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第四話 水は低い方へ流れる――とは限らない

第四話 水は低い方へ流れる――とは限らない


 翌朝。


 まだ太陽が高くなる前から、屋敷の前に馬車が用意されていた。


「本当に行くのか?」


 御者がレオンを見る。


「行く」


「川まで?」


「うん」


「……三歳の坊ちゃんが?」


「三歳だけど」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 御者は困った顔をした。


 結局、グスタフが同行することになった。


「こいつが言い出したことだ。最後まで付き合う」


「父上、ありがとう」


「ただし、川に近づきすぎるな」


「分かってる」


「昨日も同じことを言った気がするがな」


 グスタフはため息をついた。


     ◇


 馬車は、村を抜け、草原を抜け、ゆるやかな坂を下っていった。


 途中から道は悪くなった。


 車輪が泥にはまるたび、御者が舌打ちする。


「この辺りは昔からこんな道なのか?」


 グスタフが尋ねる。


「雨が降るとひどくなります」


 御者が答えた。


「水が溜まるので」


 レオンは窓から外を見た。


 道の両側に水が残っている。


 しかし、道より低い場所にあるはずの水田にも水が溜まっている。


 そして、その先にはさらに低い土地がある。


「……変だな」


「何が?」


「水が、下に行ってない」


 グスタフが外を見る。


「確かに」


 レオンは考えた。


 単純に地面の高さだけで決まるなら、水はもっと先へ流れているはずだ。


 なのに流れない。


 ということは――


「川が高いのかもしれない」


「川が?」


「うん」


 グスタフは少し考えた。


「土地より川のほうが高くなることがあるのか?」


「雨がいっぱい降ったら」


 レオンは答えた。


「川の水が増えたら、流れなくなる」


 グスタフは黙った。


 やがて、


「なるほど」


 とだけ言った。


     ◇


 昼前。


 馬車が止まった。


「着きました」


 御者の声。


 レオンは飛び降りようとした。


「待て」


 グスタフに襟をつかまれた。


「走るな」


「走ってない」


「今、走ろうとした」


「……ちょっとだけ」


「昨日のことをもう忘れたのか」


 泥に沈んだ記憶がよみがえる。


「忘れてない」


「ならよし」


 二人はゆっくり川へ向かった。


 そして。


 レオンは言葉を失った。


「……大きい」


 川だった。


 これまで見たことのないほど大きな川。


 対岸が遠い。


 水面は広く、流れも速い。


 昨日まで見ていた湿地とは、まるで別の世界だった。


 レオンは川岸に立ち、じっと水面を見る。


 水は流れている。


 当然だ。


 だが、その水面の高さを見た瞬間。


 頭の中で一本の線がつながった。


「父上」


「なんだ?」


「あの水路……」


「うん」


「川の水が高いとき、どうするの?」


 グスタフは答えられなかった。


「どうするって?」


「水を出したいのに、川のほうが高かったら?」


 沈黙。


 レオンは川と背後の土地を交互に見た。


 もし昔の水路が本当にここまでつながっていたなら。


 普段は水を川へ流せる。


 しかし大雨のとき。


 川の水位が上がる。


 すると、水路から川へ出られなくなる。


 それどころか――


「逆に入ってくる」


 レオンが呟いた。


「何が?」


「川の水」


 グスタフの顔色が変わった。


「……それはまずいな」


「うん」


 レオンは川岸を見た。


 泥の跡。


 流木。


 草に引っかかった枯れ枝。


 水がここまで来た痕跡が残っている。


「父上」


「なんだ?」


「この川、大きくなったことある?」


「ある」


 グスタフは即答した。


「何度もだ」


「どのくらい?」


「年による」


「村まで来たことは?」


「……ある」


 レオンは黙った。


 それなら話は簡単ではない。


 昔の水路を掘り返す。


 水が流れる。


 土地が乾く。


 めでたしめでたし。


 そんな話ではない。


 川が低いときには水を出したい。


 川が高いときには水を入れたくない。


 つまり――


「戸が必要だったんだ」


「マルタが言っていた、木の戸か」


「うん」


 レオンは頷いた。


「水を出すときは開ける」


「川が高くなったら閉める」


「そう」


 グスタフは川を眺めた。


「しかし、そんなものが本当にあったのか?」


「たぶん」


 レオンは答えた。


「水路だけなら、わざわざ戸の話は残らないと思う」


「なるほどな」


 グスタフは感心した。


 しかしレオンは浮かれていなかった。


「でも」


「まだ何かあるのか?」


「戸だけじゃ駄目」


「なぜだ?」


「川がどれくらい高くなるか分からない」


 グスタフが黙った。


「いつ閉める?」


「……そうだな」


「川が高くなってからじゃ遅いかもしれない」


 レオンは川を見た。


 水は何も答えない。


 ただ、一定の速さで流れている。


 レオンは前世を思い出した。


 河川の現場では、水位を記録することが当たり前だった。


 何時に、どこまで上がったか。


 雨が降ったあと、どのくらいで上がったか。


 どのくらいで下がったか。


 そうした記録が積み重なって、初めて川の癖が見えてくる。


 しかし、この世界にはそんな記録がない。


「父上」


「なんだ?」


「川の高さを覚えたい」


「覚える?」


「うん」


「どうやって?」


 レオンは少し考えた。


 そして川岸に落ちていた枝を拾った。


「これを立てる」


「それで?」


「水がここまで来たって、印をつける」


 グスタフは枝を見る。


「……それだけか?」


「最初はそれでいい」


 完璧な測定器具など必要ない。


 まずは、同じ場所で同じ基準を使う。


 昨日より高い。


 一昨日より低い。


 雨が降ったら上がる。


 上流で雨が降ったら、こちらでも上がるかもしれない。


 そうやって水の癖を知っていく。


 レオンは枝を川岸に突き刺した。


「ここから始めよう」


「本当にこれで分かるのか?」


「すぐには分からない」


「では、何のために?」


「分からないから、見る」


 グスタフはしばらく黙っていた。


 やがて笑った。


「お前は妙なことを言うな」


「そう?」


「だが、嫌いではない」


     ◇


 帰り道。


 馬車の中で、レオンは窓の外を眺めていた。


 昔の水路。


 湿った土地。


 そして、大きな川。


 全部がつながっている。


 問題は、一つだけではない。


 水を抜くには川を知らなければならない。


 川を知るには、時間をかけて見るしかない。


 そして、その川はこの土地だけのものではない。


 もっと上流から流れてくる。


 レオンは小さな手を膝の上で握った。


「水は……難しいな」


 前世でも何度もそう思った。


 だが今度は、図面も計算機もない。


 あるのは、目の前の土地と、村人たちの記憶だけ。


 だからこそ。


 まずは見る。


 聞く。


 記録する。


 それから考える。


 レオンは窓の外に流れていく景色を見ながら、そう決めた。

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