第二話 地図にない水の道
翌朝。
レオンは父グスタフに連れられて、昨日の水辺をもう一度訪れていた。
「父上」
「なんだ?」
「昨日のところ、やっぱり変だよ」
「何がだ?」
「水が、どこから来たのか分からない」
グスタフは苦笑した。
「雨が降れば水は溜まる。それだけではないのか?」
「それなら、雨がやんだら減るはず」
「……確かに」
昨日は雨が降っていた。
だが今朝は雨が上がっている。
それなのに、水面はほとんど変わっていなかった。
レオンはしゃがみ込んだ。
小さな手で泥を触る。
表面は湿っている。
だが、少し指を押し込むと、さらに下からじわりと水が染み出してきた。
「ここ、水が残ってるんじゃない」
「どういうことだ?」
「下からも来てる」
グスタフは眉をひそめた。
「地下から?」
「たぶん」
前世の知識が頭をよぎる。
水が抜けない土地には、いくつもの理由がある。
低い。
出口がない。
土が水を通しにくい。
地下から水が上がる。
あるいは、それらが全部重なっている。
ここは、その可能性が高そうだった。
しかし。
レオンは周囲を見回した。
「父上」
「今度は何だ」
「あそこ、草が違う」
少し離れた場所に、細長く草が生えていない場所があった。
幅は人が二人並んだほど。
そこだけ、周囲よりわずかに低い。
「道ではないか?」
グスタフが言った。
「人が歩いた跡かもしれん」
「違うと思う」
レオンはその低い場所を眺めた。
低い場所は、水が流れた跡に似ていた。
しかし、今はほとんど流れていない。
その先には畑。
さらにその先には、小さな集落がある。
「昔は水が流れてたんじゃないかな」
「昔?」
「うん」
グスタフは腕を組んだ。
「昔のことを知っている者なら、村にいる」
「聞いてみよう」
「お前が?」
「うん」
「……まあ、いいだろう」
二人は集落へ向かった。
◇
村の外れで、老人が一人、畑仕事をしていた。
グスタフが声をかける。
「ハインツ。少し聞きたいことがある」
「これは代官様」
老人は頭を下げた。
グスタフは昨日の水辺について尋ねた。
「この辺りに、昔、水路がなかったか?」
「水路?」
ハインツはしばらく考えた。
「そういや……昔はあったな」
レオンの目が輝いた。
「どこ?」
「坊ちゃん、そんなこと聞いてどうするんで?」
「水を流したい」
ハインツは目を丸くした。
グスタフが苦笑する。
「こいつは昨日から、あの水溜まりが気になって仕方ないらしい」
「水溜まりじゃねえ」
ハインツが言った。
「昔は、あそこから水が流れてたんだ」
レオンが立ち上がった。
「どこへ?」
「西だ」
「その先は?」
「昔はもっと先まで行ったはずだ。だが、大水が出てから土砂が入り込んでな。いつの間にか水が流れなくなった」
「大水って、いつ?」
「わしが子供の頃だから……もう五十年近く前だ」
レオンは黙った。
五十年前。
前世の自分が生きてきた時間と、ほとんど同じだった。
「水路は、どうなったの?」
「埋まった。誰も使わなくなったからな」
「じゃあ、掘ればいい?」
「坊ちゃん、それが簡単なら、とっくに掘ってる」
ハインツが笑った。
「水はな、好き勝手に流れねえんだ」
その言葉に、レオンは思わず笑った。
「そうだね」
まったく、その通りだ。
水は、人間の都合など考えてくれない。
高いところから低いところへ流れる。
途中に土があれば、そこへ染み込む。
出口が塞がれば、別の場所へ回る。
無理に押し込めれば、堤防を越えることだってある。
だからこそ。
レオンは埋もれた水路の先を見た。
「掘る前に、探そう」
「何を?」
「水が、昔どこを通ってたか」
グスタフが頷いた。
「なるほどな」
レオンは少し驚いた。
「父上、信じるの?」
「信じるというより、確かめる価値はある」
グスタフはハインツを見る。
「昔の水路を知っている者を集められるか?」
「何人かなら」
「頼む」
ハインツは頷いた。
「しかし、坊ちゃん」
「なに?」
「水路を掘るんなら、覚悟しといたほうがいい」
「どうして?」
「水路ってのは、掘ったら終わりじゃねえからだ」
老人は泥のついた鍬を持ち上げた。
「水が流れりゃ、土も動く。草も生える。詰まる。壊れる。それをずっと面倒見なきゃならん」
レオンは黙って聞いた。
前世でも、同じことを何度も経験した。
造った瞬間が完成ではない。
むしろ、そこからが始まりなのだ。
「……うん」
レオンは答えた。
「だから、ちゃんと考える」
その日の夕方。
グスタフの屋敷には、村の年寄りたちが集まっていた。
古い水路の話。
昔の洪水。
どこが深かったか。
どこで水が溢れたか。
どの畑が毎年濡れたか。
どこに昔の橋があったか。
話を聞いていくうちに、レオンの頭の中に少しずつ地図ができていく。
紙の上には何も描かれていない。
けれど。
人の記憶の中には、確かに水の道が残っていた。
レオンはその夜、粗末な紙に一本の線を引いた。
昨日まで、ただの水溜まりだと思っていた場所から。
西へ。
細く、曲がりながら。
昔の水路を示す一本の線。
「……ここを探せばいい」
レオンは呟いた。
まだ三歳の小さな手で描いた線だった。
だがそれは、この土地にもう一度、水の道を見つけるための最初の一歩だった。




