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第10話 水を受け止める土地

洪水から、一月ほどが過ぎた。


 雨はすっかり止み、村の人々は少しずつ普段の暮らしを取り戻し始めていた。


 だが、すべてが元通りになったわけではない。


「父上、ここです」


 レオンは、ぬかるんだ道の先で立ち止まった。


 十二歳になったレオンの足元には、まだ水が残っている。


 周囲の田畑では、とっくに水が引いているというのに、ここだけは妙に乾かない。


「確かに、ここだけ残っているな」


 グスタフも周囲を見回した。


 少し大きめの低地だった。


 雨が降れば水が集まる。


 そして一度たまると、なかなか消えない。


 だが、レオンが気になったのは、それだけではなかった。


「向こうを見てください」


 レオンが指差した。


 低地の向こう側には、大きな川が流れている。


 しかも、この土地は川に面していた。


「……川とつながっているのか?」


「たぶん、昔は」


 レオンはしゃがみ込み、地面を眺めた。


 水際の地形が、わずかに不自然だった。


 現在は草に覆われているが、低地から川へ向かって浅い窪みが続いている。


「父上。ここは、昔から水が集まる場所だったんじゃないでしょうか」


「そうかもしれんな」


 後ろからついてきた老人が口を挟んだ。


 村の古老、ハインツだった。


「わしが子供のころには、ここまで川の水が来たことがある」


「川から?」


「ああ。川が増水すると、この辺りまで水が入った。逆に、川の水が下がると、いつの間にか水も減っていた」


 レオンの目が輝いた。


「やっぱり……」


「何かわかったのか?」


 グスタフが尋ねる。


「ここは、水を受け止める場所だったんです」


 レオンは立ち上がった。


「大雨のとき、一度ここに水を逃がす。川が高いときには無理に川へ戻さない。川の水が下がったら、少しずつ戻す」


「つまり……」


「自然の池みたいなものです」


 グスタフは低地を見つめた。


「ならば、ここを洪水のときの水溜めに使えば……」


「待ってください」


 レオンはすぐに言った。


「ここは、誰の土地ですか?」


 グスタフの表情が止まった。


 ハインツも黙った。


 しばらくして、老人が答える。


「隣村の土地だ」


「やっぱり……」


 技術的には使える。


 だが、土地には持ち主がいる。


 田畑を水に浸ければ、その年の収穫を失うかもしれない。


 水を受け止めてもらう側と、そこで暮らす側。


 どちらにも言い分がある。


 レオンは黙って低地を見た。


「……簡単じゃないな」


「何がだ?」


「水を逃がすことです」


 レオンは川を見た。


「水のことだけ考えれば、ここはとても都合がいい。でも、人間のことまで考えると、そうはいかない」


 グスタフは頷いた。


「まずは隣村と話をする必要があるな」


「はい」


 その日の夕方。


 レオンは、村に滞在している二人の客のもとを訪ねた。


 数日前、川下から流れてきた小舟に乗っていた二人である。


 一人は、白髪の老魔導師。


 エドガル。


 もう一人は、レオンとほぼ同じ年頃の少年、リュート。


 二人は遠国から流れ着いた。


 エドガルは宮廷に仕えていた魔導師だったが、政争に巻き込まれ、政治犯として国外へ追放されたという。


 リュートは、その弟子。


 レオンには、それ以上のことはまだ分からない。


「エドガルさん」


「何だ?」


「魔道具って、作れますか?」


 エドガルは眉を上げた。


「一応、魔導師だからな」


「水を汲み上げる魔道具は?」


「水を?」


「はい」


 レオンは、低地のことを説明した。


 大雨のときには水を受け止める。


 川が高いときには、そのままにする。


 川の水位が下がったら、低地の水を川へ戻す。


 あるいは、別の場所へ水を送る。


「もし、水を低いところから高いところへ運べるなら……」


 レオンは少し考えた。


「水を逃がす場所を増やせます」


 エドガルは黙ってレオンを見た。


「できないことはない」


「本当ですか?」


「ああ」


 エドガルは杖の先で床を軽く叩いた。


「だが、難しい」


「どこがです?」


「まず、水を持ち上げるだけなら、それほど難しくない」


 エドガルは指を一本立てた。


「問題は量だ」


 二本目。


「次に、連続して動かすこと」


 三本目。


「そして、魔力だ」


「魔力?」


「魔道具は、魔力を食う。小さな水桶一杯ならともかく、田畑に溜まった大量の水を毎日動かすとなれば、話が違う」


 レオンは黙り込んだ。


「さらに、壊れたら誰が直す?」


 エドガルが続ける。


「魔導師しか扱えない道具では、村では使えん。部品が手に入らない道具も同じだ」


 レオンは思わず前世の記憶を思い出した。


 ポンプ場。


 電源。


 予備機。


 維持管理。


 点検。


 故障時の対応。


 そうだ。


 設備は作れば終わりではない。


「……じゃあ、もっと簡単なものなら?」


「簡単なもの?」


「水を少しだけ持ち上げる。人や家畜…例えばウシなどの力も使う。魔道具は、その手助けをするだけ」


 エドガルの目が変わった。


「なるほど」


「それなら?」


「可能性はある」


 エドガルは少し笑った。


「お前は、面白いことを考えるな」


「作れそうですか?」


「今すぐには無理だ」


 即答だった。


「だが、考える価値はある」


 その横で、黙って話を聞いていたリュートが口を開いた。


「師匠」


「何だ?」


「魔力を回転する力に変えることはできますよね?」


 エドガルが振り返る。


「できる」


「だったら、水車を回せるんじゃ?」


 レオンの目が輝いた。


「水車!」


 リュートは少し驚いた顔をする。


「え?」


「それなら、魔法で水を直接動かすんじゃなくて、魔道具で水車を回して……」


 レオンは地面に枝で図を描き始めた。


 水車。


 軸。


 羽根。


 水をすくう仕掛け。


 川。


 低地。


 エドガルが覗き込む。


「……お前、本当に十二歳か?」


「十二歳です」


「そういう意味ではない」


 リュートが吹き出した。


「変なヤツだなぁ」


「お互い様だろ」


「僕のどこが?」


「川から流れ着いてきたところ」


「それは僕のせいじゃない!」


 初めて、二人の間に笑い声が起きた。


 しかし、エドガルはすぐに真顔へ戻った。


「レオン」


「はい」


「一つだけ覚えておけ」


「何です?」


「魔法でできることと、魔法でやるべきことは違う」


 レオンは黙って聞いた。


「大きな水を動かすなら、水路を作る。水を止めるなら、水門を作る。魔道具は、それらを補うために使う」


「……土木と魔法を組み合わせる」


「そういうことだ」


 レオンは低地を思い浮かべた。


 水を受け止める土地。


 川。


 水門。


 そして、もしかすると水を汲み上げる魔道具。


 まだ何も完成していない。


 だが、選択肢が一つ増えた。


 翌朝。


 レオンは父に話した。


「父上。あの土地は、洪水のときに水を受け止める場所として使えるかもしれません」


「隣村の土地だぞ」


「だから、勝手には使いません」


「うむ」


「それと……水を汲み上げる魔道具を作れるかもしれません」


 グスタフは目を丸くした。


「魔道具?」


「まだ『できるかもしれない』だけです」


 レオンは答えた。


「でも、できれば水を逃がす方法が増えます」


 グスタフはしばらく考えた。


「ならば、隣村との話し合いと並行して、調べてみる価値はありそうだな」


「はい」


 レオンは頷いた。


 水を受け止める土地。


 水を止める水門。


 そして、水を汲み上げる魔道具。


 これまでレオンが一人で考えていた「水との付き合い方」に、初めて魔法という新しい道具が加わった。


 だが、問題はまだ残っている。


 その土地を誰が使うのか。


 水を誰が管理するのか。


 そして、費用や労力を誰が負担するのか。


 水は土地の境を知らない。


 ならば、人間の側が境を越えて話し合わなければならない。


 レオンは川を見つめた。


「……まずは、話し合いだな」


 その川下では、エドガルとリュートが暮らすことになった村の新しい一日が始まろうとしていた。

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