第五話 水の癖を知る
それから、季節が二つ過ぎた。
三歳だったレオンは、いつの間にか四歳になっていた。
背は少し伸びた。
食べる量も増えた。
そして何より――。
「父上」
「なんだ?」
「昨日より川が高い」
「……そうか」
グスタフは、もはや驚かなくなっていた。
屋敷の壁には、川の水位を記録するための板が掛けられている。
朝と夕方。
村人が川へ行き、印をつけてくる。
雨が降った日。
晴れた日。
上流で雨が降ったという話を聞いた日。
レオンは、それらを一つずつ書き留めていた。
もちろん、四歳児が書くには字が小さく、曲がっている。
そのため実際に記録を整理しているのは、父の部下だった。
「雨が降っていないのに、川が上がってる」
ある日、レオンが言った。
グスタフが記録を見る。
「確かに」
「昨日、村では雨が降ってない」
「上流では降ったらしい」
「じゃあ、川は上から来る」
「当たり前だろう」
グスタフが笑う。
レオンも笑った。
「でも、みんな知ってることと、記録して分かることは違う」
「……それはそうだな」
最初は誰も気にしていなかった。
だが半年も経つと、少しずつ変化が出てきた。
「雨の翌日じゃない」
「二日後に上がることもある」
「上流で大雨が降ったときは、こっちは晴れていても危ない」
「川が下がるのにも時間がかかる」
村人たちが、自分から川の話をするようになった。
レオンはそれが嬉しかった。
水のことを一番よく知っているのは、毎日その水と暮らしている人たちなのだ。
◇
ある春の日。
レオンは、以前見つけた古い水路跡に立っていた。
「ここ、まだ水が残ってる」
足元の土を踏む。
ぬかるんだ。
だが、昔より少し乾いている。
「川の記録を始めてから、ここの水も減ってきたな」
グスタフが言う。
「うん」
しかし、古い水路をいきなり掘り直すつもりはなかった。
大きすぎる。
失敗したら、別の場所へ水が流れるかもしれない。
そこでレオンは別の場所を指した。
「こっち」
「何をする?」
「小さく掘ってみたい」
「水路を?」
「うん」
そこは、村の外れにある小さなくぼ地だった。
雨が降ると水が溜まる。
しかし古い水路とはつながっていない。
「ここから、あっちの乾いた場所まで」
レオンが指を伸ばす。
「ほんの少しだけ」
グスタフは考えた。
「試すのか」
「試す」
「失敗するかもしれんぞ」
「だから小さくする」
グスタフは笑った。
「なるほど」
◇
翌日。
村人が数人集まった。
「坊ちゃん、本当にこんな細い溝でいいのか?」
「最初はいい」
「水なんか流れるか?」
「流れなかったら、やめる」
「えらく簡単だな」
「簡単なことからやる」
鍬が土に入った。
ざく。
ざく。
少しずつ土が掘られていく。
レオンは横で見ていた。
土の色。
湿り具合。
水が染み出してくる場所。
そして、掘った土をどこへ置くか。
前世なら、もっと正確な道具を使っていた。
だが今はない。
ならば、目の前にあるものを使うしかない。
「そこ、少し浅く」
「浅く?」
「うん。深くしすぎると、そこだけ水が集まる」
「分かった」
村人が掘り直す。
やがて、小さな溝が完成した。
「これで終わりか?」
「うん」
「水は?」
「雨を待つ」
「……待つのか」
「待つ」
村人たちは顔を見合わせた。
「坊ちゃん、妙な仕事だな」
レオンは胸を張った。
「水は急かすと怒る」
「誰に聞いたんだ、そんなこと」
「……夢」
「また夢か」
グスタフが苦笑した。
◇
三日後。
雨が降った。
春の、たいしたことのない雨だった。
翌朝。
レオンは真っ先に外へ出た。
「どうだ?」
グスタフが後ろから声をかける。
「見て」
小さな溝に、水が流れていた。
ほんのわずかだった。
だが確かに、くぼ地から乾いた土地へ向かって流れている。
レオンはしゃがみ込んだ。
水はゆっくりと進み、やがて小さな土のくぼみに入った。
「流れた」
「流れたな」
グスタフも頷く。
村人たちも集まってきた。
「本当に流れたぞ」
「こんな細い溝で?」
「昨日の雨だけで、あの水溜まりが半分になってる」
誰かが呟いた。
レオンは笑った。
大きな水路ではない。
立派な堤防でもない。
ましてや、昔の水路を復活させたわけでもない。
それでも。
一つの場所から、水が動いた。
それだけで十分だった。
「父上」
「なんだ?」
「次は、もう少し長くしてみたい」
グスタフは溝を見る。
そして、少し先にある広い湿地を見た。
「……急ぐなよ」
「分かってる」
「本当に分かっているか?」
「たぶん」
「そこは『分かってる』と言え」
レオンは笑った。
◇
その年の秋。
村では、今まで水が溜まりやすかった場所の一部が、少しだけ畑として使えるようになった。
収穫は多くない。
劇的な変化でもない。
だが、村人たちは気づいていた。
水は、ただそこに溜まっているのではない。
道を作れば動く。
流れを邪魔すれば溜まる。
そして、動かしすぎれば別の場所が困る。
レオンもまた、それを実感していた。
「水を抜けばいい、だけじゃないんだな」
夕暮れ。
畑の端に立って、レオンは呟いた。
前世では何度も見てきたことだった。
だが、この世界で初めて、自分の手で確かめた。
小さな溝一本。
それだけでも、土地の表情は変わる。
ならば。
もっと大きな水路なら。
古い水路を使えるようになれば。
そして、川との間にある戸を再び動かせるようになれば――。
この土地は、変わるかもしれない。
ただし。
そのためには、まだ知らなければならないことがある。
どこへ水を流すのか。
どこまでなら流していいのか。
そして――。
「水が多すぎるときは、どうするか」
レオンは、遠くの川を見た。
答えはまだ見えない。
けれど、以前より少しだけ。
水のことが分かってきた気がした。




