Ⅴ(5)もしもの向こう側
「――い、おい!……大丈夫か!?」
私の意識を引き戻したのは……蘇芳さんだ。珍しく切羽詰まった声をあげながら、私の顔を覗き込んでいる。
「――蘇芳、さ……」
喉が異様に乾いていて、うまく声がでない。
「無理に喋んな」
蘇芳さんはそう言うなり、くるりと踵を返してどこかに姿を消した。
次に戻って来た時に彼が手にしていたのは、カップに入った水だった。
「飲めるか」
問いかけにこくりと頷いて、カップを受け取る。持ち手を握る右手は、ふるふると僅かに震えていた。
一口水を飲み下すと、心がすうっと落ち着くのがわかる。
蘇芳さんは私の手からカップを受け取ると、デスクの上に置いた。
どうやら私は、千晶さんのデスクの横で倒れてしまっていたらしい。
一体どうして……と記憶をたどり出したタイミングで、蘇芳さんが尋ねた。
「何があった」
険しい顔つきに、さきほど見た夢の――いや、過去の中の蘇芳さんの姿が重なる。
「――光ってたんです……その、手帳が……」
まだうまくまわらない頭で、必死に言葉を選び出す。
「そうしたら、私……知らないうちに、どこかにいて……」
要領を得ない私の説明の続きを、蘇芳さんは辛抱強く待ってくれている。
「みもざさんが……笑ってました」
その一言に、ハッと鋭く息を吞んだのが伝わって来た。
「千晶さんも……すごく、楽しそうで……。でも、みもざさんは……」
言葉を詰まらせる私を見ている蘇芳さんも、沈痛な面持ちだった。当たり前だ。束の間彼女の人生を垣間見た私なんかよりも、弟としてずっと傍にいた蘇芳さんの方が……。
「――お前が何を見てたのかは……大体わかった。原理はさっぱりだがな」
蘇芳さんはそう言って、短く息をついた。
「とにかく、落ち着け。そのまま取り乱してると、お前まで危ない」
蘇芳さんはそう言って、床に座り込んだままの私の横にどっかりと腰をおろす。
「危ないって、どういう……?」
首を傾げる私の質問に、蘇芳さんが小さく息をつく。
「魔力の暴走には、共通する一つのトリガーがある、ってデータがあってな。――それが……『感情の爆発』だ」
蘇芳さんはあくまで淡々としている。そんな風に話せるのは、おそらく様々な感情を全て乗り越えてきたからだろう。
「強い一つの感情に囚われるとな……魔力が一時的に増えたりするんだと」
そこから私に言い聞かせるような口調になった。
「だから、なるべく感情を昂らせるな。特に今はな」
蘇芳さんの言葉は今の私に向けられたものだったのに、私の頭の中を占めているのはみもざさんのことだ。
みもざさんが体調を崩した理由……それが『感情の爆発』なのだとしたら――。
あの時みもざさんの心を埋め尽くしていた強い感情なんて、一つしか思い当たらない。
でも、もしそれが真実なのだとしたら、なんて悲しい、なんて残酷な――。
「余計なこと考えてんなよ」
蘇芳さんがそう言って釘をさす。
「――なんでとかどうしてとか、ンなもんは全部どうでもいい。そんなクソつまんねぇこと考えるようなヤツは……悪趣味な立ち聞き野郎だけで充分だ」
言い放たれた言葉と同時に、音もなく広間の扉が開いた。
姿を現したのは――千晶さんだ。
「……いつから気付いてたの」
「さぁな」
ばつの悪そうな表情を浮かべる千晶さんに、飄々と肩をすくめる蘇芳さん。
「千晶さん……! 具合、大丈夫なんですか……?」
床にへたりこんだまま尋ねる私に、千晶さんは困ったような笑みを浮かべる。
「――立花さんは、まず自分の心配をしないと」
こちらに歩み寄ってきた千晶さんは、ふっと視線をデスクの上の手帳にやった。
「……それを、置きっぱなしにしてしまったのが、気になって……戻って来たんだ」
手帳を見つめる千晶さんの目は、優しい。みもざさんを見つめていたのと同じ、慈しみの込められた瞳だ。
「んで、そこから堂々と立ち聞きってわけか」
「だから違うって」
そう答える千晶さんの言葉には全く覇気がない。
紙のように真っ白な顔色は——さきほど別れた時より明らかに悪化していた。
「――……『それ』が……見せてくれたんだね。立花さんに、あの頃の僕らを……」
千晶さんはそう言って、あの時の私のように、そうっと指先で手帳に触れる。
しかし何も起こらない。
「……やっぱり、だめか」
そう言って眉尻を下げて笑う顔が切なかった。
「あの時、僕は……花崎さんの苦しみに気付けなかった。彼女に幸せをもらうばかりで、何一つお返しできなかった……っ!」
脳裏によぎるのは、初出勤の日の千晶さんの言葉だ。
自分は『守れなかった』と彼は言った。
その言葉の裏にあったのはおそらくみもざさんのこと。そしてみもざさんの苦しみに気付けなかった、千晶さん自身に対する後悔――。
「んな下らねぇタラレバは、とっととどっかに捨てちまえ」
千晶さんの独白にかぶせるようにして、蘇芳さんは言った。
「俺やおふくろが、一度でもンなクソつまんねぇこと言ったか? お前は『何もしてくれなかった』なんて、俺らや……姉貴が言うと思うか?」
「……っ」
千晶さんは短く息を吞むと、すっと視線を逸らし、黙り込んでしまった。
その目尻は赤く染まり、今にもこぼれそうな涙を必死に押し戻している。
……伝えなくちゃ。
私はその感情に突き動かされて、身体を千晶さんの方に向ける。
「――私……伝言を頼まれたんです……」
唐突な言葉に、千晶さんとその傍らの蘇芳さんが目を見開いた。
私はすうっと息を吸って、心を落ち着けながら……なるべくはっきりと口にする。
「もう、泣かなくていいんだよ、って……そう、伝えて欲しいと、言ってました……」
私の言葉を最後に、室内はしん、と静まり返っていた。
じっと息を止め、物思いにふけっている様子の蘇芳さん。
千晶さんはその隣でずっと下を向いていて、私からはその表情を伺い知ることができない。
ただ、スン、と何度か鼻をすする音が聞こえて……掠れた声が「ありがとう」と言った。
その言葉に、じんと胸があたたかくなり――同時に痛みのようなものを覚える。
――千晶さんのように、自分を責めてしまう気持ちはよくわかる。
それは母さんを亡くした時に、私自身が経験したことだ。
学校から帰宅した私は、家の中で冷たくなって倒れている母さんを見つけた。
もしもっと早く帰ってきていれば、学校に行っていなかったら——そんな幾千通りもの『もしも』を繰り返し考えてしまうのだ。亡くしたひとが大切であればあるほど。
だからこそ私は思う。
悲しみのふちにいる人をそっと支えるのがこのアリーヴェデルチなら、このひとたちが悲しい時、傷ついた時、誰が彼らを支えられるのだろう。
――こんなことを考えること自体、おこがましいのかもしれない。
けれど私はできることなら——彼らの背中をさする手になりたい。
私は胸元のスミレを握りしめながら祈った。
――できるだけ長い時間、このひとたちが笑っていられますように。
……このひとたちと、笑っていられますように、と。




