第8話 水は村の境を知らない
水門跡に、新しい木の水門が据えられた。
それから、何度か雨が降った。
小さな雨なら問題はなかった。
川の水位が低いうちに水門を開ける。
村に溜まった水を外へ流す。
川の水位が上がってきたら、水門を閉める。
それだけで、以前より土地に水が残る時間は短くなった。
「こいつは便利だな」
農夫たちも、次第に水門を信用するようになった。
だが、第七話の最後にグスタフが言ったように、問題は一つ残っていた。
水門を開け閉めするのは、この村だけの都合では決められない。
水は、村の境界線を知らないからだ。
◇
「それで、隣村に話をしに行く」
朝。
グスタフがそう言うと、レオンも同行を申し出た。
「俺も行きます」
「……お前もか」
「水門のことですから」
「十歳にもなっていない子供が、水利の話し合いに来るのか?」
「父上の息子ですから」
「その理屈は分からん」
グスタフは苦笑した。
しかし、結局レオンも連れていくことになった。
以前なら馬車の中で眠っていたレオンも、今では地図代わりの紙を膝に広げている。
もちろん、立派な地図などない。
村の位置。
川。
水門。
低い土地。
農地。
分かる範囲で書き込んだだけだ。
「ここが隣村か」
「はい」
「こちらから水が流れていく可能性があるな」
「逆もあります」
「……そうだな」
グスタフは紙を覗き込んだ。
「結局、水は行ったり来たりする」
「そういうことです」
「お前は本当に水の話になると饒舌だな」
レオンは少しだけ目をそらした。
前世で三十年近く水と付き合ってきた。
今さら「好きでやっている」と説明するのも妙だった。
◇
隣村の寄合所には、村の年長者たちが集まっていた。
「水門を作った?」
「ああ」
グスタフが説明する。
「川の水位が低いときには、村に溜まった水を外へ逃がす」
「それは結構なことだ」
だが、別の男が腕を組んだ。
「川が増水したら?」
「閉める」
「そのとき、そちらの村の水はどうなる?」
「……」
グスタフが黙った。
レオンは、その質問に答えた。
「溜まります」
「ほらな」
男が言った。
「では、こちらへ流れてくるのではないか?」
「可能性はあります」
「困るぞ」
「分かっています」
レオンは紙を広げた。
「だから、勝手に水門を開けないようにしたいんです」
「誰が決める?」
「両方の村で決めます」
「雨が降るたびに?」
「必要なら」
隣村の男たちは顔を見合わせた。
そんな仕組みを作ったことはない。
これまで水のことは、それぞれの村が、それぞれの経験で対処してきた。
「川の水位を記録しています」
レオンが続けた。
「雨が降った日も、上流で雨が降ったという知らせも残しています」
「なぜそんなことを?」
「いつ川が上がるのか、少しずつ分かってきたからです」
老人が口を挟んだ。
「……確かに、昔からそういう話はある」
「何かご存じですか?」
「大雨が降っても、すぐ川が増えるとは限らん」
「はい」
「上流で降れば、晴れていても川は増える」
「はい」
「そして、一度増えた川は、雨が止んでもすぐには戻らん」
レオンは頷いた。
「それです」
老人が怪訝そうな顔をする。
「それ?」
「今の話を、記録に残したいんです」
レオンは少し笑った。
「知っている人が覚えているだけでは、その人がいなくなったら終わります。でも、書いて残せば次の人も使えます」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、
「変な子供だ」
と笑った。
「だが、言っていることは分かる」
◇
その日を境に、二つの村で水の情報を伝え合うようになった。
川が増えた。
上流で大雨が降った。
水門を閉めた。
水が引いた。
最初は口頭だった。
やがて簡単な記録が残されるようになった。
それはまだ制度と呼べるものではない。
だが、村人たちは少しずつ理解し始めていた。
水は、自分たちの村だけの問題ではない。
◇
そして、数年が過ぎた。
レオンは十二歳になっていた。
水門の扱いにも慣れた。
川の水位を見れば、以前より先のことを考えられる。
村人たちも、レオンの記録を馬鹿にしなくなっていた。
むしろ、
「坊主、今日は川が上がるか?」
などと聞いてくる。
「上がると思います」
「なぜ?」
「上流で雨が降っているからです」
「なるほどな」
そんな会話が日常になっていた。
だが――。
その夏。
これまで経験したことのないほどの雨が降った。
◇
最初の二日は、ただの長雨だった。
三日目。
上流からの知らせが届いた。
「向こうでも雨が続いているそうです」
グスタフが記録板を見る。
「川が上がってきた」
「水門を閉めましょう」
レオンが言った。
「分かった」
村人たちが水門へ走った。
木の板が下ろされる。
川からの水は、ひとまず止まった。
「これで大丈夫だ」
誰かが言った。
レオンは首を横に振った。
「まだです」
「何がだ?」
「雨が止んでいません」
その言葉どおり、雨は降り続いていた。
村の中へ雨水が集まる。
田畑からも水が流れてくる。
低い土地には、みるみる水が溜まっていった。
「水門を閉めたのに……」
農夫が呟く。
「水が減らんぞ」
当然だった。
川が高い。
だから水門は開けられない。
しかし、村に降った雨は行き場を失う。
「父上」
「分かっている」
グスタフも険しい顔をしていた。
「水門を閉めれば、川からの水は防げる」
「でも、村の水は外へ出せない」
「ああ」
レオンは周囲を見回した。
水は低い場所へ集まっている。
水路も満ちている。
さらに悪いことに、隣村からも水が流れてきていた。
「隣村も大変でしょうね」
レオンが言った。
そこへ、ずぶ濡れの男が走ってきた。
「隣村からです!」
「どうした?」
「向こうも水が溜まっている! こちらへ流れているところもある!」
レオンは目を閉じた。
そして、すぐに開いた。
「……やっぱりだ」
「何がだ?」
「水は村の境を知らない」
グスタフが黙る。
「こちらだけ水門を管理しても駄目なんです」
レオンは濁った水を見た。
「隣村から来る水もある。こっちから流れていく水もある」
「では、どうする?」
レオンは答えられなかった。
水門を開ければ、川の水が入ってくる。
閉めれば、村の水が溜まる。
水路を広げても、川そのものが高ければ出口にならない。
「……水門だけでは足りない」
初めて、その事実をはっきり認めた。
◇
夕方になって、ようやく雨が弱くなった。
川はまだ高い。
水門は閉じたままだ。
村の中に残った水は、少しずつしか減らない。
レオンは水の溜まった低地に立っていた。
「ここを……」
レオンは呟いた。
「水の逃げ場にする」
「何?」
グスタフが聞き返す。
「川が高いときは、水を外へ出せない」
「そうだ」
「だったら、無理に出そうとしない」
レオンは水面を見る。
「一度、どこかに受け止めるんです」
「水を?」
「はい」
「そんな土地を作るのか?」
「作るというより……」
レオンは辺りを見渡した。
「もともと、水が集まる場所を使うんです」
グスタフは黙って考えた。
農地として使える土地は、すべて農地にしたい。
それは当然だ。
だが、毎年のように洪水で作物を失うなら、それも意味がない。
「普段は畑として使う」
レオンが続ける。
「でも、大雨のときだけ水を受け止める場所にする」
「……なるほど」
グスタフは低地を見つめた。
「しかし、そんな土地を使えば、その分だけ収穫は減るぞ」
「分かっています」
レオンは頷いた。
「だから、村だけで決めちゃいけない」
隣村のほうを見る。
「どこで水を受け止めるか。どこへ流すか。水門をいつ閉めるか」
レオンは静かに言った。
「みんなで決めないといけないんです」
グスタフは息子の横に立った。
そして、しばらく水面を眺めていた。
「……大きな話になってきたな」
「はい」
「最初は、あの古い水門跡をどうするかという話だったのに」
「そうですね」
レオンは苦笑した。
「水って、面倒ですね」
「今さら気づいたのか?」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
だがレオンには分かっていた。
これから先は、もう一つの村だけの話ではない。
水を巡って、村と村の利害がぶつかる。
農地を守るためには、誰かが水を受け止めなければならない。
そして、その負担を誰が引き受けるのか。
それを決めなければならない。
水は村の境を知らない。
ならば、人間のほうが境を越えて考えるしかない。
レオンは、初めてそう思った。




