第一話 泥の中で、五十年分の知識が蘇った
雨が降っていた。
六月の終わりから降り続いている雨は、今日になってさらに勢いを増していた。
「高瀬さん、もう戻りませんか」
若い同僚が、少し離れた場所から声をかけてくる。
「いや、あと五分」
「さっきもそう言ってましたよね」
「大丈夫、大丈夫。ここだけ見ておきたいんだ」
高瀬恒一、五十歳。
河川と水路の調査や改修を専門にしてきた、現場経験三十年の技術者だった。
大雨のたびに現場へ出るのは、もはや習慣のようなものだった。
今日も排水路の様子を確認していた。
水路の水位はかなり上がっている。
この雨なら、上流からさらに水が来る。
「うーん……やっぱり、この断面じゃ厳しいな」
恒一はしゃがみ込み、水路を眺めた。
そのときだった。
「あ」
水路の向こう側に、一羽のカモがいた。
雨の中を、妙に悠々と歩いている。
「お前、そんなところにいるのか」
恒一は思わず立ち上がった。
「高瀬さん?」
「いや、あのカモ」
「カモ?」
「危ないだろ、あれ」
「いや、カモより高瀬さんのほうが危ないですよ」
「大丈夫だって」
恒一は、水路脇のぬかるんだ場所へ一歩踏み出した。
カモは逃げた。
「おーい。待て待て」
もう一歩。
カモはさらに先へ行く。
「そんな逃げるなよ」
さらに一歩。
そこで、恒一の右足がずぶりと沈んだ。
「……あれ?」
同僚の声が飛んできた。
「高瀬さん!」
「いや、ちょっと待って。これ、思ったより軟らか――」
ずぶっ。
左足まで沈んだ。
「……これはまずいな」
「だから戻ろうって言ったじゃないですか!」
「いや、これは地盤の問題であってだな……」
「今それ言います!?」
恒一は足を抜こうとした。
しかし、焦って動けば動くほど泥がまとわりつく。
「ちょっと待て。こういう場合は慌てずに――」
その瞬間。
足元の土が崩れた。
「うわっ!」
身体が大きく傾く。
目の前を濁った水が流れていく。
同僚が手を伸ばす。
「高瀬さん!」
恒一は反射的に叫んだ。
「カモは!?」
「知りませんよ!」
それが、最後に聞いた言葉だった。
◇
――まったく。
目を覚ましたとき、恒一はまずそう思った。
自分は死んだ。
そこだけは分かった。
なのに。
「……ここ、どこだ?」
声が妙に高い。
身体もおかしい。
腕を見る。
小さい。
手も小さい。
足も小さい。
どう考えても五十歳の男の身体ではない。
「……え?」
周囲には、見たことのない景色が広がっていた。
草。
水。
湿った土。
遠くには粗末な家々。
そして、妙に広い水面。
湖のようにも見える。
そのとき。
頭の中に、これまで生きてきた五十年分の記憶が一気に押し寄せてきた。
大学で学んだこと。
土木の現場。
河川。
堤防。
水路。
排水機場。
洪水。
地盤。
測量。
住民との話し合い。
そして、さっきの雨。
カモ。
泥。
「……俺、死んだのか」
理解するのに、しばらくかかった。
だが、それ以上に奇妙なのは――
自分の身体が三歳くらいの子供になっていることだった。
「なんでだよ……」
当然、答える者はいない。
しかも、記憶の中にはもう一つ、自分にはこの世界で「レオン」という名前があることまで入っていた。
レオン。
この世界での自分の名前。
「……レオン、か」
口にすると、妙にしっくりきた。
そのとき。
「レオン!」
遠くから男の声がした。
振り返る。
こちらへ走ってくる大柄な男がいる。
「父上……?」
レオンの口から、自然に言葉が出た。
男は代官グスタフ。
この土地を治めている人物であり、レオンの父親だった。
「こんなところで何をしている!」
「え?」
「水辺に近づくなと、何度言えば分かる!」
怒鳴られた。
レオンは少し縮こまった。
「ごめんなさい……」
グスタフはため息をついた。
「まったく。目を離すとすぐこれだ」
そう言って、レオンの手を取る。
その瞬間。
レオンは、水面の向こうを見た。
広い。
あまりにも広い。
だが、どうしても気になる。
水面そのものよりも、その周囲の地形だった。
「父上」
「なんだ」
「あそこ、水がいっぱいあるのに……湖じゃないよ」
グスタフが振り返る。
「何?」
「水が、たまってる」
レオンは周囲を見渡した。
土地が低い。
水が集まっている。
しかし、明確な流れが見えない。
水が逃げる場所が少ない。
現場を見てきた人間なら分かる。
これは湖ではない。
水が行き場を失っている土地だ。
「ここ、雨が降るともっと水が増えるよ」
「……そうだな」
「水を出すところが必要」
グスタフは黙った。
「なぜ、そう思う?」
「……夢で見た」
レオンは即答した。
前世のことを話すわけにはいかない。
そもそも、話したところで信じてもらえるはずがない。
「夢?」
「うん」
グスタフはしばらく息子の顔を見つめた。
やがて苦笑する。
「変な夢を見るものだな、お前は」
「うん」
それで話は終わった。
レオンは胸をなで下ろした。
――危なかった。
だが、問題は別にある。
目の前の土地だ。
前世の知識が正しければ、ここには大きな問題がある。
水が多い。
土地が低い。
排水する道が少ない。
そして、ここに住む人々は、おそらく長い間この水と付き合ってきた。
だったら。
「……まず、水の道を探さないと」
「何か言ったか?」
「ううん」
レオンは首を振った。
そして、水面をじっと見つめた。
五十年分の知識を持っている。
けれど、今の自分は三歳児だ。
道具もない。
図面もない。
測量器具もない。
人手もない。
そして何より、この土地で暮らしてきた人々の経験を、自分は何も知らない。
だから、いきなり何かを造るわけにはいかない。
まずは見る。
聞く。
歩く。
そして、水がどこから来て、どこへ行こうとしているのかを知る。
レオンは小さな手を握った。
「……水って、難しいな」
その言葉に、グスタフが笑った。
「三歳の子供が何を言っている」
「三歳だから分かるんだよ」
「それはもっと分からんな」
父に手を引かれながら、レオンはもう一度、水面を振り返った。
かつての人生では、五十年間、水と土を相手にしてきた。
そして今度は――
こんな小さな身体で、また水と向き合うことになった。
ただし今度は、誰も知らない土地で。
しかも、カモを追いかけて泥にはまるところからの再出発だった。




