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第9話 水をどこから逃がすのか

雨が止んでから、三日が過ぎた。


 村に溜まった水は、ようやく少しずつ引き始めていた。


 畑の一部には泥が残り、倒れた作物もある。


 水路の一部は土砂で埋まり、木の水門にも流木が引っかかっていた。


 グスタフは村人たちを集めた。


「今回の被害について、話し合いたい」


 集まった農夫たちの顔には、疲れが残っている。


 レオンも父の隣に座っていた。


「水門は閉めた」


 グスタフが言った。


「それでも水は溜まった」


「なら、水門なんて作らなければよかったんじゃないか?」


 誰かが言った。


 別の農夫がすぐに反論する。


「水門がなかったら、川の水まで入ってきていたぞ」


「だが、閉めたせいで水が逃げなかった」


「開けたら川から逆流するだろう!」


 声が重なった。


 レオンは黙って聞いていた。


 どちらも間違っていない。


 だからこそ、難しい。


「今回の雨では、水門を閉める判断は間違っていなかったと思います」


 レオンが言った。


 村人たちが一斉にこちらを見る。


「じゃあ、何が悪かった?」


「水を逃がす場所がなかったことです」


「逃がす?」


「はい」


 レオンは地面に枝で簡単な絵を描いた。


 川。


 村。


 田畑。


 そして、その横に大きく丸を描く。


「ここに水を集めます」


「そこは……」


 一人の農夫が顔をしかめた。


「うちの畑だ」


 レオンは顔を上げた。


「はい」


「冗談じゃない」


 農夫の声が低くなった。


「そこは先祖代々の土地だ。毎年、作物を作っている」


「分かっています」


「水を溜める場所にするってことは、そこを水浸しにするんだろう?」


「大雨のときだけです」


「大雨のときだけでも同じだ!」


 怒鳴り声が響いた。


 レオンは反論しなかった。


 その土地で暮らしている人間からすれば、当然の話だった。


 自分の土地を犠牲にして、他人の土地を守る。


 そんなことを簡単に受け入れられるはずがない。


「では、別の場所にします」


 レオンが言った。


「どこだ?」


「……まだ分かりません」


 村人たちがざわついた。


 グスタフが口を開く。


「レオンは、土地の高さを見ている」


「高さ?」


「水が集まりやすい場所と、そうでない場所だ」


 グスタフは地面に描かれた図を見る。


「この辺りには、同じような低い土地がいくつもある」


「だが、どこも誰かの土地だ」


 その言葉に、誰も返事をしなかった。


     ◇


 数日後。


 レオンはグスタフとともに、周辺の村を歩いていた。


 今回の雨で水が溜まった場所。


 早く水が引いた場所。


 逆に、いつまでも水が残った場所。


 村人たちから話を聞いていく。


「ここは昔から水が溜まる」


「こっちは昔は田んぼじゃなかった」


「その向こうは、雨が降ると水が集まる」


「この辺りは昔、葦が生えていたな」


 レオンは一つ一つ覚えていった。


 そして気づく。


 水が溜まる場所には、理由がある。


 ただ低いだけではない。


 周囲よりわずかに低く、しかも水の流れが集まりやすい。


「父上」


「なんだ?」


「この辺りを、全部つなげる必要はないと思います」


「どういうことだ?」


「大きな水溜まりを一つ作るんじゃなくて、小さな場所をいくつか使うんです」


 グスタフが考える。


「一つの土地に、全部の水を集めない」


「はい」


「そうすれば、一つの村だけが損をすることもない」


「……たぶん」


「たぶん?」


「まだ、実際に水がどう動くか分からないので」


 グスタフは笑った。


「そこは正直だな」


     ◇


 しかし、問題は土地だけではなかった。


 隣村から使者が来た。


「こちらの村では、水を抜きたい」


 グスタフが聞く。


「どこへ?」


「川へ」


「今は川の水位が高い」


「だから水門を開けてほしい」


 レオンが口を挟んだ。


「今開けたら、川の水が入ってきます」


「だが、こちらの畑も水に浸かっている!」


「分かっています」


「なら、どうする?」


 レオンは答えられなかった。


 隣村の人間も困っている。


 こちらの村も困っている。


 川も高い。


 雨水も残っている。


 どこかへ水を動かせば、別の場所が困る。


 レオンは唇を噛んだ。


「……水を動かすだけでは駄目なんだ」


「何?」


 使者が聞き返す。


「水を動かす順番を決めないといけない」


 レオンは地面にもう一度、枝で線を引いた。


「雨が降ったとき、最初にどこへ水を集めるか」


 一本目の線。


「次に、どこへ流すか」


 二本目。


「川が低くなったら、そこから水を出す」


 三本目。


「そして、川が高いときは水門を閉める」


 最後に、水門を描く。


「つまり……」


 グスタフが呟く。


「水を捨てるのではなく、順番を決める」


「はい」


 レオンは頷いた。


「水には、行ってもらう場所と、待ってもらう場所が必要なんです」


 その言葉を聞いた農夫たちは、しばらく黙っていた。


 やがて、一人が言った。


「だが、その『待ってもらう場所』を誰の土地にする?」


 レオンは答えられなかった。


 それが、この問題の一番難しいところだった。


 水の流れは、地形を見れば分かる。


 だが、人の心は地形図には描かれていない。


 レオンは村の外へ目を向けた。


 今回の問題は、一つの水門では解決できない。


 一つの村だけでも解決できない。


 そして――。


 誰かの土地を守るために、別の誰かの土地を犠牲にするだけでは、長く続かない。


 ならば。


 水を受け止める土地を、どうやってみんなのものにするのか。


 その答えを、レオンはまだ知らなかった。

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