【エピローグ】 Jアラートが鳴らない夜
一九五三年。
辻政信は書斎にいた。
窓の外に東京の夜景が広がっている。
焼けていない街の灯りが、遠くまで続いている。
机の上に一枚の写真がある。
ノモンハンの砂丘だ。
誰かが撮った古い写真で、端が少し焼けている。
砂丘の向こうに空が広がっているだけの、何もない写真だ。
でも辻はこの写真を捨てられなかった。
頭の奥の声が言った。
*久しぶりやな*
「そうだな」
*最近、静かやったから*
*もう出んでもええかと思った*
辻が静かに言った。
「お前はどこにも行かない」
*そやな*
*俺、お前の頭の中に住んどるから*
少し間があった。
*なあ辻*
「なんだ」
*今夜、なんかあったか*
辻は写真を見たまま答えた。
「岩畔から連絡が来た」
*なんて*
「朝鮮半島の件で、アメリカが日本に協力を求めてきた」
頭の奥の声が少し間を置いた。
*グランドデザイン通りやな*
「おおよそ、な」
*おおよそ、か*
*完璧やないんか*
辻が静かに言った。
「完璧な着地などない」
*そやな*
*でも焼けてへんな、東京*
「そうだ」
*広島も長崎も*
「そうだ」
頭の奥の声が
しばらく黙った。
*荒勝先生の計算式*
*使われへんかった*
「そうだ」
*よかった*
「そうだ」
静かな時間が流れた。
東京の夜景が窓の外に広がっている。
頭の奥の声が言った。
*なあ辻*
「なんだ」
*俺さ*
*Jアラートで死んだやろ*
「そうだ」
*あの時*
*核攻撃かもしれへんと思ったんや*
「知っている」
*でも今の世界には*
*北朝鮮がない*
辻は答えなかった。
*金日成が権力を握れへんかった*
*ソ連が半島に入る前に*
*アメリカと日本が抑えたから*
「そうだ」
*せやから*
頭の奥の声が
少し震えた気がした。
*俺が死んだ原因が*
*この世界にはない*
辻が静かに言った。
「そうだ」
長い沈黙が落ちた。
遠くで車の音がした。
誰かが道を歩いている音がした。
頭の奥の声が言った。
*俺*
*帰れるかな*
辻は少し考えた。
「わからない」
*帰る場所があるかな*
「わからない」
*怖いな*
「そうか」
*怖くないか、お前は*
辻が静かに言った。
「俺には関係ない話だ」
*なんで*
「俺はここにいる。お前がどこに行こうと——」
少し間があった。
「俺はここにいる」
頭の奥の声が
しばらく何も言わなかった。
それから静かに言った。
*寂しいやん*
辻が答えた。
「そうかもしれない」
*辻*
「なんだ」
*お前はええ奴やったで*
*最初はほんまに最悪やと思ったけど*
辻が少し口の端を上げた。
「ノモンハンで突撃しようとした男か」
*そや*
*あの時、止めてよかった*
「お前がいなければ突撃していた」
*お前がおったから俺も止められた*
*お互い様やな*
辻が静かに言った。
「そうだ。お互い様だ」
また静かな時間が流れた。
頭の奥の声が言った。
*なあ*
「なんだ」
*一つだけ教えてくれ*
「なんだ」
*お前、本当は誰なんや*
*辻政信か*
*それとも別の誰かか*
辻は写真を見たまま
しばらく考えた。
ノモンハンの砂丘。
服部の目で笑う笑い。
石原の手紙。
荒勝教授の震える手。
汪兆銘の苦い笑い。
火炎瓶を持って走った三十二人。
死んだ三人。
全部が自分の中にある。
辻が静かに言った。
「わからない」
*わからんのか*
「でも——」
少し間があった。
「どちらでもいい、と思っている」
*なんで*
「どちらであっても——やったことは変わらない」
頭の奥の声が
静かになった。
しばらくして言った。
*そやな*
*やったことは変わらへん*
「そうだ」
*ノモンハンで退いたのは*
*お前がやったことや*
「そうだ」
*焼けてへん東京も*
「そうだ」
*ならそれでええか*
辻が静かに言った。
「それでいい」
頭の奥の声が
最後に言った。
*ほな*
*そろそろ行くわ*
辻が少し動きを止めた。
「そうか」
*うん*
*なんか*
*眠たくなってきた*
*ゆっくり眠れそうな気がする*
辻は答えなかった。
*辻*
「なんだ」
*世話になったな*
辻が静かに言った。
「こちらこそだ」
*嘘やろ*
「本当だ」
*……そか*
頭の奥が
少しずつ
静かになっていった。
最後に
小さな声で言った。
*Jアラート*
*鳴らへんかったな*
辻が静かに答えた。
「鳴らなかった」
*よかった*
それだけだった。
静かになった。
辻は写真を見たまま
しばらく動かなかった。
窓の外に
東京の夜景が広がっている。
焼けていない街の灯りが
遠くまで続いている。
それだけでよかった。
それだけで
十分だった。
辻政信は
静かに
写真を引き出しにしまった。
電灯を消した。
暗闇の中で
目を閉じた。
頭の奥は
静かだった。
初めて
完全に静かだった。
でも辻は
寂しいとは思わなかった。
ただ
静かだと思った。
それだけだった。
――了――




