝国大学の物理学教室は、静かだった。
廊下に数式が書かれた黒板が並んでいる。
すれ違う学生たちが、軍服の辻を不思議そうに見た。
辻は気にしなかった。
頭の奥の声が言った。
*大学って独特の空気あるな*
*なんか落ち着く*
辻は答えなかった。
荒勝教授の研究室の前に立った。
ノックした。
「どうぞ」
静かな声だった。
* * *
荒勝文策は、想像していたより若く見えた。
五十代だが、白衣を着て数式と向き合っている姿は、どこか少年のような集中を持っていた。
石原の紹介状を見て、眼鏡の奥の目が少し動いた。
「石原閣下の……」
「辻政信と申します。少しお時間をいただけますか」
荒勝教授が椅子を勧めた。
机の上に、サイクロトロンの設計図が広がっていた。
頭の奥の声が言った。
*サイクロトロンや。粒子加速器の原始的なやつ*
*この人、本物の研究者やな*
辻は座って、静かに切り出した。
「先生、一つ教えていただきたいことがあります」
「なんでしょう」
「昨年末、ドイツのハーンとシュトラスマンがウランの核分裂を発表しました」
荒勝教授の目が動いた。
「ご存じですか」
「もちろんです。私も同じ方向の研究をしています」
「核分裂の連鎖反応で、どのくらいのエネルギーが取り出せますか」
荒勝教授が少し考えた。
それから立ち上がって黒板の前に立った。
「計算してみましょう」
* * *
チョークが黒板を走った。
数式が積み上がっていく。
E=mc²。
質量欠損。
連鎖反応の増幅係数。
頭の奥の声が静かに数字を確認していた。
*合っとる。全部合っとる*
荒勝教授がチョークを置いた。
「ウラン235が一キログラム完全に分裂したとして——」
数字を指さした。
「TNT火薬に換算すると、およそ二万トン相当のエネルギーが出ます」
辻は数字を見た。
頭の奥の声が言った。
*広島型が約一万五千トン相当や*
*この計算、ほぼ正確や*
荒勝教授が続けた。
「もっとも、これは理論上の話です。実際に連鎖反応を爆発的に起こすには——」
「ウラン235の濃縮が必要ですね」
荒勝教授が少し驚いた顔をした。
「よくご存じで」
「勉強しました」
荒勝教授が頷いた。
「濃縮の難しさは途方もない。現在の技術では——」
「時間と資金と工業力があれば、可能ですか」
荒勝教授が少し間を置いた。
「理論上は、可能です」
辻は黒板の数字を見ていた。
しばらくして、静かに言った。
「先生、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「先生は戦場をご覧になったことは」
荒勝教授が首を振った。
「ありません」
辻が少し間を置いた。
「大砲を一門打つと、煙が出ます」
荒勝教授が黙って聞いている。
「百門打つと空が曇ります。千門打つと昼でも薄暗くなる。太陽の光が届かないほどの煙と灰と土埃が、戦場の上に広がります」
「……はい」
「先生の計算式のエネルギーが、一点で解放されたとします」
辻は静かに続けた。
「その爆発が作る雲は——いかほどでしょうか」
荒勝教授の手が止まった。
その問いは
考えたことがなかった——
顔に書いてあった。
荒勝教授が無意識に黒板に向き直った。
チョークを取った。
計算を始めた。
* * *
五分間、誰も喋らなかった。
チョークの音だけが続いた。
数字が増えていく。
爆発のエネルギー。
発生する熱。
気化する物質の量。
上昇気流の規模。
巻き上げられる粒子の総量。
荒勝教授の手が
途中で
止まった。
チョークを持ったまま、黒板を見ていた。
辻は待った。
頭の奥の声が
珍しく
黙っていた。
荒勝教授が静かに言った。
「……都市、一つでは済まないかもしれません」
辻が聞いた。
「どういう意味ですか」
荒勝教授がゆっくりと振り返った。
顔が白くなっていた。
「爆発が起きた場所だけではなく——」
言葉を選んでいた。
「周辺の気温が、下がります」
「どのくらい」
「計算上は——農作物が、育たなくなる範囲が出るかもしれません」
辻が静かに聞いた。
「複数使えば」
荒勝教授が答えない。
辻が待った。
荒勝教授が
絞り出すように言った。
「……季節が、変わるかもしれません」
長い沈黙が落ちた。
頭の奥の声が言った。
*核の冬や*
*この人、たった今*
*計算で核の冬に辿り着いた*
辻は動かなかった。
「先生」
「はい」
「爆心地では何が起きますか」
荒勝教授が計算式を指さした。
「この温度では——」
少し間があった。
「建物が、消えます」
「人は」
荒勝教授が答えない。
辻が待った。
荒勝教授が
小さな声で言った。
「蒸発します」
また沈黙が落ちた。
遠くで学生の声がした。
廊下を歩く足音がした。
この部屋だけが、別の時間の中にあるようだった。
頭の奥の声が言った。
*この人、今*
*自分の計算式が怖くなっとる*
* * *
荒勝教授がゆっくりと椅子に座った。
黒板の数字を見ていた。
しばらくして言った。
「私は今まで——」
言葉が止まった。
「エネルギーの量しか、考えていませんでした」
辻は答えなかった。
「核分裂は美しい現象です。質量がエネルギーに変わる。アインシュタインの式が現実になる。物理学者として、それは——」
荒勝教授が自分の手を見た。
「純粋に、美しかった」
辻が静かに言った。
「今も美しいと思いますか」
荒勝教授が長い間、黙っていた。
「……わかりません」
正直な答えだった。
辻は立ち上がった。
「先生、お願いがあります」
「なんでしょう」
「この計算を、続けてください」
荒勝教授が顔を上げた。
「続ける、とは」
「雲の計算を。気温の計算を。農作物への影響を。放射線がどこまで届くかを」
荒勝教授が静かに聞いた。
「何のためにですか」
辻は少し間を置いた。
「日本がこれを作ろうとした時に——止める理由が必要になります」
荒勝教授の目が動いた。
「軍人が、止める理由を集めているのですか」
辻は答えなかった。
答えないことが答えだった。
荒勝教授がしばらく辻を見ていた。
それから静かに言った。
「もう一つ聞いていいですか」
「はい」
「アメリカは——動いていますか」
辻は少し間を置いた。
「動いていると思います」
「証拠は」
「ありません。ただ——」
辻は言葉を選んだ。
「動かない理由がない国です」
荒勝教授が黒板の数字を見た。
それからもう一度辻を見た。
「わかりました」
静かな声だった。
「続けます」
* * *
廊下に出た。
頭の奥の声が言った。
*終わったな*
「ああ」
*荒勝教授、今夜眠れへんと思うで*
辻は歩きながら答えた。
「それでいい」
*冷たいな*
「冷たくない」
*どういう意味や*
「眠れない人間だけが、本当のことを考える。荒勝先生はこれから——誰より深く考える人間になる」
頭の奥の声が少し黙った。
*それが必要なんか*
「必要だ」
*なんで*
辻が静かに言った。
「俺一人では止められない。石原閣下一人でも止められない。服部でも岩畔でも名取でも——一人では無理だ」
*せやから荒勝教授が必要なんか*
「学者の言葉は、軍人の言葉より遠くまで届く」
頭の奥の声が少し間を置いた。
*……頭ええな、辻*
「お前の知識のおかげだ」
*俺はゲームオタクやで*
「それでいい」
*なんで*
辻が立ち止まった。
京都の空が見えた。
夕暮れが近かった。
東山の稜線が、橙色に染まり始めていた。
辻が静かに言った。
「英雄が転生する必要はない」
*……また言うてる*
「普通の人間が——普通に怖がりながら——それでも前に進める人間が必要だった」
頭の奥の声が
少し黙った。
*買いかぶりすぎや*
「そうかもしれない」
少し間があった。
「でも今のところ、お前しかいない」
夕暮れの京都を
二人で見ていた。
しばらくして
頭の奥の声が言った。
*次、何するんや*
辻が歩き始めた。
「東京に戻る。服部に会う」
*服部か*
*何話すんや*
「まだ決めていない」
*嘘やろ*
辻が少し口の端を上げた。
「半分だけ本当だ」
*どっちの半分が嘘なんや*
辻は答えなかった。
東山の影が長く伸びていた。




