舞鶴の左遷将軍
舞鶴要塞司令部は、想像していたより小さかった。
京都から北へ。日本海に面した港町の丘の上に、古びた庁舎が建っている。
海風が強い。満州の乾いた風とは全然違う匂いがした。
辻は一人で来た。
副官も連れていない。
服部には「個人的な用事だ」とだけ言った。
服部は何も聞かなかった。
ただ見送りながら、静かな目で辻を見ていた。
*あいつ、何か気づいとるな*
わかっている。
今は関係ない。
受付の下士官が辻の名刺を見て、少し驚いた顔をした。
「辻……参謀殿が、なぜ舞鶴に」
「石原司令官に会いたい。アポイントはない」
下士官が困った顔をした。
「司令官は今日、お会いになるご予定が——」
「辻政信が来たと伝えろ」
辻は静かに言った。
「会わないとは言わないはずだ」
頭の奥の声が言った。
*自信満々やな*
*会ってくれへんかったらどうするんや*
辻は答えなかった。
* * *
十分後、通された。
石原莞爾は窓際に立っていた。
日本海を背にして、腕を組んで、辻を見ていた。
想像していたより細い体をしていた。
でも目だけが、異様に鋭かった。
その目が辻を、頭から足まで一度だけ見た。
「辻か」
「はい」
「貴様が私に会いに来るとは思わなかった」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって底が読めない。
辻は姿勢を正して言った。
「閣下の最終戦論を読みました」
石原が鼻で笑った。
「今更読んだところで、私は左遷された身だ」
短い沈黙。
「貴様の出世には何の役にも立たん」
辻は答えなかった。
石原が続けた。
「それとも、この石原莞爾をどこかで使おうという魂胆か。だとしたら——」
「出世のために来たのではありません」
辻は静かに遮った。
石原の目が細くなった。
「ほう」
「閣下の言う最終戦争は、思っているより早く来ます」
沈黙が落ちた。
日本海の風が窓を鳴らした。
石原がゆっくりと言った。
「どのくらい早く」
「十年以内に」
石原は動かなかった。
ただその目の奥で、何かが動いた気がした。
「……座れ」
石原が椅子を指さした。
「話を聞こう」
* * *
向かい合って座った。
石原が茶を一口飲んで、静かに言った。
「ノモンハンの話を聞いた」
「はい」
「退きながら戦ったそうだな」
「そうです」
「辻政信が、だ」
辻は答えなかった。
石原が少し間を置いた。
「お前は変わった」
断定だった。
疑問ではなかった。
頭の奥の声が言った。
*気づいとる。この人、一発で気づいとる*
辻は静かに言った。
「ノモンハンで見たものが、私を変えました」
「何を見た」
「戦車五百両対百三十両を見ました。火砲千門対三百門を見ました」
石原が黙って聞いている。
「そして——兵士が死ぬのを見ました。自分の命令で動いた兵士が、自分の命令の範囲内で死ぬのを」
しばらく沈黙があった。
石原が静かに言った。
「それだけか」
辻は少し間を置いた。
「もう一つ見ました」
「なんだ」
「補給トラックの往来が減っていく様子を見ました。数を数えて、計算して、向こうの限界点を見極めました」
石原の眉が微かに動いた。
「兵站か」
「はい。戦争は精神ではなく計算で動く。それを身をもって知りました」
石原がしばらく黙っていた。
窓の外の海を見ていた。
それから静かに言った。
「私がずっと言いたかったことだ」
初めて、石原の声に温度が入った気がした。
* * *
石原が立ち上がって、壁の地図の前に立った。
ユーラシア大陸の地図だ。
「最終戦論の話をしよう」
指が地図の上を動いた。
「東洋文明と西洋文明が最終的に激突する。その前に日本はアジアを束ねて準備せねばならない。だから中国との無駄な消耗戦は百害あって一利なしだ」
辻は聞いていた。
「だが誰も聞かなかった。私は左遷された。盧溝橋の後で、もうこの国は止まらないと思った」
石原が振り返った。
「お前はどう見る」
辻は立ち上がって地図の前に並んだ。
「閣下の最終戦論は正しい。ただし——」
辻は太平洋を指さした。
「最終決戦の相手は、想定より早く現れます。そしてその相手は、閣下が想像しているより強大です」
石原の目が鋭くなった。
「どのくらい強大だ」
辻は数字を言った。
「鉄鋼生産で日本の十二倍。石油生産で五百倍。工業生産力で十倍」
石原が動かなかった。
「五百倍」
「石油の話です」
「……それは」
「アメリカです」
長い沈黙が落ちた。
石原が地図を見たまま言った。
「その数字はどこで得た」
「調べました」
石原が辻を見た。
「嘘をつくな」
辻は答えなかった。
石原が静かに言った。
「その数字を知っていて、なぜ今まで黙っていた」
「信じてもらえる立場になるまで待っていました」
「ノモンハンがその舞台だったということか」
「はい」
石原がしばらく辻を見ていた。
値踏みするような目だった。
頭の奥の声が言った。
*緊張するわ。この人の目、普通やない*
石原がゆっくりと言った。
「もう一つ聞く」
「はい」
「お前は何がしたい」
辻は少し間を置いた。
「負けない戦争を設計したい」
「勝つのではなく」
「勝てません。国力差がある以上、正面からぶつかれば必ず負ける」
「では」
「戦わずに済む状況を作る。あるいは、戦うとしても——」
辻は言葉を選んだ。
「有利な条件で講和できる場所まで持っていく」
石原が長い間、辻を見ていた。
それから窓の外に目を向けて、静かに言った。
「私がノモンハンの前のお前にそれを言ったとしたら、どう答えた」
辻は少し考えた。
「腰抜けと言ったと思います」
石原が初めて、笑った。
小さく、静かな笑いだった。
「正直な奴だ」
石原が椅子に戻った。
「座れ。まだ話がある」
* * *
二時間、話した。
最終戦論の細部。
アメリカの実力についての辻の見解。
中国戦線をどう終わらせるか。
陸軍内部の派閥と力関係。
石原は鋭い質問を次々と投げてきた。
辻は全力で答えた。
頭の奥の声が途中で言った。
*この人、頭の回転が違う*
*質問が一個先、二個先を読んでる*
わかっている。
だから来た。
日が傾いてきた頃、石原が言った。
「一つだけ足りないものがある」
「何でしょう」
「核の話だ」
辻は動かなかった。
石原が続けた。
「ウランの核分裂。連鎖反応。去年末にドイツから報告が来ている。それを使えば——」
「都市一つを消せます」
辻は静かに言った。
石原の目が鋭くなった。
「知っているのか」
「知っています」
「どこまで」
「理論は。実現の困難さも」
「アメリカは」
辻は少し間を置いた。
「動いていると思います。おそらく、もう動き始めている」
石原が深く息を吸った。
「それが最終兵器になる」
「なります。ただし——」
辻は言った。
「日本には作れません。時間も資源も技術も足りない」
「では」
「アメリカに作らせない方法を考えるか——」
辻は石原を見た。
「作られる前に戦争を終わらせるかです」
長い沈黙が落ちた。
石原が窓の外の暗くなった海を見ていた。
それから静かに言った。
「京都に優秀な物理学者がいる」
「存じています」
「会いに行くか」
「閣下の紹介状があれば」
石原が辻を見た。
「私の名前を使うのか」
「閣下の名前は、まだ学者には通じます」
石原が少し考えた。
「…………書こう」
立ち上がって、机に向かった。
筆を取りながら、背中で言った。
「辻」
「はい」
「お前は変わった。それは認める」
筆が動き始めた。
「だが一つだけ言っておく」
「なんでしょう」
「変わったことを、悟られるな」
辻は静かに答えた。
「わかっています」
「わかっていない」
石原が振り返った。
「お前が変わったと気づいている人間が、すでに一人いる」
辻は黙っていた。
石原が静かに言った。
「服部だ」
頭の奥の声が言った。
*やっぱりな*
辻は表情を変えずに言った。
「承知しています」
「どうするつもりだ」
「使います」
石原がしばらく辻を見て、それから小さく笑った。
「そうか」
筆が再び動いた。
「それでいい」
* * *
辻が庁舎を出たのは夜になってからだった。
紹介状を懐に入れて、石原の言葉を反芻していた。
服部はすでに気づいている。
知っていた。
でも石原の口から聞くと、重さが違った。
頭の奥の声が言った。
*石原さん、ええ人やったな*
「ああ」
*孤独な人やな*
辻は少し考えた。
「孤独は力になる場合もある」
*どういう意味や*
「失うものがない人間は、本当のことを言える」
頭の奥の声が少し黙った。
*……服部は違うな*
「そうだ」
*服部は失いたくないものがある人間や*
「だから使える。だから怖い」
波の音がした。
日本海の夜風が冷たかった。
次は京都だ。
荒勝教授に会いに行く。
そこで何を聞かされるのか——
辻は既に知っていた。
でも知らないふりをして、聞かなければならない。
頭の奥の声が言った。
*なあ*
「なんだ」
*しんどくないか*
辻は少し間を置いた。
「ノモンハンよりはましだ」
*そか*
波の音だけが続いた。




