二週間の地獄
ソ連軍が動いたのは、三日後の夜明けだった。
地平線の向こうから砲声が響き始めた時、辻はすでに起きていた。
天幕の外に出て、東の空を見た。
砲煙が朝霧の中に溶けている。
*来たな*
「来た」
辻は振り返らずに言った。
背後に副官が立っていた。
「全部隊に伝えろ。陣地を離れるな。速射砲は私が命令するまで撃つな」
副官が走っていく。
頭の奥の声が言った。
*最初の山場や。陣地がまだ六割しかできてへん*
*わかっている*
*鉄線も西側の低地はまだ張り終わってへん*
*わかっている*
*正直言うと、かなりきつい状況や*
辻は双眼鏡を目に当てた。
「わかっている」
今度は声に出して言った。
* * *
最初の波は歩兵だった。
ソ連の歩兵部隊が広い正面で前進してくる。
その後ろに戦車の黒い影が見えた。
辻は伝令に命じた。
「狙撃手班に伝えろ。赤い腕章を最優先。動くな、まだ撃つな」
歩兵が近づいてくる。
五百メートル。四百メートル。
頭の奥の声が言った。
*そろそろ鉄線に差し掛かる*
三百メートルのあたりで、前列の歩兵が崩れた。
転んだのではない。
何かに足を取られて、次々と倒れていく。
膝下の鉄線トラップだ。
後ろの歩兵が前の歩兵につまずいて、連鎖的に混乱が起きた。
その瞬間、辻は伝令に叫んだ。
「狙撃手、撃て」
乾いた銃声が散発的に響いた。
立ち上がろうとした将校が、足を撃たれて倒れる。
赤い腕章の将校が、胸を撃たれて動かなくなった。
歩兵の動きが止まった。
頭の奥の声が言った。
*第一波、止めたな*
*まだだ。戦車が来る*
* * *
戦車が来たのは午前十時だった。
BT戦車の群れが砂丘の間の低地に向かってくる。
辻は双眼鏡で数えた。
三十両。先遣隊だ。
*地面の鉄線、ちゃんと張れてるか*
張れている場所と張れていない場所がある。
西側の低地はまだ不完全だった。
案の定、戦車の一部が西側に流れてきた。
辻は歯を食いしばった。
*あかんか*
「速射砲、撃て」
九四式速射砲が一斉に火を吹いた。
先頭の戦車が止まった。
二両目が横に逸れた瞬間、地面の鉄線が履帯に絡まった。
戦車が回転しようとして、さらに絡まった。
*止まった*
「速射砲、側面を狙え」
止まった戦車の側面に砲弾が命中した。
炎が上がった。
だが西側を突破した戦車が三両、陣地の内側に入ってきた。
辻は火炎瓶班を見た。
古参の将校が、すでに動いていた。
三十二人の志願者が、それぞれ瓶を持って砂丘の陰から飛び出した。
辻は見ていた。
走る。転ぶ。また走る。
戦車が砲塔を回す前に、一人が瓶を投げた。
命中しなかった。
別の一人が戦車の真横まで走り込んで、瓶を叩きつけた。
炎が広がった。
戦車が止まった。
頭の奥の声が、珍しく黙っていた。
辻も黙っていた。
しばらくして、ゲームオタクが言った。
*……ゲームと全然違う*
辻は双眼鏡を下ろした。
「そうだ」
* * *
その夜、辻は損害報告を読んだ。
死者十七名。
負傷者四十三名。
火炎瓶志願者の中から、三名が戦死していた。
頭の奥の声が静かに言った。
*三人……*
辻は報告書を閉じた。
*ゲームやったら数字だけやのに*
「わかっている」
*お前が命令した*
「わかっている」
*しんどくないか*
辻はしばらく黙っていた。
天幕の外で風が砂を運ぶ音がした。
「しんどい」
初めて認めた。
*そか*
ゲームオタクはそれだけ言った。
余計なことは言わなかった。
辻は新しい紙を取り出して、翌日の陣地補強の計画を書き始めた。
* * *
四日目。
西側の鉄線を完成させた。
七日目。
ソ連軍の補給トラックの往来が、偵察報告で減り始めた。
*補給が細り始めた*
「まだだ。もう少しかかる」
九日目。
大本営から電報が来た。
『速やかに攻勢に転じよ』
辻は電報を読んで、机の引き出しに入れた。
*無視するんか*
「返事を書く。少し時間をもらえと」
*嘘やん、時間稼ぎやん*
「交渉だ」
*ゲームで言うたら引き延ばし戦術や*
「そうだ」
辻は返電を書いた。
『現在、敵補給の限界点を確認中。今しばらく猶予を乞う。辻』
頭の奥の声が笑った。
*堂々と書くな*
* * *
十二日目の夜。
服部から電報が来た。
『大本営、業を煮やしつつあり。辻の首が危ない。早めに結果を出せ。服部』
辻は電報を読んで、少し考えた。
服部がわざわざ知らせてきた。
*これ、助けてくれてるんか*
*それとも揺さぶりか*
どちらにも読める。
服部らしかった。
*読めへんな、このキャラ*
「使える情報だ。それでいい」
辻は翌朝の偵察報告を待った。
* * *
十四日目の朝。
偵察報告が届いた。
「ソ連軍の砲撃頻度、昨日比で四割減。補給トラックの往来、ほぼ確認できず」
辻は地図を見た。
*来た*
「補給が尽きかけている。向こうはあと二、三日で動けなくなる」
古参の将校が言った。
「では、追撃を」
辻は首を振った。
「追わない」
将校が驚いた。
「なぜですか。今が好機では」
「補給が尽きた敵を追えば、我々の補給も伸びる。同じ轍を踏む必要はない」
頭の奥の声が言った。
*ランチェスターの法則、逆に使うんやな*
*攻撃側になった瞬間に、今度は俺らが不利になる*
将校たちが顔を見合わせた。
辻は言った。
「我々は負けなかった。それで十分だ」
* * *
撤退が完了したのは、十六日目だった。
辻は最後に戦場を振り返った。
砂丘に残った鉄線。
焼け跡になった戦車の残骸。
土が盛られた場所がいくつかある。
日本側の死者を葬った場所だ。
*終わったな*
「終わった」
*死者は……史実より少ない*
「それだけが救いだ」
*次や。石原に会いに行くんやろ*
辻は背を向けた。
東京まで戻る間に、報告書を書かなければならない。
機械化戦争の実態。補給戦の重要性。陣地防御の有効性。
そして——アメリカが向かっている方向について。
書くべきことは山ほどある。
誰も読まないかもしれない。
握り潰されるかもしれない。
それでも書く。
*なあ*
「なんだ」
*お疲れさん*
辻は少し間を置いた。
「……お前もな」
砂丘の向こうで、風が草を揺らしていた。




