↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/10

第8話 水は村の境を知らない

水門跡に、新しい木の水門が据えられた。


 それから、何度か雨が降った。


 小さな雨なら問題はなかった。


 川の水位が低いうちに水門を開ける。


 村に溜まった水を外へ流す。


 川の水位が上がってきたら、水門を閉める。


 それだけで、以前より土地に水が残る時間は短くなった。


「こいつは便利だな」


 農夫たちも、次第に水門を信用するようになった。


 だが、第七話の最後にグスタフが言ったように、問題は一つ残っていた。


 水門を開け閉めするのは、この村だけの都合では決められない。


 水は、村の境界線を知らないからだ。


     ◇


「それで、隣村に話をしに行く」


 朝。


 グスタフがそう言うと、レオンも同行を申し出た。


「俺も行きます」


「……お前もか」


「水門のことですから」


「十歳にもなっていない子供が、水利の話し合いに来るのか?」


「父上の息子ですから」


「その理屈は分からん」


 グスタフは苦笑した。


 しかし、結局レオンも連れていくことになった。


 以前なら馬車の中で眠っていたレオンも、今では地図代わりの紙を膝に広げている。


 もちろん、立派な地図などない。


 村の位置。


 川。


 水門。


 低い土地。


 農地。


 分かる範囲で書き込んだだけだ。


「ここが隣村か」


「はい」


「こちらから水が流れていく可能性があるな」


「逆もあります」


「……そうだな」


 グスタフは紙を覗き込んだ。


「結局、水は行ったり来たりする」


「そういうことです」


「お前は本当に水の話になると饒舌だな」


 レオンは少しだけ目をそらした。


 前世で三十年近く水と付き合ってきた。


 今さら「好きでやっている」と説明するのも妙だった。


     ◇


 隣村の寄合所には、村の年長者たちが集まっていた。


「水門を作った?」


「ああ」


 グスタフが説明する。


「川の水位が低いときには、村に溜まった水を外へ逃がす」


「それは結構なことだ」


 だが、別の男が腕を組んだ。


「川が増水したら?」


「閉める」


「そのとき、そちらの村の水はどうなる?」


「……」


 グスタフが黙った。


 レオンは、その質問に答えた。


「溜まります」


「ほらな」


 男が言った。


「では、こちらへ流れてくるのではないか?」


「可能性はあります」


「困るぞ」


「分かっています」


 レオンは紙を広げた。


「だから、勝手に水門を開けないようにしたいんです」


「誰が決める?」


「両方の村で決めます」


「雨が降るたびに?」


「必要なら」


 隣村の男たちは顔を見合わせた。


 そんな仕組みを作ったことはない。


 これまで水のことは、それぞれの村が、それぞれの経験で対処してきた。


「川の水位を記録しています」


 レオンが続けた。


「雨が降った日も、上流で雨が降ったという知らせも残しています」


「なぜそんなことを?」


「いつ川が上がるのか、少しずつ分かってきたからです」


 老人が口を挟んだ。


「……確かに、昔からそういう話はある」


「何かご存じですか?」


「大雨が降っても、すぐ川が増えるとは限らん」


「はい」


「上流で降れば、晴れていても川は増える」


「はい」


「そして、一度増えた川は、雨が止んでもすぐには戻らん」


 レオンは頷いた。


「それです」


 老人が怪訝そうな顔をする。


「それ?」


「今の話を、記録に残したいんです」


 レオンは少し笑った。


「知っている人が覚えているだけでは、その人がいなくなったら終わります。でも、書いて残せば次の人も使えます」


 老人はしばらく黙っていた。


 やがて、


「変な子供だ」


 と笑った。


「だが、言っていることは分かる」


     ◇


 その日を境に、二つの村で水の情報を伝え合うようになった。


 川が増えた。


 上流で大雨が降った。


 水門を閉めた。


 水が引いた。


 最初は口頭だった。


 やがて簡単な記録が残されるようになった。


 それはまだ制度と呼べるものではない。


 だが、村人たちは少しずつ理解し始めていた。


 水は、自分たちの村だけの問題ではない。


     ◇


 そして、数年が過ぎた。


 レオンは十二歳になっていた。


 水門の扱いにも慣れた。


 川の水位を見れば、以前より先のことを考えられる。


 村人たちも、レオンの記録を馬鹿にしなくなっていた。


 むしろ、


「坊主、今日は川が上がるか?」


 などと聞いてくる。


「上がると思います」


「なぜ?」


「上流で雨が降っているからです」


「なるほどな」


 そんな会話が日常になっていた。


 だが――。


 その夏。


 これまで経験したことのないほどの雨が降った。


     ◇


 最初の二日は、ただの長雨だった。


 三日目。


 上流からの知らせが届いた。


「向こうでも雨が続いているそうです」


 グスタフが記録板を見る。


「川が上がってきた」


「水門を閉めましょう」


 レオンが言った。


「分かった」


 村人たちが水門へ走った。


 木の板が下ろされる。


 川からの水は、ひとまず止まった。


「これで大丈夫だ」


 誰かが言った。


 レオンは首を横に振った。


「まだです」


「何がだ?」


「雨が止んでいません」


 その言葉どおり、雨は降り続いていた。


 村の中へ雨水が集まる。


 田畑からも水が流れてくる。


 低い土地には、みるみる水が溜まっていった。


「水門を閉めたのに……」


 農夫が呟く。


「水が減らんぞ」


 当然だった。


 川が高い。


 だから水門は開けられない。


 しかし、村に降った雨は行き場を失う。


「父上」


「分かっている」


 グスタフも険しい顔をしていた。


「水門を閉めれば、川からの水は防げる」


「でも、村の水は外へ出せない」


「ああ」


 レオンは周囲を見回した。


 水は低い場所へ集まっている。


 水路も満ちている。


 さらに悪いことに、隣村からも水が流れてきていた。


「隣村も大変でしょうね」


 レオンが言った。


 そこへ、ずぶ濡れの男が走ってきた。


「隣村からです!」


「どうした?」


「向こうも水が溜まっている! こちらへ流れているところもある!」


 レオンは目を閉じた。


 そして、すぐに開いた。


「……やっぱりだ」


「何がだ?」


「水は村の境を知らない」


 グスタフが黙る。


「こちらだけ水門を管理しても駄目なんです」


 レオンは濁った水を見た。


「隣村から来る水もある。こっちから流れていく水もある」


「では、どうする?」


 レオンは答えられなかった。


 水門を開ければ、川の水が入ってくる。


 閉めれば、村の水が溜まる。


 水路を広げても、川そのものが高ければ出口にならない。


「……水門だけでは足りない」


 初めて、その事実をはっきり認めた。


     ◇


 夕方になって、ようやく雨が弱くなった。


 川はまだ高い。


 水門は閉じたままだ。


 村の中に残った水は、少しずつしか減らない。


 レオンは水の溜まった低地に立っていた。


「ここを……」


 レオンは呟いた。


「水の逃げ場にする」


「何?」


 グスタフが聞き返す。


「川が高いときは、水を外へ出せない」


「そうだ」


「だったら、無理に出そうとしない」


 レオンは水面を見る。


「一度、どこかに受け止めるんです」


「水を?」


「はい」


「そんな土地を作るのか?」


「作るというより……」


 レオンは辺りを見渡した。


「もともと、水が集まる場所を使うんです」


 グスタフは黙って考えた。


 農地として使える土地は、すべて農地にしたい。


 それは当然だ。


 だが、毎年のように洪水で作物を失うなら、それも意味がない。


「普段は畑として使う」


 レオンが続ける。


「でも、大雨のときだけ水を受け止める場所にする」


「……なるほど」


 グスタフは低地を見つめた。


「しかし、そんな土地を使えば、その分だけ収穫は減るぞ」


「分かっています」


 レオンは頷いた。


「だから、村だけで決めちゃいけない」


 隣村のほうを見る。


「どこで水を受け止めるか。どこへ流すか。水門をいつ閉めるか」


 レオンは静かに言った。


「みんなで決めないといけないんです」


 グスタフは息子の横に立った。


 そして、しばらく水面を眺めていた。


「……大きな話になってきたな」


「はい」


「最初は、あの古い水門跡をどうするかという話だったのに」


「そうですね」


 レオンは苦笑した。


「水って、面倒ですね」


「今さら気づいたのか?」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、同時に笑った。


 だがレオンには分かっていた。


 これから先は、もう一つの村だけの話ではない。


 水を巡って、村と村の利害がぶつかる。


 農地を守るためには、誰かが水を受け止めなければならない。


 そして、その負担を誰が引き受けるのか。


 それを決めなければならない。


 水は村の境を知らない。


 ならば、人間のほうが境を越えて考えるしかない。


 レオンは、初めてそう思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。