【プロローグ】 Jアラートが鳴った夜
午後十一時過ぎ、俺はパソコンの前でHearts of Ironを起動していた。
日本プレイ。難易度は最高。
ノモンハン事件を史実通りに回避し、補給線を整備し、南進を抑制する。
何度やっても最終的にアメリカとの国力差に潰される、俺の永遠のテーマやった。
今夜はうまくいっていた。
関東軍の暴走を抑え、石油備蓄を積み上げ、外交ポイントを慎重に使いながらアメリカとの緊張を下げていく。
画面の中の日本地図を眺めながら、俺は缶コーヒーを一口すすった。
——そのときスマホが鳴った。
独特の警告音。
Jアラートや。
『北朝鮮より弾道ミサイルが発射されました。頑丈な建物や地下に避難してください』
俺はゲームを一時停止して立ち上がった。
築三十年のアパートの一室。頑丈な建物とは程遠い。
地下もない。
取り敢えずドアから離れてバスルームに移動しようとしたとき——
揺れた。
最初は小さく、次の瞬間には激しく。
棚の本が崩れ落ちる。パソコンのモニターが倒れる。
俺は咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込んだ。
——これ、地震か?
頭の中で何かが引っかかった。
Jアラートの後に地震。
核爆発の地表衝撃波は、音より速く伝わる。
爆心地から離れていれば、閃光の後しばらく経ってから地震のような揺れが来る。
ゲームで何度も読んだシナリオが頭を過ぎった。
——まさか、あれは核か?
答えが出る前に、天井が落ちてきた。
* * *
暗かった。
痛みもなかった。
ただ、さっきまで頭を占めていたHearts of Ironの画面だけが、妙に鮮明に瞼の裏に残っていた。
ノモンハン。補給。石油。アメリカの工業力。
どうすれば日本は負けずに済んだのか。
答えを探し続けたまま、俺の意識は溶けていった。
* * *
最初に気づいたのは、匂いだった。
草と土と、それから馬の匂い。
次に音。
遠くで砲声がする。単発ではなく、連続した重い轟き。
ゲームのスピーカーから出る音とは全然違う、腹の底に響く本物の音やった。
——どこや、ここ。
目を開けると、青い空が広がっていた。
遮るものが何もない、果てしなく広い空。
俺は——いや、この体は——立っていた。
軍服を着て、地図を手に持って、数人の将校に囲まれて。
将校の一人が言った。
「辻参謀。いかがなさいますか」
辻参謀。
その言葉が、俺の意識に刺さった。
——辻? 辻政信?
手の中の地図に目を落とした。
ハルハ河。ノモンハン。
見覚えのある地名が並んでいる。
——嘘やろ。
体の奥から、別の感情が湧き上がってくるのを感じた。
激しく、熱く、前へ前へと突き進もうとする衝動。
これが辻政信という男の本能なのか。
——待て待て待て。
俺は必死でその衝動を押し留めた。
ここはノモンハンや。
史実通りなら、このまま突撃したら何千人が死ぬ。
俺はゲームでこの戦場を何十回と経験した。
補給なしの突撃がどういう結末を迎えるか、骨の髄まで知っとる。
将校が再び問いかけてきた。
「辻参謀。ソ連軍の陣地に向けて、前進命令を」
俺——辻の体——は、深く息を吸った。
ゆっくりと、将校たちを見回す。
「待て」
将校たちが顔を見合わせた。
「まず偵察だ。敵の砲兵配置と戦車の数を正確に把握してからでなければ、一兵も動かさん」
沈黙が落ちた。
頭の奥で、俺は静かに呟いた。
——とりあえず、第一歩はクリアや。
ここから先、この国を——この男を——どこまで変えられるか。
ゲームと違って、リロードはできへん。
さあ、始めよか。




