Ⅱ(3)セラピー
「終わったー……!!」
全ての宝石花を運び終えた私の雄たけびが、広間いっぱいに響きわたる。
壁面にずらっと並んでいる棚全てが空っぽになっている様子は壮観ですらあった。
全身を、心地よい疲労と『やりきった感』が満たしている。
そんな私に向かって、蘇芳さんが発した衝撃的な一言。
「まぁ、夕方には全部こっちに戻してもらうんだけどな」
「ええっ⁉」
ショックのあまり、思わず大きい声が出た。
「――……ほ、本当……ですか……?」
恐る恐る尋ねると、千晶さんが困ったような笑みとともに答えてくれる。
「残念ながら、本当……なんだよねぇ~……」
言葉を選ぶように言い淀みながらあごの辺りを搔いている姿を見ていると、どうやら嘘や冗談を言っているわけではなさそうだ。
「あ、その時は僕がやるから……」
慌ててそう付け加える千晶さんに、蘇芳さんが間髪入れずに言った。
「まァた『お客サマ扱い』か?」
「うっ……」
鋭い指摘に千晶さんが短くうめきながらうなだれる。
「――あ、あのっ! 私、まだ全然大丈夫ですから!」
私は慌ててそう言いながら、ひらひらと胸の前で両手を振った。その言葉に嘘偽りはない……はずだ。
「……ふふっ。ありがとうね」
千晶さんはそう言って再び破顔した。
「夕方も、また一緒にやろう。その方がきっといいから……僕にとっても、立花さんにとっても、ね」
その言葉には若干の含みのようなものを感じたけれど、相変わらず真意は謎のままだ。
私はまだ何も知らない。
このお店のことも、千晶さんと蘇芳さんのことも。
「はい……! よろしくお願いします!」
だから今はこうして、自分にできることを精一杯やる。
それがきっと『お客サマ』扱いを脱却するための、一番の近道だと思うから。
◆
最初の仕事が終わった後に任されたのも、床の掃除や窓ふきなど、いわゆる雑用ばかりだった。
当然お客様は一人も来ず、間もなく日が暮れようとしている。
蘇芳さんはパソコンの前からほぼ動いていないし、千晶さんは分厚い本をとっかえひっかえしながら長いことペンを走らせていた。
おかしいな……。普通の花屋ではないにしても、接客販売のお仕事だと思って出勤してきたんだけど……。
背伸びをしながら窓を拭いている私の耳に、蘇芳さんの声が届いた。
「……もうすぐ日の入りだな」
すると間髪入れずに千晶さんが手元の本をパタンと閉じる。
「もうそんな時間か」
千晶さんはゆっくりと立ち上がると、例の長い廊下に向かって歩き出した。
「立花さん、一緒にお願いできる?」
その言葉で日中のやり取りを思い出す。
これから再び地獄の百メートル往復を繰り返すことになるかと思うと気が遠くなりそうだ。
――滅入りそうになる自分の頬を心の中でばちっと叩いて、顔を上げる。
「はい!」
自分を鼓舞するためにあえて大きい声でそう言うと、雑巾とバケツを片付け、千晶さんの後に続いた。
「これ持ってかねぇでどうする」
蘇芳さんが届けてくれた二枚のトレイを携えて、私達は温室までの道を歩いた。
「――宝石花は、日の光にあてた方がいいんですよね」
廊下には、二人分の控えめな足音が響いている。
「うん、そう」
千晶さんの声は相変わらずとても穏やかだ。
「でも、だからといって毎日こうやって入れたり出したりしなくてもいいんじゃないですか?」
私は、なんとなく抱いていた疑問を口にする。
蘇芳さんは、『年がら年じゅう日の光にあてている必要はない』というようなことを言っていたし、例えば二日に一回、いや三日に一回くらいでも……。
しかし、隣にいる千晶さんの表情は、痛いくらい真剣そのものだった。
「――例えば立花さんは、お母さんのスミレに対しても、そういうことを思う?」
「……!」
そう言われた瞬間、私の背中はひゅっと冷たくなった。
「――間違っても、思いません」
心の中は、口にしてしまった言葉に対する後悔でいっぱいだ。
「……そうだよね」
千晶さんは私の考えなしな言葉を責めたりしなかった。
辺りは再び、二人分の控えめな足音で満たされる。
「――……」
私は、迷っていた。
その質問を口にしてもいいものなのか、と。
しかし私が尋ねる前に、千晶さんが答えをくれた。
「……なにも全ての宝石花が、誰かの遺したものだとか、強い思いがこもっているとか、そういうことではないんだ。むしろそういうのはごく少数」
中庭にたどりついた私たちは、夕焼け色に染まった温室からひとつひとつ丁寧に宝石花を取り上げる。
トレイいっぱいの宝石花を抱えて、私たちは広間への道をゆっくりと歩きだした。
「『これ』はね……多分……いわゆるセラピーなんだよ」
千晶さんの言う『これ』が、今まさに行っている中庭と広間の往復を指していることはすぐにわかった。
「セラピー……?」
聞いたことはあるけれど、意味を問われるとすぐには答えられない言葉だ。
何かを癒すもの、というような感じであるとは思うのだけれど。
「そう」
短く答えた千晶さんの視線は、ここではないどこか遠くに向けられている。
「……本当は、こんな風に大切にするべきだったんだ」
その声に滲んだ悲しみに、私は初対面の時に一瞬感じた千晶さんの憂いを見た。
そこにあるのは色濃い後悔。
瞬間、私は蘇芳さんの言葉を思い出していた。
――過去形に、できていない傷。
「……」
私は何も言えなかった。
母さんがいなくなってから、毎日あれこれ後悔してる。
あの時下らないことでケンカしなければよかった。
ひどいことを言わなければよかった。
意地をはらないでもっと色々話せばよかった。
「っ……!」
ぼろっ、と涙がこぼれ落ち、そうしたらもうだめだった。
「……っ……うっ……!」
顔を覆うこともできずに泣きじゃくる私の手から、千晶さんがそっとトレイを奪う。
自由になった手で目元をぬぐいながら、私は必死で嗚咽を噛み殺した。
「ごめん……。君にとっても、辛い話だったね」
そう言いながら、千晶さんはただただそばにいてくれる。
床に並んで二つ置かれたトレイの中では、最後の西日を受けて無数の宝石花がきらきらと輝いていた。
嗚咽が落ち着いてきた頃、私はぽつりぽつりと話しだす。
母さんとの日々に残してきた大小さまざまな後悔のことを。
言葉に詰まったこともあった。まだ言葉にできない想いもあった。
けれど千晶さんは何を言うでもなく、ただ控えめな相槌をうちながら話を聞いてくれる。
ひとしきり話し終えた後、千晶さんが差し出してくれたハンカチで涙を拭ってから、私は言った。
「……千晶さんは、優しいですね」
すると千晶さんは、困ったように笑う。
「……ほんとにそう思う?」
唐突な問いに、こくこくと頷く。
するときれいな顔に浮かんでいた優しい微笑みが、みるみるうちに明確な自嘲を伴った苦笑に代わる。
「――そんなことは、ないんだよ……」
その声はとても弱々しかった。
「……だって……僕は……」
ぎゅっと目をつむって俯き、わずかに震えている千晶さん。
「……あのひとのことを、守れなかったんだから……」
握りしめられた拳が、胸元のブローチをぎゅっと握りしめる。
血の気を失った手指は、まるで積もりたての新雪のように真っ白だった。
◆
私達が一往復目を終えた頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。
広間に入った瞬間、一瞬だけ蘇芳さんの目がこちらを向く。
しかしすぐにその視線は手元のパソコンに戻った。まだ目が腫れている自覚のある私は、ほっと安堵の息をつく。
「――お前、もうあがりな」
「えっ⁉」
あまりにも一往復に時間をかけすぎたから呆れられたのだろうか。
焦る私に対して、蘇芳さんはあくまでも落ち着いている。
「時間。見てみろ」
そう言われて時計を見て、納得した。
時刻は六時。今日の勤務の終了予定時刻だ。
「初日お疲れサマ。明日も頼むぜ?」
蘇芳さんはそう言うと、眼鏡を外してデスクから立ち上がった。ツカツカとこちらへ歩み寄り、私の手からトレイを優しく奪うと、そのかわりに何かを残していく。
「これ……」
「やる。駅前でもらいすぎた」
そう言って渡されたのは、コンタクトレンズ店の広告が入ったポケットティッシュだった。
――やっぱり何もかもお見通しか……。
「……ありがとうございます」
そう答える声は自分でもわかるほどの鼻声だ。
蘇芳さんはそれ以上何も言わず、ただひらりと一度だけ手を振った。
「おら、とっとと店じまいすんぞ」
そう言って、トレイの上の宝石花を手際よく棚におさめていく蘇芳さん。
「……手伝ってくれるの?」
千晶さんが問いかけると、蘇芳さんはいかにも面倒くさそうな口調で言った。
「しゃーねぇ。そのかわりこの後メシおごれよ」
二人のやりとりを遠くに聞きながら、私は帰り支度を進める。
「――お疲れ様でした……!」
退室時にそう言って一礼すると、
「おー、お疲れ」
「お疲れ様。ゆっくり休んでね」
と二人が声をかけてくれた。
門に向かって足を進める間も、二人が今晩何を食べるかああでもないこうでもないと話している声が漏れ聞こえてくる。その平常さがせめてもの救いだ。
私は、後悔していた。
それと同時に、祈ってもいた。
『あんなに悲しいこと』を『あんなに悲しい顔』で言わせてしまった私が願うのは、おこがましいかもしれないけれど。
——どうか千晶さんの心が、少しでも辛くなくなりますように。
鉄の門扉をくぐりながら、私の右手は無意識に胸元のスミレを握りしめていた。




