第4話 不器用なショートケーキ
翌日から、なつみの席は空いたままだった。
風邪をこじらせて熱を出したらしい。
その噂を耳にするたび、今井の胸には鉛を飲んだような重苦しさと、鋭い良心の呵責が突き刺さった。
あの日、駐輪場で泣き崩れた彼女の姿が、耳の奥で叫んだ声が、何度もフラッシュバックする。
「お前、なっちゃんに何やったんだよ!」
放課後、人影のまばらな部室裏で、山崎が今井の胸ぐらを掴んだ。いつもはおちゃらけている彼の瞳が、鋭く今井を射抜いている。
「……別に。お前には関係ないだろ」
今井は山崎の視線から逃げるように顔を背けた。すっかり卑屈の殻に這い戻ってしまった今井は、自分を守るためのトゲトゲしい言葉しか吐けなくなっていた。
「きのう行ってきたよ。あいつ、ショックで寝込んじまったんだぞ。……あんなにげっそりした顔、初めて見たわ」
「だから、関係ないってっ! どうせ俺なんて、何したって嫌われて終わりなんだから……」
「ふざけんな!」
山崎の怒鳴り声が、部室の壁に反響した。
「俺だってな、振られた時は死ぬほど悔しかったんだよ! それなのに、あいつに泣きつかれて、全部事情を聞かされて……あいつがお前を想ってボロボロ泣くから、俺は馬鹿みたいにお膳立てしてやってんじゃねえか!」
山崎は忌々しそうに手を離すと、大きなため息をついた。
「……ホント、逃げてばっかだな。まったく」
そして、つぶやくように言った。
「見てらんねーんだわ、親友がクズのままなのは。本当に悪いと思ってるなら、ケーキでも買って見舞いくらい行ってこい」
そう言い残して、山崎は足早に去っていった。
一人残された今井は、壁に背中を預けてずるずるとしゃがみ込んだ。
関係ないなんて、思えるはずがなかった。
重い足取りで今井が向かったのは、なつみの家……ではなく、駅前の小さなケーキ屋。
(……どれがいいんだ、こういうのって)
ショーケースの前を行ったり来たりして、とうとう店員に声をかけられた。
「あ、えっと……その、風邪、引いてる人でも、食べやすそうなやつ……を。それと、あ、家族の分もいるのか? だ、だったら、適当に四つくらい、お願いします。」
渡された紙袋は、今井には不釣り合いなほど可愛らしいデザインだった。
それを両手で大事に抱え、今井は教えられたなつみの家へと向かった。
駅前の喧騒を抜けた住宅街。
玄関先にたどり着いた今井は、インターホンを押す指が震えるのを止められなかった。
生唾を飲み込むと扉が開いた。そこには一人の女性が立っていた。
「あ……っ、」
思わず声が漏れた。
なつみによく似た、透き通るような瞳。だが、その女性は困ったように微笑んだ。
「なつみのお友達かしら?」
彼女の母親だった。
今井は自分の勘違いに顔を赤くし、しどろもどろになりながらケーキを差し出した。
「あ、あの……同じ学校の、今井です。これ、お見舞いに……」
「まあ、わざわざありがとう。なつみも喜ぶわ」
母親が袋を受け取り、今井が逃げるように背を向けた、その時だった。
「……今井さん?」
掠れた声が聞こえた。
振り返ると、パジャマの上にカーディガンを羽織ったなつみが、手すりに掴まって立っていた。
熱のせいか頬は赤く、髪も少し乱れている。
その右手には、書きかけの便箋のようなものが、くしゃりと握りしめられていた。
今井の心臓が激しく脈打つ。
謝らなければ。何か言わなければ。
だが言葉より先に足が動いてしまった。
「……すみません!」
一言だけ叫ぶように言うと、今井は一目散にその場を走り去った。
振り返る余裕なんてなかった。
ただ、背中に彼女の静かな視線が刺さっていることだけが分かった。
放課後の教室で、今井は山崎と向かい合っていた。
あの駐輪場のことを、聞くために。
「あの日、あいつ、俺に相談してたんだよ」
山崎は窓の外を見つめながら、静かに口を開いた。
「……あいつさ、ずっと決められてたんだ。従兄弟と」
山崎は舌打ちした。
「くだらねえ約束だろ。でもあいつ、それを守ろうとして――」
山崎はそこで言葉を区切り、少しだけ悔しそうに今井を見た。
「……お前のことも、従兄弟のことも、どうすればいいか分からなくなってさ」
山崎は目を伏せた。
「最後は、泣きながら俺んとこ来たよ。“どうしたらいいかわからない”って」
――資格がないって、そういうことだったのか……
「俺が帰ったすぐ後だったんだな。お前が突っかかっていったの。……あいつ、ずっと自分のせいだって言ってたぞ」
今井は言葉を失った。
俺は、それを踏みにじった。
「……これ。昨日、様子を見に行った時にあいつから預かってきた」
山崎が差し出したのは、一枚の封筒だった。
今井は震える手でそれを開き、中に綴られた文字を追った。
読み進めるうちに、視界が滲んでいく。
なつみの不器用で真っ直ぐな文字を読み進むにつれて、張り詰めていた今井の感情が音を立てて決壊した。
「……っ……う、あぁ……」
今井は机に突っ伏し、声を上げて泣いた。
「ごめん、本当にごめん……」
山崎の前であることも、ここが学校であることも忘れて、喉の奥から絞り出すように泣き続けた。
しばらくして、山崎が今井の肩を強く叩いた。
「なあ、……行こうぜ。謝るなら、直接言わなきゃな」
今井は涙を拭い、立ち上がった。
校門を出ると、街はすっかり秋の終わりを告げていた。
かつて咽び返るような香りを放っていた金木犀は、もう一輪も残っていない。
今井と山崎は、足元に広がる金木犀の花びらの絨毯を、ゆっくりと歩き出した。
その香りはもう、今井の息を止めるようなことはなかった。
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次回、最終章は明日の8時に公開予定です。引き続きよろしくお願いいたします。




